いま生きているということ
毛布に包まれている。
やっと手足口病が治ったと思ったら、鍼に行けていなかったためにPMSがひどくて動けなくなってしまった。
予定をすべて変更し、鍼治療のあと銭湯に行って、息子とそのままベッドへダイブした。もはや、息子はすやすやと寝息を立てている。
なんとなく1日が消化不良で、Xを開く。
すると、亡くなった谷川俊太郎さんのたくさんの詩が、私のタイムラインを埋め尽くしている。
みんなが谷川俊太郎さんを悼み、それぞれにお気に入りの詩をpostしていたのだ。
スクロールしてもスクロールしても、見渡す限り詩、詩、詩。壮観だった。絶景ってこういうことを言うのかな、って思った。
そのなかで『生きる』という詩が目に飛び込んできた。20代後半くらいに大好きだった一編で、当時はそらんじていた気がする。
この印象的なフレーズが繰り返される詩なんだけど、本当に美しい。たとえば最初の段などは
この詩を味わっていると、誰しも自分にとっての「生きていること」が浮かんでくるんじゃないかな。
そしてやっぱり、思い出すのは2年前に突然亡くなった友人•Aのことだ。
彼女とは、大学の同級生と結婚したことや、子どもが同い年であることなど、いくつか共通点があった。長らく会っていなくて、久しぶりに彼女の名前を聞いたのが訃報だったので、当時の私は(いやきっと同級生みんな)半狂乱だったと思う。
1年前は、何をするにも、彼女と、お通夜でみた小さな男の子のことを考えていた。ふとした時に彼女の姿を探したし、夢に出てくれて泣いたこともある。
でも今年は、彼女が亡くなった11月も半ばになってやっと思い出した。
薄情だろうか。寂しいことだろうか。
でも、そういうことじゃなくて……。
彼女の時間は止まったけれど、私の時間はまだ残されている。私はここに在る。
ううん、でも本当は、彼女の時間だって止まったように見えて、止まってないんじゃないかな、なんて。生きている側の人間が、勝手に「いなくなった」と思い込んでるだけで。
谷川俊太郎さんだって亡くなってしまったけれど、タイムラインには彼の言葉が光の粒みたいにきらめいていた。彼はいなくなったのか?ある点ではそうかもしれないけど、またある点では違うかもしれない。
そんなことを考えていると、自分が宇宙の一端の、長い長い営みのなかにいるような気がしてきた。
▼去年はこんなことを考えていたらしい。▼