希望があるということと幸福について〜何かを求める幸せ〜
人間は兎にも角にも、何かを求める。
現代人は、日本という世界中から見れば非常に恵まれた環境に住んでいるとしても、何かを求める。
ある程度幸福であっても、それ以上を求めてより贅沢をしようとする。
贅沢をした時に、一瞬だけ恍惚な気分に覆われる。それは、日常から非日常へ、普段とは違うことが引き起こす一時的なもの、である。
それは多分何日も腹をすかして、なんとかしてご飯にありついた時の喜びとそんなに遠くはないのかもしれない。
しかし、そんな贅沢な瞬間をなぜか、金があると常にそんな幸せな気分を味わえる、と勘違いをする人が多い。
瞬間的な幸福は振り幅が決める
瞬間的な幸福というものは、日常、いつもの状態との振り幅で変わる。
普段質素な生活をしている人、ダイエットをしている人が、ご馳走をたらふく食べられるとそれは嬉しい。
しかし、そんなことは日常になってしまえば同じだ。
いくら金を持っていても、地位があっても不幸そうな人は少なくない。
逆に追い求めるものがなくなって、実は昔の方が楽しかったなんて思っている人も中には意外といたりする。
東南アジアのキラキラした若者たち
初めて東南アジアに行った時に驚いたことは、その街に溢れる活気だった。
それは決して清潔ではないし、街全体としても発展しているわけでもない。
でも、若者が溢れ活気に満ちた景色があった。
彼らは、日本に比べると、まだまだ貧しいと言える。しかし、彼らの目には希望が満ちている。
車が欲しい。バイクが欲しい。もっと稼いで、、、
そんな純粋な欲が、追い求めるものが当たり前の様にある。
そんな彼らは幸せそうだ。
物が幸せにするのではない
内面、心の時代と言われて久しいが、まさにその様なもので、日本がバブル以降物に溢れ、むしろそんなに欲しいものがない様な今の時代、誰もが薄々気づいていることだと思うが、物が人を幸せにするということではないということ。
実は、そんな誰もが何かを求めるということを求めているのではないだろうか。