絶縁からの復縁
2019年から2024年の5年間で絶縁状態だった母と再び連絡を取ることになった。私にとって重荷でしかなかった母との関係は、沈黙の期間を経て変化し、もう一度向き合う決意を固めるに至った。
2024年は、毒親をテーマにした文章を数多く書いた。1年の締めくくりに今年最後の自己開示として、母との絶縁と復縁を記録しておこうと思う。
帰省という名の試練
2019年5月、2歳の娘を連れて実家に帰省した。子連れでの帰省は初めてだった。
両親は数年前に離婚し、母は一軒家にひとりで住んでいた。その家は国道の拡張による立ち退きで、数か月後に取り壊される予定だった。孫の顔を見たい母と、育った家を見納めたい私の願いを叶えるための帰省だった。
24歳で上京してから10年間、帰省回数は片手で数えるほどだった。私にとって帰省は試練だ。母と予定を合わせるだけで骨が折れる。母は思い通りに事が進まないとすぐに癇癪を起こし、私を何度も着信拒否した。父に会おうとすれば機嫌を損ねるため、常に気を遣っていた。そのため、仕事の多忙を理由に帰省を拒み続けていた。地元の友達には会いたかったが、地元に足を踏み入れると私が帰省したことがすぐに広まる。田舎は住民が常にお互いを監視しているような、閉鎖的な場所だった。
止まらない不満
2019年当時、応募した保育園にすべて落選し、私は無職の専業主婦だった。母は地元の蕎麦屋で契約社員として働いていた。帰省前から母と揉めるのを避けたかったため、日程は母の都合にすべて合わせた。計画段階では順調で、孫がいれば母も穏やかに接してくれるだろうと期待していた。娘が私と母の間を取り持つ存在になってくれると信じていたのだ。
しかし、その期待は簡単に裏切られた。私たちが実家に着くと、母は終始文句ばかりだった。「帰省するというから仕事を調整した」「気の合わない同僚に借りをつくった」「1日休むと収入が減る」「数か月前から給湯器が壊れて風呂に入れない」「立ち退きが近いから修理費をかけたくない」「運転が億劫で銭湯に行きたくない」「父と立ち退き料の配分で揉めている」「更年期で心身がつらいのに、小さい子どもを連れて来られて困る」。
母の長時間の愚痴は恒例だが、久しぶりに会った娘に文句ばかり言う姿には心底うんざりした。話を聞いてくれる人がおらず、不満が溜まっているのは分かるが、会いたいと言われ、幼い子どもを連れて3時間かけて来た娘に対し、開口一番に不平不満を並べるのには参った。
できるだけ角が立たないように「あらかじめ言ってくれたらよかったのに」とあっけらかんと返すと、母は「帰ると言われてやめてくれなんて言えないでしょう」と反論した。結局また、私のせいになる。
「あんたはいいわね、ここから逃げられて」「あんたはいいわね、まともな人と結婚して」「あんたはいいわね、幸せで」。母の怒りは止まない。しまいには「早く死にたい。生きてても何もいいことがない」と吐き捨てられた。
母の自殺未遂と呪い
私が20代半ばで上京してから半年の間に、母は二度の自殺未遂を起こしている。私は飲食店の店長としてほとんど休みなく働いていた。夏の多忙な時期、末の弟から切羽詰まった連絡が入った。地元には自殺の名所のダムがあり、母はそこに車を置いて失踪しかけたのだ。
当時、私は母の自殺が私のせいではないかと思っていた。上京に反対する母を振り切って、あの田舎に置き去りにしたせいだと。母は、私が昇進のために上京すると決めたとき、長文の手紙を寄越した。内容はこうだった。「どう頑張っても女は男とは同じになれない。田舎者は都会ではやっていけない。地元でいい人を見つけて結婚し、女として幸せになってほしい。それまで私と一緒に暮らしてほしい」
幼少期から女性に生まれた私を否定し続けてきた母が、今更何を言っているのかと呆れた。あの手紙の内容は建前で、私が性別に囚われず、成功したり幸せになることを母は許せなかったのだと思った。
母はいつもそうだ。体調を崩したり胃潰瘍で入院したとき、私に救いを求めてくる。私の同情心につけ込み、頼ってくる。
しかし、母が自ら命を絶とうとしたとき、違っていたのかもしれないと思った。母は私の幸せを邪魔したいのではなく、寂しかっただけではないか。父がいなくなり、弟たちが自立して家を出て、孤独だったのかもしれない。あれほど痛切な手紙をもらい、一緒にいてほしいと求められたのに、私は手紙を破り捨て、愛してくれなかった母を切り捨て、自分の未来に賭けた。私はなんて最低な娘だろう。最後に母を孤独にして苦しめたのは私だと、自分を責めた時期があった。
心苦しくて、仕事を辞めて地元に帰ろうかと悩んだ。母を差し置いて、自分だけ幸せになるなんてできないと思った。楽しいことがあると、心の奥に残る罪悪感。父と結婚し、私たちを産んだせいで母は自由を失い、人生に絶望している。楽しそうな母の姿をまったく思い出せなかった。
私が幸せを受け入れられなかったり、喪失感を抱くのは、母の呪いのせいかもしれない。報われない恋愛を選び、たいして好きでもない男たちと関係を持ち、過剰なタバコやアルコールを摂取したのも、自傷行為の代替だったのかもしれない。毒がない状態が不安だった。幸せになってはいけない、楽しいことが続いてはいけない。そんな呪いが私に染みついていた。
手放せなかった居場所
私にはいつも逃げ場があった。子どものころは学校、大人になってからは仕事だった。学校や職場という社会的な場で、私は「まともな人間」を演じることができた。勉強すればするほど、働けば働くほど、親以外の誰かが私を認めてくれた。ただ存在するだけでは満たされない承認欲求を、そこで埋めていた。せっかく手に入れた場所を失うのが怖かった。私から仕事を取ったら何も残らない。上司の期待、同僚や後輩からの信頼、給与という対価――それら手放して、母を選ぶことなんてできなかった。
それに、本当は分かっていた。結婚も出産も離婚も、すべて母自身が選んだ結果だということを。
母について悩むことに疲れ果てた私は「もう自業自得だ、死にたいなら勝手に死ねばいい」とさえ思うようになった。多忙を理由に帰省も連絡も減らしていくうち、母も次第に私に期待しなくなった。
初めての逆上
母の長い愚痴が終わると、年子の弟が実家に顔を出した。母は弟が来ると態度を一変させ、忙しいのにわざわざ来てくれてと大げさにお礼を言った。車で30分の距離だというのにだ。
弟が私の娘に会うのは初めてだった。人見知りしない娘が、母と弟に警戒心を抱いて泣いた。母はすぐに懐かない娘を気に入らなかったらしく、「ママに似て神経質でおかしな子ね」と嫌味を言った。私は逆上した。頭に血が上り、脳内の血管が爆発しそうな気分だった。
母は私の言葉が通じない人間だ。理論的に反論しても、屁理屈だと言われ、感情でねじ伏せられるだけだと分かっていた。だから、いつしか無言の反抗を貫くようになったのだ。それでも、このときばかりは許せなかった。私にはいくら暴言や愚痴を吐いても構わないが、言葉がわかるようになった娘に毒を吐くことだけは許せなかった。
何を言ったのか詳細は覚えていないが、私の中で抑えていた怒りが爆発し、溢れ出る罵声が母を攻撃した。母と私は半狂乱になり、暴言の応酬を繰り広げた。弟の「やめろ!」という怒鳴り声で我に返り、怯えた娘が足元に抱きついて号泣していることにもようやく気づいた。泣き叫んだせいで、声がしばらく枯れたままだった。
帰る場所はここではない
私は娘を連れて家を飛び出し、近くの公園へ行った。私が「ごめんね」と言うと、娘も「ごめんね」とオウム返しをした。二人とも涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。私が「もう帰りたい」と呟くと、娘は「おうち帰る」と言った。ここはもう、私の帰る場所ではないことを痛感した。
公園から弟に電話をかけ、新幹線の駅まで送ってくれと言うと「姉ちゃん、大人げないよ」と言われた。大人げないのは母だろうと思ったが、口には出さなかった。「自分だけが被害者みたいな言い方するなよ。こっち(実家)だって色々あるんだよ。姉ちゃんはいつも無関係な場所にいて気楽じゃないか」とも言われた。
私の気持ちは彼らには伝わらない。どれだけ訴えても響かない。もちろん、コミュニケーションの問題は双方にあると分かっている。私の伝え方にも原因があるのかもしれない。血縁があろうとなかろうと、私と母、私と弟は根本的に違う人間だ。私は他人に対し、完全には分かり合えないことがあるからこそ、せめて言葉や誠意を尽くして限界まで近づき、理解し合いたいと思っている。しかし、彼らに対しては一切その思いを抱けなくなってしまった。相手が望んでいないからだ。もう本当に諦めようと決めた。
「孫ができたら母も変わるはずだ」と期待していた私は愚かだった。結婚と出産を経て、女の幸せを手に入れた私を一人前として認めてくれるのではないかと思っていた。結局、私は最後まで母の承認や愛を求めていたのだ。何度も「もう要らない」と割り切ったはずなのに。
母の日の決別
2泊3日の予定を早めに切り上げ、私と娘は自宅へ帰った。翌日は皮肉にも母の日で、私の35歳の誕生日だった。帰省前にネットで予約していた花が実家に届いた頃、母から何度も着信があった。私は電話には出ず、LINEでメッセージを送った。「母の日の花は今年で最後にします。もう何もしなくていいです。連絡もしないでください。何もかもこれで終わりです」と。
最後のメッセージだけは母に伝わったようで、それから5年間、母からの連絡は一切なく、私も母と連絡を取らなかった。絶縁している間、私は夫と娘との関係に悩み、離婚をし、娘には毒親としての影響を与え、家庭を台無しにした。なぜ家族になるとうまくいかないのか。思い出すと傷が抉られるような気がして強制的に忘れようとしていた過去に、向き合うべきだと感じ始めた。「毒親」というテーマに真剣に向き合うようになったのもこの頃だった。
母のせいで女性としての自分を歪め、母のせいで私は毒親になった。すべては親のせいだ、母のせいだと、恨みの言葉をnoteの下書きに放り込みながら記憶を辿っていった。初めは母を「毒親」と呼ぶことに抵抗があった。「毒親本」に書かれている親たちの極悪非道ぶりと比べると、私の親はまともに見えたからだ。直接的な暴力を振るわれたことも、衣食住に困ったこともない。親に責任をなすりつけるには、私の環境は恵まれている気がした。
しかし、書くことは体に溜まった毒を吐き出す作業になった。自分の感じていた違和感や心の痛みが少しずつ形になり、書いたものを読んで、自分を客観的に見つめ直すことができるようになった。曖昧にしていた感情が言語として結晶化していく過程が、過去に向き合おうとする私には必要だった。
5年ぶりの帰省
絶縁から5年が経った2024年の元日、母から一通のLINEが届いた。
〈あけましておめでとう。元気にしてますか。あれからだいぶ時が過ぎてしまい、ずっと謝りたかった。毎日電話しようと思ってた。昨日もそうだった。離婚してたった一人で子育てしていると聞いて、いてもたってもいられなかった。連絡ください。〉
突然のメッセージで複雑な心境になり、私はいつまで経っても返信できなかった。
年始の挨拶は父からも届いた。小学校入学前に孫の顔を見せろと言われた。父には母と絶縁したことを話しておらず、パンデミックと仕事を理由に帰省を避けていたが、収束後はその言い訳も通じなくなっていた。
父への親孝行のつもりで帰省を決めたが、実家はすでにない。私は娘とともに末の弟の家に泊まることにした。5年前、私に「大人げない」と言った弟の方が、住む場所を失った母の面倒を見ていた。その弟は結婚し新築の家を構え、子どもが生まれたばかりだった。父から彼らの近況を知らされたが、私は弟にも母にも会うつもりはなかった。
弟が繋いでくれた縁
会うつもりがなかった母と対面したのは、末の弟から「俺の顔に免じて母に会ってくれ」と頼まれたからだ。末の弟は私が家族の中で唯一信頼している人間だ。数年前、彼は突然親友を亡くし、その後悔を引きずっていた。「姉ちゃんと母さんの相性が悪いのは分かっているし、許せない気持ちも理解している。ただ、少しでも迷いがあるなら、会わずに後悔するより、会って後悔した方がいいじゃない」と言われた。母からのLINEで迷いが生じている私を、弟は見抜いていたのだろう。
帰りの新幹線に乗る前、年子の弟と同居している母に会いに行った。弟の奥さんと子どもも在宅しており、兄弟3人が揃うのは数十年ぶりだった。子どもたちが成長している中、母だけがひどく老いていた。昔の威圧感はまるで消えていた。
母は私を別室に呼び「悪かった」と頭を下げた。母は、こんなに小さかっただろうか。謝ると同時に「会いに来てくれてありがとう」と言われた。直接、母から謝罪や感謝の言葉を聞いたのはおそらく初めてだ。
絶縁からの5年間、私は過去に縛られ続けていた。母から受けた影響で、娘に対して不適切な言動をしてしまう血縁を呪っていた。私の中に脈々と母の血が流れており、毒親の連鎖は絶縁などでは切れない現実を思い知らされた。
私が過去と向き合い、自分を見つめ直している間、母は私があのとき放った言葉を何度も反芻したという。「悪かった」の一言ですべてが許されるわけではない。しかし、5年の歳月を経て、老いて小さくなった母を目の前にしたとき、ずるいと思う反面、もう意地を張るのはやめようと思った。本当はずっと母を許したかったのだ。
意地を捨てたことで得られた母への許しの気持ちが、過去の痛みや苦しみを和らげてくれた。ひたすら自分に向き合って書き続け、下書きに保存したままだった文章を公開することで、過去から自分を解放してあげようと思った。
欠けたマグカップの愛
弟の奥さんが全員にコーヒーを淹れてくれた。トレイに載せられたマグカップのひとつに目が止まった。それは母の誕生日に、小学生だった私が小遣いをためて贈ったピンクのクマ柄のマグカップだった。実家でも母はずっとこのカップを使い続けていたが、私はいつの間にかそのことを忘れていた。底が少し欠けている。
「これ……」と欠けた部分を指さすと、弟の奥さんが「お義母さん、いつもこのカップがいいって言うんです。お気に入りなんですよね」と母に同意を求めた。「まだ使えるから」と母は言った。
毒親について書き続ける中で、嫌な記憶を思い出しながらも、母を完全に憎むことができない自分に気づいていた。記憶の断片に母の愛情が隠れているからだ。私は決して愛されなかったわけではない。母が30年以上使い続けているマグカップが、それを物語っている。
忘れていることが他にもたくさんあるだろう。すべてを許せなくても、それを思い出すことで、心の中で少しずつ許しを感じられるようになればいい。永遠の別れがきたときの後悔を少しでも減らせるように、今は再び繋がった縁を大切にしていきたい。血縁に支配されるのではなく、自分の手で選んだものとして。