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体育会系とお絵描きと、集団とじぶんと

おどおどと、体育会系の世界に入ってみた

実はここ4年ほど、体育会系のグループに参加しています。
私は昔から運動が得意ではなく、体育会系のグループと疎遠でした。

我ながら、
 わたし、
 なんで、
 ここにいるの…

という感じです。

「体育会系畑」の方々と関わる中で、「こりゃすごい!」と感じた事があります。「①目標が明確である」「②全員が一丸となり驀進する」「③メンバーがめちゃくちゃ同質化する」という3点です。
それと同時に、お絵描き畑ってやっぱりすごいぞ、ということも痛感しています。
それぞれのスタンスと思うところについて、今日もつれづれなるままに綴ってみます。

「①目標が明確である」こと

体育会系畑の活動では、目標がとっても明確です。

 なになにの大会で、何位入賞する。
 あのタイムを〇秒短縮する。

達成目標が、勝ち負け・タイムといった数値で、定量的です。
だから、「達成したことが、とっても分かりやすい」。

お絵描きの場合、どうでしょう。

二科展や日展などの展覧会への出展・個展開催や、漫画家なら雑誌デビューを果たすこと、などがありそうです。また原画や同人誌の売り上げをアップしたり、SNSでの「いいね」「フォロー」を増やすといったこともあてはまりそう。つまり「きらりと光ることで、承認を高めること」はひとつの指標として考えられそうです。

ただ、どうすれば「きらりと光る」のか。「きらりと光る」とはいったい何なのか。光っちゃいるけど、その光が綺麗という人もいれば、そうでないという人もあり。
定量化できないから、むずかしい。

きらりと光るには、スケッチを一日、10枚も描けばいいのでしょうか。
色彩検定に、合格したらいいのでしょうか。
ウケる絵を描いて投稿して、PRをしたらいいのでしょうか。

どうも、絵は勝ち負けとかスコアといった、定量評価とはことなる軸に在りそうなのです。

「②全員が一丸となり驀進する」こと

スポーツはチーム競技と個人競技があり、わたしは現在、チーム競技のグループに属しています。

とっても当たり前なのですが、チーム競技は「チームが目指すべき成果」に向けて、一致団結します。
そして、これまた当たり前ですが、「こちらチーム」に対して、「あちらチーム」があります。試合で勝ちを得られるのは1チームのみなので、あちらは自動的に「敵」、というわけです。
あちらはこちらにヤジを飛ばすし、なんならわざと蹴っ飛ばしてくるし、ルールがあっても審判にバレないようにシレっと不正もしてきます。どうやらプロの世界でも変わらないようで、うまいことズルをするのも作戦のうちといった風潮があります。敵対心がむきだしです。
こちらが「スポーツは、楽しければいいや」というつもりでも、こちらが徒党を組めば、相手は敵るということを痛感します。どこかに所属するということはそれだけで、他の所属を敵に回すことになるようです。

良い事もあります。自分が困ったときには、すぐさま仲間が助けてくれます。みんなで群れていること自体、心強く感じます。飲み会やなんとか会といったイベントもたくさんあり、都度、絆を深めることもできます。敵がいることで、逆に仲間の絆が深まっていくような気持ちさえします。そう考えると自分の主体性が見えなくなるようで闇を感じ恐ろしくもありますが、人が隣にいて、自分のことを分かってくれ、一緒に頑張れるっていうのはもう、最高、最強に心強いのです。

そういえば、わたしの会社にも「〇〇部 対 ××部」「〇〇大卒 対 ××大卒」といった、社内の派閥があります。会社と体育会系とは、「チーム一丸となり目的達成する」という組織体質が似ており、親和性が高いのです。
私も会社の〇〇部に配属されたとたんに、××部から嫌がらせを受けた経験があります。すぐさま仲間が助けてくれましたが、わたしが〇〇部に来たからには、××部からしてみると「敵」なのです。そういった出来事も、体育会系の、敵と戦うためにチームを組むというスタンスを鑑みると、なんとなく理解できるというものです。

これを、お絵描き畑の世界で考えてみると、どうでしょう。
お絵描きとは、基本的には一人で戦うものです。そして、だいたいの場合、敵は他人ではありません。絵描きが敵とみなすのは、うまく描く事ができない「じぶん」です。(これは、きっと個人競技もおんなじです。)
チーム競技に比べると、たよれる仲間が少ないはず。「自分」は魔王のような最高難度の敵でもあり、唯一無二の味方でもあります。いいとも悪いとも、つきません。

支えてくれる人がいるとは限らない世界。
自分と対話しながら作り上げていく世界。
答えも正解もなく、よりどころは自分の価値観だけ。
そこにお絵描き仲間のひとりでもいれば、めちゃくちゃ、心強いけど。

でも、お絵描きっていうのは、なんつー、孤独な世界なんでしょう。

「③メンバーがめちゃくちゃ同質化する」ということ

スポーツ競技の世界をのぞいてみて、「メンバーがめちゃくちゃ同質化している」ということにはもう、心底おったまげました。

私は割と長いこと、美術畑にいます。
美術の世界はもう、先に謝っておきますが、だいたいみんなオタクでヘンタイでガンコです。ゆずれない、それぞれの世界観を持っています。
みんな独自の世界があるのがあたりまえだし、芯となるところは、絶対ゆずりません。独自の世界こそ「きらりと光る」ポイントそものもです。その世界を踏み荒らそうものなら、本気のバトルになりかねません。そこでお互いの世界について仮に「きもっ」「わからん」「おれの絵のほうが、うつくしい」と思ったとしても、相手の世界に土足で踏み入り否定したり戦ってはいけない、ということを、絵描きはみんな分かっています。みんな違うのが当たり前、そっと見守るのだ、ということが、集団認知されています。
もっといえば、この界隈の人達は「誰かに似ている」とか「誰誰っぽい」とか言われるのが、だいっきらい。似ている人がうっかり近くに居ようものなら、互いにさりげなくチョット距離をとって差別化するくらいには、同質化を嫌うのです。

集団スポーツの世界では、その集団の価値観、行動様式、スキルレベルは驚くほど同質化されていきます。全員で目指すところが、おんなじ一点だからです。うますぎる人も、へたっぴすぎる人も、その集団には向かないので、ちょっとずつ離れて行ってしまいます。残ったひとびとは平均化され、どこか似ています。というか平均的で程よくおんなじであることがチームの組成に必要な条件なので、なんならその集団内の独自ルールがあるし、そのルールの目的は互いを縛り合うことであり、合理性を欠く場合すらあります。目的を等しくするうちに考え方も似通ってきます。髪型や服装もちょっと似てたりして。目には見えませんが、どこかに「はみ出しちゃいけない線」があり、それをはみ出すと仲間と見做されなくなるので、お互いはみ出さないよう気を付けているのです。
また、集団にどの程度貢献したか、ということが問われます。ほんとはやる気がないなとかメンドクサイと思っていても、ひとと違う行動をすると悪目立ちするので、ちゃんとやらなくちゃ(やってるふりでもしなくちゃ)いけません。隣の人はとっても頼りになる仲間だけど、互いに「こうすべき」という方針に反することを言葉にするのは憚られるので、あんがい「実はみんなやりたくないけど、仕方なくやっている」ということもあります。集団を抜けますよ、というのも、言いづらい。距離をとることは、どことなく「裏切り」を思わせる空気感もあります。

ってぇなわけで、とことん色んなところが違います。
体育会系の世界は、私にとって違い過ぎて珍し過ぎて、まだうまくなじめません。
集団による同調圧力は非常に気持ちが悪く、言葉をうまく言えなくなってしまいそう。どの世界でも謎の同調圧力があるわけで、そんな力のベクトルをかいくぐりながら自己主張するウマさがコミュニケーション力なんだろうなと思っているところです。
ただし、とにもかくにも、仲間がたくさんいると、どうでもいい日常が面白おかしくなって、わいわいにぎやかで、心強くて楽しいです。お絵描きは孤独で悩み多いもの。ひとと集まるということは自由も制限されますが、孤独ではなにもはじまらないな、ということも感じます。


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