明日死ぬとして、伝える言葉は何ならいいのだろう
仕事関連で出会う人たちから「そんなにほめられたことがないから嬉しい」と言われる。わりとしょっちゅう。
ほめている自覚はある。でもそれは「ほめる」なのだろうか。
『ほめて育てよう』
『ほめて育てるのは良くない』
育児や人材育成の場ではほめることの是非が展開されていて、でも読めば読むほどそれは私のほめると同じなのか?といつも戸惑う。
私は相手の持つ素晴らしさを伝えることに躊躇しない。
いい悪いではなく、後悔したくないから。
後悔したくないのは私であって、相手の都合はお構いなしだ。極端に言えばそれで相手に自分を好きになってもらおうとも思っていない。
明日死ぬとして、いや、死にたくはないけども。
人には何が起きるかわからないから、伝える言葉を私はいつも探している。
大きな大きな後悔がある。
その人は私が感謝を伝えることができないまま、阪神淡路大震災で旅立ってしまった。
私にとって小さい時から特別な人だった。
子どもは言葉はわからないけど、雰囲気はわかる。
私という存在に戸惑う人と、無条件に愛してくれる人。
大人の空気を敏感に感じ取りながら育ったけど、おばちゃんはいつでも本当に幸せそうに関わってくれた。
3.4歳の頃、特急で2時間かかる祖父母の家に、両親ではなくおばちゃんが電車で連れて行ってくれたのも覚えている。母が絶対に与えてくれなかった大きなペロペロキャンディを買ってくれた。それを少しずつ舐めながら、窓の外の景色を眺めて電車いた。きっとあの時全部は食べきれなかったはず。その飴はどうなったかは、案の定、覚えていない。
震災の直前、私はセンター試験を受け、自己採点の結果おばちゃんが住む近郊(と言っても冷静に考えれば遠い。)の受験を決めた。
連絡しようと思っていた朝、なくなってしまったのだ。
努力をそのまま受け止めてくれる数少ない人だった。
I am proud of you.そう言ってくれる人だった。
おばちゃんのために勉強をしたのではない。
でも、心が乱れた。
2月の試験は結果は散散で、一度も経験したことないミスが続いた。
三単現のsを忘れた。化学平衡定数でマイナスが出た。
受験を終えた足で西宮に向かい、お線香を上げた。
おばちゃん、私を大事にしてくれてありがとうね。
私を産んだ母を大事にしてくれてありがとうね。
私の成長を喜んでくれてありがとう。
それが伝えられなかった。
後悔になっているし、この後悔を減らしたいと願って伝えている。
明日はあなたがいないかもしれない。同じように私がいないかもしれない。
私とあなたを形どる接点で浮かぶものは、何でありたい?
相手にとっていいことばかりを伝えているとは思っていなくて、基本的には主観と感情をフルに届けている。
それを褒めてくれていると受け取ってくれるのだとしたら、
私の一方的な想いかもしれないけど嬉しいです。
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