少女十勇士 見参!! 第壱話 憧憬-猿飛代子-
「猿(ましら)家は『大坂の陣』ば落ち延びた西軍ん方の“忍者”ん家系だ」
猿飛代子が一人旅に発つ夏の日、柄にもなく見送りに来た父がそう言った。
飛代子はそんな荒唐無稽な話を信じるも信じないもなく、どう受け止めていいか困惑するばかりだった。
そんな娘に父は続けて言った。
「猿飛佐助って名前ば聞いたことあろうが、お前はそん子孫たい」と。
馬鹿げているとこの時、一笑に付せたらどんなにか楽だったろうか。後になって飛代子はそう思ったが、この時は次々と変転する現実にただ振り回されるばかりだった。
話は数日前に遡る。
*******
「危ないから三人だけで入っちゃダメよ」
お母さん達からはきつくそう言われていた。だけど、その薔薇園は幼い私達にとても魅惑的に見えたのだ。
白く塗られた門扉とアーチには蔓草の意匠が施され、黄色と淡い桃色の薔薇が巻きついている。左右に拡がる白い柵は何処までも続く様に見え侵入を拒んでいるが、門扉は逆に私達を手招いている様だった。
だから、私達三人はついその言いつけを破ってしまった。
ひとつ年上の従姉、霧子ちゃんと幸ちゃん。そして私、飛代子の三人。
幸ちゃんがふらふらと誘われる様に薔薇の門をくぐってしまい、その後を霧子ちゃんがすぐに追いかけた。私は足を踏み入れるのが怖かったが、二人に置いて行かれるのが嫌で慌てて追いかけた。
私が「まって」と言うと、幸ちゃんは「へいきへいき」とどんどん進んで行ってしまい、「きそくはやぶるためにある」と難しいことを言って霧子ちゃんが続く。
門の中も一面どこもかしこも色とりどり色んな形大きさの薔薇で溢れていて、それらをつい眺めていると二人はどんどん先へと進み、私がその後を必死で追うの繰り返しだった。
「おはな、おはないっぱい」
「バラっていうんだよ」
「バラじゃないわ。ロマンティックアンティークとルージュロワイヤルよ。こっちはガーデンオブローゼス。あ、ボレロもある~」
「みゆき、それはぜんぶバラだよ」
噛み合わない会話をしつつ私達は奥に進んだ。
私は薔薇の棘で引っ掻き傷だらけになっているのに、幸ちゃんも霧子ちゃんも全く怪我せずに進んでいる。慎重な霧子ちゃんはともかく、好き勝手に歩いてる幸ちゃんが無傷なのが不思議だった。
薔薇園は途中に丸い噴水があって、その奥は薔薇の角張ったプランテーションで横長に遮られていた。真ん中だけが通れる様になっていて、その中は薔薇のガーデン迷路になっている。
つい噴水で水遊びしてしまっている間に二人は中に入って行ってしまい、私は慌てて追いかけた。二人の姿が見えない。何度も行き止まりにぶつかり、更に掻き傷を増やして、しまいには薔薇の垣根を下からくぐったりもしながらようやく私はゴールに出た。
突然に視界が開けたそこには幸ちゃんと霧子ちゃんがいて、二人が見上げるその奥にはまるでお城の様な洋館が聳えていた。
それは校舎だった。陽の光を反射してキラキラと光る白い服のお姉さん達が、裏庭や格子の窓の向こうにいて微笑んでいる。
その時はそんな言葉も知らなかったが、私は楽園を訪れたのかと思っていた。
私は猿飛代子。「猿」と書いて「ましら」と読むその苗字には幼い頃から少しコンプレックスがあった。
その幼い日の事を何故かこの頃よく夢に見る。夢に出てきた二人の従姉が、霧子ちゃんと幸(みゆき)ちゃんだ。
私の母が三姉妹の末っ子で、その姉二人のそれぞれの娘が霧子ちゃんと幸ちゃんだった。
私は幼いころ横浜に住んでいて、当時は三人それぞれが同じ敷地内の三軒の家に住んでいた。一つが母屋、二つが離れだった。田舎、郊外ではそうした作りの家は珍しくないのだろうけれど、横浜ではそう多くないと思う。
ただ当時の私はそれを不思議とも思わないほどに幼かった。
その頃の私達はどこに行くのも一緒だった。近所の公園から雑木林、プールに縁日、遊園地。そして、夢に出てきた薔薇園。私はいつでも二人の後を追いかけて、走っていた様な思い出がある。
だが、小学校に上がる少し前ぐらいに私の家だけが父の郷里である九州の博多に引っ越した。それはちょうど母が事故で亡くなったすぐ後の事だったと思うが、その頃のことはよく覚えていない。父もあまりその時の事については語りたがらなかった。
私は今日より半年後、またその横浜に戻って高校生活を始める。
従姉達が通う名門光臨学園に私も入学する。夢に出てきたあの学校だ。それは九州は博多に移り住んでからの幼い私の目標だった。
だがそれは同時に私の家の家命でもあった。
21世紀のこの世に時代錯誤の様だが、私の光臨学園への入学は家命であらかじめ決められていた。それだけではない。その入学には条件があった。入学の半年前の夏から日本全国を一人で旅をして、入学式前に光臨学園に辿り着かねばならないというものだった。
今時、と私も思ったが、そうしたしきたりを持つ家はまだまだあるという。おばあちゃんから、何とかいうクイズの司会者が武家出身のタレントで先祖の武者修行の伝統に倣い通過儀礼としての一人旅をさせられたらしい話などをされた。
その話は正直ピンとこなかったが、私の場合の一人旅は、それをすることで入試の免除となると聞かされ、私はその気になった。いわゆるAO入学という扱いになるらしい。その旅行中の体験を入試に勝る学習と考えるという理屈だ。
また卒業する中学には、その旅行中の日記を課題として提出することで、不足する半年の出席日数や単位として補填されることになるらしい。特例であるが、私にはよくわからない事情で認められるのだそうだ。
勉強が苦手な私にとって、それはむしろ願ったりの話だった。
時代遅れの家命に唯々諾々と従わされるという風に捉えれば、それは青少年としての反発はあるし、一人旅に不安もあるのだけど、入学試験を受けなくても良いというのはそれを超える魅力だった。
父はしたり顔で言った。
「旅が嫌なら試験ば普通に受けろ。ばってんそん場合、不合格もあるけんな」
わが父ながら的確に狙いを突いてくる。しきたりの事など知らずに光臨学園進学に向けて頑張ってきたけれど、偏差値的に合格ラインにあと少しという微妙な学力なのだった。 残る半年あれば猛勉強して突破出来るかもしれないが、そこには何の保証もない。
かくて私は古臭いしきたりの方を選んだ。
この話をクラスメートに漏らしたところ、反応は様々。
前時代的でくだらないと言う者。
試験免除を単純に羨ましがる者。
旅の危険を案ずる者。
不公平だ、不正行為だと批判する者。
そして親友の真実子は、卒業を待たない早過ぎる別れに泣いた。
他人事に偉そうな非難をする者には言わせておけばいい。でも、泣きじゃくる友を慰めるのは骨が折れた。
結局、真実子をなだめたのは、私が夢描いた高校生活を目指しているという決意と憧憬そのものだった。
大好きだった従姉達と同じ高校に通う。そしてそれは私と従姉達三人の母である三姉妹の母校でもある。亡き母が、叔母達が通った、従姉達が今も通う伝統と格式ある学園での高校生活。
そして、もう一つ私の心を躍らせてやまないのは、光臨の純白のセーラー服だった。
「今時セーラー服なんて」などと言う人は光臨のあの制服を知らないからだと私は思う。 真の純白というものがあるなら、あの制服の白だと私は思っている。
いや、本当はその印象は色彩的には正しくない。光臨のセーラー服の白色は、白というより限りなく白に近い青という方が正確である。だが、その色味こそが、いわゆる黄色味がかるアイボリー系の白を視覚から排除させ「真の白たるやこれ」と見る者に思わせるのだ。
その胸や袖に撚る皺に、襟やスカート襞に落ちる青みがかった影が、生地の光る白を際立たせる。そういう白なのである。
そして、そのデザインも普通のセーラー服とは少し異なる。
古さの中の洗練というものがある。ブラウスの丈やセーラーカラーのサイズバランス、プリーツの幅等、それらがいわゆる凡百あるセーラー服の中にあって光臨のそれを埋没させない絶妙なトータルバランスを持っていた。
また通常リボンである部分は同生地のネクタイだった。それがすっきりと、しかし柔らかさを失うことなく下がり、その裾は右上がりの斜めにカットされている。
その白地の襟とネクタイ裾に三年は紺、二年は臙脂、一年は濃緑の二本線のラインが入る。ラインがぶつかる角にはほんの少し蔓が巻く上品なデザインだ。
ラインの色も学年ごとの三色なのだが、それぞれがまた一見漆黒そのものに見える濃い色で光を反射したときにだけ色がついて見える。
光臨のセーラーを着ると平凡な少女は美少女に、美しい少女はもっと美しくなると地元では言われていた。一見、着る者を選ぶような繊細さがありながら、着た者をそのレベルに引き上げてしまうのが光臨のセーラーなのだった。
制服で学校を選ぶなんて、とよくそういう批判を耳にするが、光臨のそれはそうした批判に当たらないと私は思う。
ただ可愛いだけのブレザーやチェックのスカートは別に制服である必要が無い。単なるファッションだ。でも光臨の制服は制服としてしか着れない。だけど圧倒的な美しさがある。特別なのだ。それを着ることが許される、その一員になるという事が、他では手に出来ないものの象徴と言えるのである。
「それは、光臨生である事の誇りを具現化したのがこの制服だからだよ」
そう言ったのは霧子ちゃんだった。
今年の春、入学間もない五月の連休に私を訪ねてくれた霧子ちゃんと幸ちゃんは、私の前で制服を着て見せてくれてそう言ったのだ。そして、
「来年は飛代子もこれを着るんだよ」そう続けた。
時代錯誤な憧れと笑わば笑え。私はあの光臨の純白のセーラー服を絶対に着るのだ。
そう思えば、少女の身で危険かもしれない一人旅でも何のそのではないか。
この私の憧れを知るや親友の真実子はむしろ私の旅の応援をしてくれた。
だけど、私自身はその「女の子が一人で旅なんて無茶」という心配から私一人が蚊帳の外にいるような気分でもあった。
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「ヒヨコザル、誰がお前なんか襲うもんか」
そう言ったのはウシガエルことクラスメートの田力長務(たぢからおさむ)だ。
「猿飛代子(ましらひよこ)」という彼女の本名を、特にその姓を正確に読んでくれる初対面の者は少ない。おわかりだろう。「さるひよこ」と読まれてしまうのが常で、そんなところからついたあだ名が「ヒヨコザル」である。いや、当人にしてみればあだ名というより蔑称だろうか。
「我の家は落人ん家系だからしょんなか」
そう言ったのは飛代子の父だ。
なんでも猿家の先祖はその昔、戦(いくさ)に敗れてこの土地に逃げ延びた侍大将か何かで元々土地の者ではないから、だからこの一帯には「猿」姓はうちとその親戚ぐらいしかいないのだそうだ。
珍しい名前でもその地方では多い名前とかだったならからかいの対象にはならなかったろうに。いやそもそも落人だとか関係なく平凡な名前でありさえすればそれでいいのだ。こんな調子でどこか父はズレていると飛代子は思う。
この変な名前をきっかけにこのあだ名で呼ばれてよくいじめられた。だが、生来お転婆の飛代子はそれに負けなかった。男子を相手に取っ組み合いの喧嘩をしながら大きくなった。
喧嘩を始める時、飛代子は腕まくりをする癖がある。半袖の時にそれをやると露わになった左の二の腕に鏃(やじり)の様な赤痣が見える。幼少時の火傷の痕だが、それもまたからかいの元になった。
「飛代子ちゃん、矢印付いとう」
そう言って笑われ、余計に飛代子の頭は湯気を噴いた。かくて大だちまわりである。
そんな飛代子だから、田力長務が言う様にちょっとやそっとの危ない目にはへっちゃらだろうと自分自身で思う。
だが、この時の飛代子はかつてのように反撃するでもなく、その嫌味に頷いていた。
「そーやね。うちやったら平気やろうね」実際その通りだろうと思う。
だけど、素直だったからそう答えたわけでもなさそうだった。田力長務が飛代子にちょっかいをかけてきたのが随分と久し振りだったので調子が狂っていたのだ。
「ねえ、長務」
「なして名前で呼ぶんか」
「…て言うか、話すん自体久し振りっちゃけど?…半年ぐらい、いや一年ぐらい経つ?」
「知るかちゃ」
「なしてうちんこつ避けよった?」
田力長務がうろたえるので飛代子の方から近付いた。
「ねえ」
迫ると後ずさる。
田力長務が自分から目を逸らして他のクラスメートをキョロキョロと見やるのに気づいて、飛代子は思わず口走るというか、言い放っていた。
「ちょー放課後、顔貸しぇちゃ」
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一学期の終業式を終え、HRを終え、いつもより早い放課後。田舎ながらに宅地開発がある時期進んだが、またある時より放置されて久しい造成地。飛代子たち中学生が単に空き地と呼ぶ一角で飛代子は田力長務を待っていた。
放置されてどれぐらい経つのか、赤錆びた建築資材が堆くあちこちに積まれ、さながらアスレチックかのような様相を呈している。その建築資材の山のてっぺんに座り、一番高いところから飛代子はしぶしぶという感じで近づく長務の到着を見ていた。
「あん日以来かいな」
この空き地に来るまでに飛代子は思い出していた。まだ中学二年生の秋、あの日の喧嘩以来、田力長務が自分にかまわなくなった事を。
思えばずっと長務とは一緒である。かつての都心なら小学校は一緒でも中学からは別々にという場合もあるが、田舎の学区である。田舎なりに少子化も進んでいる。となれば、幼馴染みとは幼稚園から中学までずっと持ち上がりで同窓になってしまう。
田力長務は今では数少なくなったかもしれないいわゆるデブのガキ大将タイプで、幼少期から誰かれなくその腕力の餌食にしていた。理屈でものを考えず、欲求と癇癪とが行動理念。ようは積み木で遊びたくなったら、その時誰が使ってようが構わず他の園児から腕力でもぎ取るといった具合で保育士も手を焼いていた。
その積み木を奪うにまかせなかったのが、お転婆で負けず嫌いの飛代子である。腕力で引っ張り合いになれば力の差で奪われてしまうが、すぐさま向う脛を蹴っ飛ばして取り落としたところを奪い返すといった按配で、やったやり返したを繰り返した。ただおかげでこの園の荒事はほとんどこの二人に集中した。長務が他の園児にちょっかいを出すと飛代子がその喧嘩を買って出てしまうからである。
「飛代子ちゃん、女ん子のそげんことしたらいかんちゃ」
と叱られたが、それも最初の内だった。園は表面的にはこの二人を問題児として扱ったが、実際は放置していた。いつものこととして放置しておけば、それで大体園全体の秩序は保たれるからである。突出してやんちゃな二人がいる影響で他の子はおとなしくなるからだった。
なので、飛代子と長務の喧嘩は以来ずっと続いていた。止める者がいないからである。幼少期は所かまわずそこらじゅうで、体が大きくなるとそれなりに知恵を働かせ、人目につかない場所でその行事は続けられた。
漢字が読めるようになると例のあだ名「ヒヨコザル」が喧嘩のきっかけになった。田力長務のその見た目から、飛代子も彼に「ウシガエル」とあだ名をつけ返して、以来呼び合っている。
戦績はと言えば、ガキの頃こそ勝ったり負けたりだったが、中学に入ってからは飛代子は負け知らずだった。お転婆もここに極まれりと思うが、猪突猛進のウシガエルなどすばしっこい飛代子に追いつけもしなくなったからだ。
よせばいいのに、ブランクが長くても二週に一度は長務の方から喧嘩を吹っ掛け、難なく飛代子の勝利で終わる、そういう日常が続いていた。
だが、その日ばかりは勝手が違った。その日、飛代子は女子特有の“重い日”で朝から調子が悪かった。かといって売られた喧嘩を買わない選択肢もなく、放課後、今と同じこの空き地で長務とのタイマンに臨んだ。
だが、貧血気味であるのと感触の心地悪さから集中力にかけ、ついした油断であっという間に長務に組み伏せられてしまった。まさにウシガエルがその体躯に物言わせ、あおむけに倒れた飛代子の上にのしかかったのだった。
が、それなのにその途端、ばっと飛びのいた長務はとどめを刺さずに駆けだして行った。 それ以来、長務は飛代子にちょっかいを出してこなくなった。
長らくこのことを飛代子は、勝って自分との喧嘩に飽きたのだろうと捉えていて、そのうち記憶の中で風化させて行ったが、その決着の妙な違和感を今更ながらに思い出していた。
「よう逃げんでん来るね」
「誰の逃げるもんかちゃ」だが、勇ましく答えたというより、長務はどこかおぼつかなげでそわそわしていた。飛代子はやっぱり調子狂うと思いながら、廃材の山の上から軽快に飛び降りるや、長務の方に向かって歩き出した。
「なしてあん時、勝っとったんに逃げたと?」
ストレートに訊いてみたが、長務は答えない。だが、半年以上が経っているにもかかわらず何の事かは飛代子以上にわかっているらしく、何か言いたげなのに黙ってる、そんな様子だった。
「言いなちゃ!」と飛代子は迫った。息がかかるぐらいの距離にまで顔を近づけて睨みつける。一歩後ずさって長務は口を開いた。
「ぐにゃぐにゃしとるけん...!」
「ぐにゃぐにゃ?」何のことか意味がわからなかった。
「どこ掴んでよかかわからんかったとよ!」
顔を真っ赤にして長務は言った。
「はぁ?」
「真っ黒でガリガリんチビやった癖に変なとこば出っ張らして色気づいとうけんたい!」
「誰の色気づいとう…」
変な言いがかりに言い返しながら、さすがの飛代子も気づいてしまった。今日までそれに気づかなかった自分の鈍感さも同時に。
“こいつ、女っち意識したけん避けよったんか”
わかりながら、飛代子はそれを無視して言った。
「馬鹿じゃなかろか。喰らし合いしとって男も女もなかろうが!」
「あるけん…」
「ない!」
「……せからしか!」
言いながら、長務は視線を外している。
“変なとこば触ろうもんなら「エッチ!」とか言うと思っとったんやなかろか?”飛代子はなんだか情けなくなって来た。だがこれは飛代子が鈍いのであって、客観的にはむしろ長務が気の毒である。
しかし、飛代子にしてみれば性別を意識されたことが不本意だった。
「…そげなこつ。やったら、きさんはずーと女に手ば上げてきよったろうが…今更やろ」 これはずるい。二人の関係性を思えば、そんな感覚が育つ以前からの腐れ縁の喧嘩友達だったわけで、それを問うのは反則というものだ。だが、飛代子からしたら、勝手に性別を意識して過去の仲を壊されたような気持ちがあって意地悪を言いたくなったのだ。
「卑怯もんだっちゅうんか」
だが、飛代子は首を横に振った。幼少期の関係性のそれに引き戻そうと飛代子は思った。そうして決着をつけ直さないとなんだか前に進めない気がしていたのだった。
大きくため息をつくと飛代子は言った。
「あのくさーウシガエル。どこばってんつかんでどこばってん殴っち良かから」
「そーはいかんちゃろう!」
「いかんこつなかろうもん。あたしはきさんの金玉でも平気で蹴るけんな。本気で喧嘩しとるんやけんな」
「ひっでーな」長務は目を丸くした。
「ひどいちゃ。喧嘩やもん。暴力なんやからひどくて当然やろ。変な手加減さるる方の余計むかつくんだから」
「変な女たい」
「…あたしもそー思うちゃ」
「後から変態やらスケベやら言わんやろうな?」
「言わんけん」
「男ん約束やけんな」
「はいはい。…一応、あたし女やけんね」
自分で男も女もないと言っておいておかしなものだと飛代子は苦笑した。だけどこの時、飛代子は男女のというよりも男の約束という方が自分たちにしっくりくると思っていた。
飛代子はさっと身を引くといくばくか腰の重心を落として例の癖の腕まくりをする。
露出した鏃の赤痣に長務の視線を感じると、飛代子には思い当たる事があった。
「そーいや、あんた『ヒヨコザル』ちゃーいつでん言うて、こん痣んことばからかわんやった。なしてな?」
「はん!そげな火傷、毎日出来る生傷の方が多かろうが!」
飛代子は少し嬉しくなった。胸の前でパンッ!と両手を叩くと軽く両腕をひらいて構える。
「かかっち来い!ウシガエル!」
「おう!」
飛代子の一喝に長務が応じ、勝負が始まった。
小憎たらしい悪口をほざくし、ある種粘着質であるが、それでも田力長務という男は一本筋の通った好漢である。こうと決めたら揺るがない。つまり、男も女もないと見定めたらそれまでの躊躇はきっかり排し、その攻撃は徹底して手を抜かないのだった。
すぐに突進してくる。飛代子はそれを右によけて躱し、次の突進、さらに次の突進と続けて躱しながら「速い!」と思っていた。
この半年ほど田力長務は隣町など他校の不良生徒との喧嘩に明け暮れていた。言うまでもない。飛代子との喧嘩を楽しめないフラストレーションをそこにぶつけていたのだった。そして結果、場数を踏んだ分腕をあげたのだった。かつての単なる猪突猛進ではない、機敏さを備え、二手三手先の攻撃を組み立てるだけの喧嘩巧者となっていた。
逆に飛代子はなまっていた。
飛代子はお転婆であっても非行少女というわけじゃない。他のクラスメートとの揉め事が全くなかったわけではないが、長務との喧嘩が無ければ基本は平和な日常である。通学から山道を走り回る生活なので体力の衰えはない。なまったのはいわゆる勝負勘とかそういうものだ。
「こんなはずじゃ…」と思うが、いつしか長務の動きに翻弄されていた。かろうじて避けている状態が続いた後、ついに捕まった。
長務が繰り出す拳が向かうところへ、飛代子はある地点から間違って動いてしまった。よけたつもりのところへ拳が向かってくる。
左胸をえぐるように拳がめり込んだ。
張った乳房がひしゃげ奥の肋骨がめりめりと軋んだ。そのまま蹲る様に飛代子は地面に倒れ込んだ。すかさず長務のストンピングが倒れた飛代子を狙う。
が、勢い込んで倒れても飛代子はただ倒れたわけではなかった。倒れながら同時にそれを誘いとして転がって地面を蹴る力に変え、トンッと跳ねた。飛代子は長務の頭上超えて上空に踊り上がる。そして勢いあまって前傾する長務の後頭部目掛け、着地する様に飛代子は両脚を伸ばした。脳天に杭打ちされたような有様になって長務は白目を向いて昏倒し、かくて勝負はついた。
「女ん体っちゃ、しゃーしかね」
セーラー服への憧れを語った同じ口で飛代子はつぶやいた。
無自覚に少女として生きながら、その性の表れに同時に抵抗感も持つ。それは今この時今更ながらに思い知った事でもあり、成長とともに徐々に感じてきたことでもあった。
殴られた左の乳房がひりひりと痛む。飛代子はこの痛みを忘れまい、そう思った。
*******
終業式の翌日の博多駅は、抜ける様な快晴だった。
数日前の晩に父から渡された鹿児島中央駅までのチケットを手に、飛代子は新幹線のホームへやって来た。
丸い襟の空色の半袖ブラウス、柔らかめの生地の裾が少し広めの膝上丈のデニムのスカート。短めのソックスに薄紅色のスニーカー。アイボリーのつば広の帽子には同色のリボンが巻かれている。背負ったビビッドな桃色のリュック-一般的なディパックよりは大きく登山用よりは小さい-には、数日分の着替えと様々なトラベル用品が詰まっている。
「おっそーい」
「主役が遅刻ばしてどーするんか」
在来線の脇に増設された故にあまり広いとは言えない新幹線のホームに、ひしめき合う様にしてクラスメート達が飛代子を出迎えた。
「なんね、遅刻って。まだ発車までぜんぜん時間あるけん」
クラスメートの殆どが見送りに来ていた。その中には入試免除を批判した連中もいる。一度そんな真似をしても、後味の悪さを嫌って友を見送る一員に加わったというところだろう。それでも飛代子は嬉しかった。
旅行然というより遠足に近い飛代子の出で立ちだが、旅立ちらしからないのは顔や手足が絆創膏だらけなところである。けれど、級友達は前日の経緯を聞き及んでいるのでそれには触れずにいてくれた。
そんな中、博多に移って来てからの親友、友野真実子は既に号泣していた。
「真実子ってば飛代子が来る前から大泣きしよるけん、さっきっからもううるそーて」
「せからし!竹輪の友ば門出に、我慢する涙腺はあたし持っちょらん!」
「竹馬。真実子、それ竹馬やけん」
からかわれて怒る真実子が更にボケるので、飛代子はツッコんだ。
「これ食べて」
真実子は膨らんだレジ袋を差し出した。
「竹輪と違うやろね」
「かしわ飯!」飛代子のボケ返しに、真実子の泣き顔は苦笑混じりになる。「あんた好きでしょ。おかずと二段の豪華なやつにしといたけん。大奮発」
袋を覗くと「大名行列かしわ御膳」の銘のパッケージの駅弁とお茶が入っている。
「飛代子~!!」
真実子は飛代子に抱きついて更に泣いた。
その泣き声に呼応する様にクラスメート達が「忘れないでね」「メールちょうだい」などと口々に別れの文句を口にし出した。それを一身に受けながら、飛代子はその中にいないクラスメートを少し離れた柱の陰に見つけた。
本人はそっと隠れて見送っていたつもりなのだろうが、横に大きな体躯が優に柱からはみ出してしまっている。田力長務だった。飛代子同様、長務も絆創膏だらけと言うか、首には包帯すら巻いていてもっと満身創痍だった。飛代子は満面の笑顔をわざと作って長務のそばへ近づいた。
「なんしよーと?」
「…見送りたい」
長務はとぼけた。でも、飛代子は意地悪く食い下がる。
「誰ん見送り?」
「親戚ん子の遊びに来ててーそいでな…」
「ふうん、どこおると?そん子達」
飛代子は掌を眉の前へかざしてキョロキョロ探す振りをした。長務はついに根負けする。
「あ~白々しか~ 普通、こげんときは気付かん振りするっちゃが」
「そげなこつ。あたし似合わんけん」
神妙な顔でお互いを見ると二人は溜め息混じりに微笑んだ。
「元気でやれちゃ」
「長務もね」
悪友との挨拶を交わしていると級友の集団の方から真実子が声を掛けて来た。
「飛代子ー。お父さん来とる」
えっと思って見ると、ホームの人垣に混じって立っている小柄な父の姿がある。
「友達と別れは済んだとや?」
「父ちゃん!?」
そして飛代子はこの後、予想だにしなかった自身のルーツを知らされる事になるのだった。
―つづく―
(本文・イラスト:暮代 樹/方言協力:佐藤順一)