第二章 「何で会いにきてくれないの」
この話は23歳の春に始まり、
2年後、つまり25歳の夏におわる。
少し我慢し、少し気を利かしさえすれば
世界は僕の意のままになり
あらゆる価値は転換し、時は流れを変える
そんな気さえしていた。
しかし、それが落とし穴だと気づいたのは
不幸なことに、ずっと後のことである。
僕はノートの真ん中に1本の線を引き、
左側にその間に得たものを書き出し
右側に失ったものを書いた。
失ったもの、踏みにじったもの、
とっくに見捨てたもの、
犠牲にしたもの、裏切ったもの、、、
僕はそれらを
最後まで書き通すことは出来なかった。
真の芸術が生み出されるには
奴隷制度が必要不可欠だそうだ。
古代ギリシャでは
奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、
その間に市民は地中海の太陽の下で
詩をつくり、数学に取り組む。
芸術とはそういうものだそうだ。
だが、残念ながら彼女は芸術家ではない。
小説家でも数学者でもなく、
ただの”メンヘラ”である。
なぜ彼女がメンヘラなのかは誰にも分からない
彼女自身が分かっていたのかさえ、
怪しいと僕は思う。
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携帯が鳴った
「もしもし」と僕は言った
「会いたい、いまから会える?」
今は深夜の2時。
ここは浜松で、彼女は東京。
僕は何も言わずにそっと電話を切った。
携帯は鳴り続ける。…また始まった。
嘘をつくことは実に嫌なことだ
嘘と沈黙は現代日本にはびこる
二つの巨大な罪と言っても過言ではない
実際、僕はよく嘘をつき、よく黙る
しかし、仮に僕が年中しゃべり続け、
それも真実しかしゃべらないとしたら
どこに真実の価値などあるのだろうか。
静かな夜だった。
夜が明けると彼女から伝言が入っていた
「この嘘つき!!!!!!!」
彼女は間違っていた
僕は嘘などついていない。
ただ真実を言わなかっただけである。
時に真実は人を傷つけるというが
この場合、どちらにせよ傷がつく
それも意識不明の重体レベルの深い傷がつく
そして傷つくのは
向こう側だけではないのがもっとタチが悪い
気がついた時、伝言のなかで彼女は泣いていた。
どう考えても泣きたいのはこちらである
別れ話を切り出されたら
阿吽の呼吸で返答したいのだが
なぜここまで僕に固執するのか甚だ疑問だ
彼女は伝言の中で色々と訴えていたが
要するに伝えたい内容はこれだった
「何で会いに来てくれないの」
「私のこと好きじゃないの」
「もういい、死ぬ!」
これなら長くても5秒でいいだろう
僕の20分を返してほしい
人の時間を何だと思っているのだろう
そして論点がズレている。勘弁してほしい。
会いに行けない理由はまとめると3点である
・深夜
・終電ない
・だるい
どう考えても
「もういい、死ぬ!」にはならない。
しかも、これには恐ろしい続きがある。
これだ。
何で止めてくれないの!
私のこと好きじゃないの?もういい、死ぬ!
…ねえ!ちょっと!!何で止めてくれないの!
私のこと好きじゃないの?もういい、死ぬ!
……ねえ!!何で止めてくれないの!!!
お分かりいただけただろうか。
これが、メンヘラの1つ目のスタンド能力。
「ゴールドエクスペリエンスレクイエム」
スタンド攻撃を受けたものは
誰一人として
永遠に結果に辿り着くことはできない。
これが僕が電話を切った理由であり
唯一、生き抜くための術である
触らぬ神に祟りなしとはよく言ったもので
電話を続けても地獄、
電話を切っても地獄
同じ地獄なら電話を切ろう。
正常な判断だ。