「子育て」とは「自分育て」
よくこんな言葉を耳にする。
「女性は出産前後で大きな変化があるけど、男性は基本的には変わらない」
確かに男性は自分の腹を痛めて子供を産むわけではない。
この点だけは子供を産んで「母親」になる女性とは「一線」を画している。生物的にどうしようもない、越えられない事実だ。 どんなに頑張っても、男は「産めない」のだから。
だが、「変わらない」というのは本当だろうか?
子供にとって本当の「親」になるには「親になる」努力なしにはなり得ない、というのが私個人の考えだ。
男性だって女性だって「親」になること自体に何の違いがあるだろう(生理的な意味ではなく)?
今回は親になってどういった変化があったのか?という話を一児の親となった一人の男性として、勝手に述べたい。
正解か不正解かではなく、あくまで、こういった男性もいるんだという一例にしていただければ幸いだ。
私の息子は現在1歳半だが、歩き始めて、食事も一人で口に運ぶことはできるようになったが、目が離せるわけではない。いや、ますます目が離せなくなっている・・・
それに最近、イヤイヤ期が始まった。食事が嫌だなの、歩くのが嫌だの、これからが「子育て」本番な感じだ。
そんなまだ子育て1年生なわけだが、そんな私が、子供を持って現時点までにどう変わったのか? 自分なりに自己分析してみたところをご紹介したい。
子育てしてどういった点が自分育てになったのか?
では、親になる前後で具体的にどういった点において、私の中に変化があったのかを述べたい。
時間との向き合い方が変わった
子育てをしていると、一日の時間の多くが子供に割かれていく。
一人でいた頃よりも使える時間が少なくなるだろうことは私自身も想像していたが、
これが、自分一人で使える時間などほとんどなくなってしまうのだ。
子供の年齢にもよるのだろうが、特に乳幼児から幼児にかけては子供の食事の世話から排泄、何から何まで世話をしなければならない。
また、我家の場合は夫婦で分担している。平日の保育園の送迎に夕飯作りは私の役割だ。
私は9時頃に息子の寝かしつけを兼ねて一緒に就寝して、早い日には4時頃、遅くとも5時頃には起床する。
起床してから他の家族が起床する7時頃までを一番集中したいことに当てている(いわゆる「ゴールデンタイム」)。そして息子を保育園へ送ってから迎えに行くまでの数時間が持ち時間ということになる。
純粋に自分が使える時間(持ち時間)を意識できるようになった。
独身時代には会社に勤務する時間以外はほぼ全て自分の時間として使うことができた。
だが、肝心の時間の使い方に関しては現在よりもずっと下手であったと思うし、何より時間に対する意識が低かった。
それに若さもあるかもしれない。
これは私の場合なのかもしれないが、20代の頃の自分は「自分にはまだまだ時間がたくさんある」とどこかで思っていたし、「残された時間」に対する意識などなかったに等しい。
それが結婚し、子供も授かり、40代が近づいてくるこの頃となって、変わってきつつある。
一度、自分に残された時間がどれくらいあるのか、ざっくりと計算したことがあった。
あなたは生まれてから死ぬまで(平均寿命まで生きたとして)、どれだけの時間があるか考えたことはあるだろうか?
80歳頃まで生きたとして、約4000週間だそうだ。
私は『限りある時間の使い方』(オリバー・パークマン著)を読んでこの数字と初めて向き合うことになったのだが、それまでの自分は自分の「持ち時間」など意識したことがない愚かな人間であった。
70歳まで現役で働いた場合の働ける日数を計算してみると、これがビックリ。自分の場合は12000日弱しかなかった!(心の声:12000日もある!と思うようにしよう・・・うん、そうしよう)
なんてことだ!と嘆息している暇はない。かといって焦ってもいけない。
仕事ばかりではない。また家族との時間を「味わう」ことにも意識が向くようになったのは間違いない。
効率を考えるようになった
主に仕事について言えることだが、家族時間が欲しいと思えるようになったことで、より高い生産性を意識するようになったのは間違いない。
時間についての意識が変化したことに加えて、短い時間でいかに高いワークパフォーマンスができるかについての意識が高まったのだ。
できるだけ短い時間で高いパフォーマンスが出せる仕組みを作れないのか?と考えるうちに、仕組みづくりが大切なのだということも学んでいる(現在進行中)。
仕組みづくりに関してはまだまだ道半ばの身だが、日々考えるようになったことは、やはり子供の存在が大きいだろうと思う。
やはり、妻と子供と過ごす時間を大切にしたいからこそだ。
もう一つの視点を得ることができた
これはいくら言葉を尽くしたところで、親になった身でなければ得られない実感の一つとして「親視点」がある。
子供がいない頃の自分というのは、外で親子を見てもただの「親子」としか見えはしなかったし、注意を払うこともなかった。
自分の親の自分に対する気持ちにも気づけなかった。
それに、正直に言えば、私は子供が得意ではなかった。
それが、子供ができて育児に携わるようになって大きく変わった。
言うなれば、第三の目(親の目)を得ることになったのだ。
外を歩いていて他の親子を見ていても、どこかで観察している。
他の親が自身の子供に対してどのように接しているか?について敏感に察知するようになっている。
別に他の家族と自分の家族を比較しているわけではないのだが、自分と同じく父親であるその人の子供に対する態度が気になったりするのだ。
それだけ子供への接し方に興味を持てたからなのかもしれない。
すると、これまで(独身の頃はもとより子供を授かるまで)とは世界の見え方が変わった気がする(あくまで私個人の実感である)。
物事一つを見るにしても、これまでの視点に加えて、もう一つ別の視点を得られたように思うのだ。
ここに一つの商品があったとして、子供がいない頃の自分ならいいなと思って手に取ったとしても、今では子供にとってこれは危なくないだろうか?などといろいろ考えてしまうようになった。
それが、親視点と呼べるものなのかもしれない。
人は立場によって視点が大きく変わることを親になってまた教えられた気がする。
忍耐力がついた
頑張れるのは子供の存在が大きく影響している。間違いなく。
私の場合は、自分のためだけに頑張れないタイプなようだ。
いや、語弊を恐れずに言えば、最初は自分のことしか考えていなかった。
自分がやってて楽しいからやる。
ほんと、それだけだった。
妻には申し訳ないが、私の場合は結婚して夫婦になってもそのスタンスはさほど揺るがなかった。
やりたいことしかやらない。
だが、子供が生まれてから自分の中で「父性」が目覚めたとでもいうのだろうか。子供の笑顔を壊したくない気持ちというのか、はたまた、これを子供に対する「責任感」と呼んでいいのか、まだ自分の中で確たる答えは出ていないのだが、そうした感情が自分を領するようになった。
これまでの私は自分に対してどこまでも甘い人間であった。
息子ができて以来、日々接するうちに、この子のためにも少しのことでは怯んでたまるか!ただでは負けないぞ!という気持ちが萌芽したことは私の人生にとってとても大きな変化だった。
最後に
これは子育てに限った話ではないが、何かを育むことは何かと正面きって向き合うことだと思う。
それは自分と向き合うことでもある。
自分の思い通りにいかないことを知ることでもある。
思い通りにいかないことに対する自分との向き合いでもある。
私の場合は、子育てを通して、
誤解しないでいただきたいのは、結婚や子育てなど、いわゆるライフイベントのメリットについて語っているのではないということだ。
そもそもライフイベントをメリット・デメリットで論じることはナンセンスだと私は思っている。
なので、あくまでも一例として捉えていただければ幸いだ。
子育ては正直言って、思い通りにいかないことばかりで大変だと思えば、どこまでも大変な一大事業だと私は考えている。
だが、モノの見方を少しシフトしてあげると、
子育てを通して、親として、一人の人間として成長できる絶好の機会であるとも考えられる。
私は後者の考えでもって、日々、子供と向き合い、自分と向き合っていたい。
(終)