ROBERT JERVIS “Why Nuclear Superiority Doesn't Matter”
ROBERT JERVIS “Why Nuclear Superiority Doesn't Matter”
【訳文】ロバート・ジャービス 「なぜ核の優位は重要でないのか?」
米国の防衛政策における核兵器の役割に関する最近の議論では、重要な論点が明らかにされず、また、関係する基礎的な前提条件も扱われていない。議論の具体的内容は新しいものもあるが、基本的な問題は核時代と同じくらい古くからあり、「確証破壊(AD)」政策を主張する人々と「柔軟な対応(FR)」を求める人々との間の論争と呼ぶことができるだろう。ADの支持者は、いかなる核戦争も全面戦争となるため、米国は先制攻撃を受け入れざるを得ない場合でも、敵の都市を破壊できる確実な能力を有していればよいと考える。FRの支持者は、米国が備えるべき軍事的不測事態の範囲は広く、核兵器はそのような様々な不測事態に、より柔軟かつ限定的に使用することができると考えている。ADに対する主な反論は、現在も昔も、信憑性がなく、抑止が失敗すれば大惨事につながるというものであり、FRに対する主な反論は、費用がかかる、効果がない、危険であるというものである。本稿では、ADの立場を概ね擁護し、FRが核抑止力の本質を誤解していることを論じる。
確証破壊と柔軟な対応
ADの支持者は、相互の第二撃能力によってもたらされる米ソ両国の人口密集地の脆弱性が、戦略を一変させたと主張する。軍事的優位はもはや決定的な勝利を保証するものではないため、古い考え方はもはや適切ではない。先制攻撃能力を獲得しない限り払拭できない壊滅することへの健全な恐怖が、抑止を比較的容易にしている。さらに、都市を人質に取ることはできないため、武力の威嚇、示威、行使のどの時点でも、完全なる破壊の危険性を認識することが重要である。
それには4つの含意がある。第1に、純粋に軍事的に優位に立つだけでは自国を守ることはできないため、限定戦争におけるさまざまな動き、たとえば大規模な軍隊の使用、戦術核兵器の使用、さらには限定的戦略攻撃の実施は、戦況に影響を与えることよりも、紛争の継続が事態を収拾できなくなる許容できない危険をもたらすことを相手国に示すことが重要である。新兵器が導入されるのは、数マイルの領土を得るためではなく、シェリングがリスクテイクの競争と呼ぶものに参加するためである。エスカレーション・ドミナンス(全面戦争以下のあらゆるレベルの軍事紛争で勝利する能力)は、現状維持であれ変革であれ、目標を達成するために必要でも十分でもない。戦場で勝つことができても、目標の達成は保証されない。なぜなら、エスカレーションのリスクが大きすぎて、期待される利益が正当化されない可能性があるからである。
第2に、どちらがより多くの核兵器を持っているかは問題ではない。かつては、隣国より大きな軍隊を持つことで、その国を征服し、自国の住民を守ることができた。核兵器の保有量が多くても、そのような利益はない。抑止力は、相手の都市を破壊するのに十分な兵器を持っていることで得られる。この能力は、相対的なものではなく、絶対的なものである。
第3に、国家の安全保障が、相手よりも効果的な軍備を保有することではなく、相手を破壊する能力によってもたらされるとすれば、安全保障のジレンマを引き起こす力は減退していることになる。安全保障のジレンマは、核兵器以前の時代には、ある国を安全にする武器や政策が、他の国を危険にさらすという事実によって生み出された。国家を守るのに十分な大きさの軍隊は、たとえ国家がそのような脅威を意図していなくても、隣国を侵略で脅かすのに十分な大きさであるのが普通であった。しかし、安全保障が敵を全滅させる絶対的な能力からもたらされるのであれば、それぞれの国が同時にそれを獲得することができる。どちらの側も第二撃能力以上のものを身につける必要はなく、どちらかが身につけたとしても、自国の安全が脅かされていない以上、他方は反応する必要はないのである。
第4に、ADの立場として、核戦争の可能性は極めて低いということである。なぜなら、核戦争を引き起こすには、政治家は自国の人口密集地が破壊されるリスクを負うことを覚悟しなければならないからである。「恐怖のバランシングは…明らかにデリケート」であるだけでなく、政治家は軽率な行動が全面戦争につながることを知っているため、結果として、抑止力は自国への攻撃以上のものをカバーすることになる。大規模な攻撃はエスカレートの危険性をはらんでいる。米国とソ連は、アフリカやアジアなどの周辺地域で激しいレトリックの戦いを繰り広げ、武力を行使することもあるが、互いにどこまで追い込むことができるかは、大きな限界がある。しかし、そのような試みが完全な破壊につながる可能性は、あまりにも大きい。(そして、それは非常に低い確率であっても、大きすぎることがある。つまり、エスカレートする確率が非常に小さくても、深刻な侵攻を抑止するには十分なのである)。
柔軟な対応という立場は、あらゆる点で異なっている。その論理は、グレン・スナイダーが安定・不安定のパラドックスと呼んだものから見るのが最も適切である。全面的な核戦争のレベルではバランスが非常に安定しているため、各当事者はより低い暴力のレベルで挑発行為や軍事行動を行うことが比較的自由にできる。この議論の最も明白な応用例は、NATO が通常兵器でヨーロッパを防衛する能力を欠く場合、そのような戦争をしなければならない危険に直面することである。したがって、ソ連の第二撃能力は「我々の抑止力を阻止する」(ポール・ニッツェの論文のタイトルを引用している)ことになる。同じ議論は、さらに奇妙な状況にも適用できる。何か重要な目標を達成するために、ロシアは米国の核兵器部隊のほとんどを破壊するかもしれない。その都市は依然として人質となっているため、米国はソ連の都市に反撃することをためらうだろう。
FRの主張では、米国は、ソビエトの軍事行動を抑止し、ソビエトが軍事行動を起こしてもエスカレーションを抑止し、いかなる暴力レベルにおいてもできるだけ有利な結果を得るために、戦争、 あるいはむしろさまざまな戦争を行う用意がなければならないとしている。また、ADとは対照的に、FRは、核時代には、それ以前と同様に、各国の軍隊と人口密集地が潜在的な標的であるため、双方の軍備の絶対量は相対量よりも重要でないと主張している。意思決定者が、いかなる戦争も総力戦でなければならないと考えるのをやめ、安定・不安定のパラドックスによって、制御された自滅的でない攻撃という、より幅広い偶発的な事態が可能になると理解すれば、戦略バランスの細部の重要性は明らかになる。
このように、FRの支持者は、核時代におけるあらゆる主要な挑発行為の固有の危険性から、第二撃能力は自国への無制限の攻撃以上のものを防ぐというADの立場には同意しない。ブラウン国防長官は、「戦略核戦力が抑止できるのは比較的狭い範囲に限られ、わずか20~30年前に予測された範囲よりもはるかに小さいことを我々は認識している」と論じている。同様に、ブラウンは、以前のシュレジンジャーと同様に、「様々なレベルの攻撃に現実的かつ効果的に対応する能力があってはじめて…信頼できる抑止力に必要な自信を持つことができる」と主張している。しかし、エスカレーション・ドミナンスに近いものを標榜するこの議論は的外れであると、ADの支持者は答えるだろう。いかなる国家も、その人口密集地を人質から救い出すことができるという意味で、「効果的な」対応をすることはできない。したがって、ある対応が「現実的」であるかどうか、脅威が信頼できるかどうかは、リスクを冒す意思とこの意思に対する認識によって決まるのである。
安定性、予測可能性、そしてソ連の意図
この2つの考え方の違いは、安定性についての考え方の違いに起因している。両派とも、自国の都市を守ることが圧倒的に重要である点では一致している。しかし、FRの支持者にとっては、互いに破滅的な結果を避けるという共通の利害が、競争上の譲歩を引き出すためのテコとして利用されることがある。一方は、相手が全面戦争に応じると脅すことができないため、挑発的な行動をとることができる。一方、ADの支持者は、相手の重要な利益に対するいかなる挑戦もエスカレートしかねないという合理的な恐怖から、安定はより広く、抑止はより広い利益群をカバーすると考える。逆説的だが、安定とは、世界は完全に安定しているわけではない、物事が何らかの形で制御不能に陥る可能性がある、という信念の産物でもある。
エスカレーションのリスクをどの程度まで抑制し、制御できるかという信念に影響を与える2つの要素があり、ADとFRの提唱者がその両方について意見を異にするのは驚くことではない。第1の要素は、米国の反応とそれに対するソ連の予測である。FRの支持者は、ロシアが、大規模な挑発行為に対して米国が核兵器を使用しないことを確信し、そのような挑発行為を行う価値があると考えるかもしれないと懸念している。一方、AD政策を支持する人々は、米国があまりにも予測不可能な行動をとるため、どの国家も何をするか分からないと否定している。この点での意見の相違の一因は、ADとFRの双方の支持者が、米ソ両政府に自分たちの考えを投影していることにある。ロシアが大規模な軍備増強を行えば、米国を威嚇することになると考えるのは後者であり、否定するのは前者である。
リスクを制御できるように見えるかどうかという信念のもう一つの要素は、人間の問題における操作と予測の固有の限界についての判断である。これらの要素が明示的に議論されることはほとんどないが、FRの著作の多くのトーンは、人間は細かく、複雑で、正確な計算をすることができると暗に示している。摩擦、不確実性、実行の失敗、戦場の霧は主要な役割を果たさない。男たちははっきりとものを見て、部下たちは複雑な指示を実行することができ、相手側には望ましいメッセージが伝わる。したがって、ブラウン長官は最近、「もし我々が(ロシアに大規模な報復の脅威を与えて)ブラフをかけようとすれば、我々のブラフを過度のリスクなしに検証する方法が他から見つかるだろう」と主張した。このような試みが合理的なリスクを伴うのは、状況が完全に制御されており、ソビエトが比較的安全と見なす場合、そして彼らがそう信じている場合に限られるだろう(しかし、FRの支持者の多くは、米国はヨーロッパを防衛するために戦術核兵器に頼ることはできないと考えている。なぜなら、その使用はあまりにも簡単に全面戦争につながるからである。これは、超大国は限定的な戦略戦争を戦うことができるという信念と奇妙に符合する)。
ADの提唱者にとって、これは夢の世界である。これに基づいて戦争計画を立てることは可能だが、現実はそれに沿うものではない。さらに、意思決定者は、予測が誤り、状況が制御不能になることを何度も経験しているため、エスカレーションを慎重に操作できると信じるという誤りは犯さず、限定核戦争という正確な選択肢を信用しないであろう。FRの支持者は、起こりそうもないが危険な不測の事態に対処できるという意味で、慎重であると考える政策が必要であると考える。なぜなら、意思決定者が恐ろしいリスクを避けることを当てにできるとは思えないからである。ADの支持者は、政治家が少なくとも最低限の慎重さは持っていると確信しているため、米国の政策がそのように遠い可能性をカバーしなければならないとは考えないのである。
この信念の違い、あるいは直感の違いは、なぜFRの支持者の中に、ADの支持者よりもロシアの先制攻撃の危険性が高いと考える人がいるのかを説明するのに大いに役立っている。この問題は完全に技術的なものに思われるため、ここで意見の相違が生じることはないと思われる。しかし、そうではない。相手の戦略的戦力の大半を破壊できると信じて先制攻撃を行うことは、兵器は完全な運用状態で検証されたことはない、また相手のサイロの脆弱性(と自軍のサイロの脆弱性)は、戦争前に確実に知ることはできない、核兵器の大爆発が環境に与える影響は推測するしかない、複雑で不確実な一連の計算を受け入れることである。それは政治家がエスカレーションを防ぐ能力に十分な自信を持ち、大規模な挑発行為を行うことができると考えるのと同じ方向性で、政治家が武装解除のための攻撃を行うのに十分な推定値に自信を置くかもしれないという結論にも合致している。
大規模な挑発行為に内在するリスクについての考え方の違いが、ADとFRの対立の一因であるとすれば、もう一つは、ロシア側が進んで冒すリスクに対する認識の違いである。ADの支持者の多くは、拡大志向が全くないわけではないが、ロシア人はすでに得たものを危険にさらすほど強い動機付けは持っていないと主張する。FRの支持者は、ロシア人が戦争を望んでいるのではなく、その目標に到達するために大きなリスクを冒すほど影響力を増大させることに関心があると主張する。そして、巨大な軍事力を獲得することで、ロシアは危険な対立を招くことなく拡大することができると期待することができる。しかし、ADの推進派は、「世界の歴史上、都市を人質に取ってまで拡大路線を歩む意思決定者はほとんどいない」と反論するだろう。ヒトラーでさえ、軍事的に連合国を敗戦させることができれば、自分の国を守ることができると知っていたため、おそらくそのような例ではないだろう。
ADの提唱者は、FRの提唱者よりもロシア側の動機が弱いと考えているため、米国が与える必要のある損害とそれが与えられる確率の両面から、はるかに少ない抑止力で十分であると考え ている。したがって、「どの程度の信頼性があれば十分か」をめぐる意見の相違がある。そのため、二人の政策アナリストは、ロシア人が限定戦争がエスカレートする可能性について同意し、抑止されるかどうかをめぐって意見が異なるかもしれない。
柔軟な対応が求められる状況
FR推進派の基本的な懸念は、ソ連の人口集中地区を攻撃するという脅威は、ソ連がそれに応じることができる場合には信頼できない、ということである。ケネディ大統領の言葉を借りれば、危機において米国は「屈辱か全面的な核行動かよりも広い選択肢を持たなければならない」。FRの支持者が考える危険性は、1975年にシュレシンジャー国防長官がうまく表現している。「一方が他方の柔軟で制御のとれた対応能力を排除すれば、最終的なホロコーストを引き起こすことなく、強制力を行使して譲歩を引き出す方法を見出すことができるかもしれない…相手は、少なくとも相応の対応を取られることなく、わが国のミニットマンやSAC(戦略空軍司令部)の基地を攻撃できるとは考えないはずである。敵対勢力は、軍事的・経済的に価値のある他の米国の標的を攻撃しても、自国内の同様の、あるいは他の適切な標的が攻撃されるとは思わないはずである…とりわけ、いかなる相手も、柔軟な戦略的対応の能力を奪うことを許すという考えを抱くべきではない」。
シュレシンジャーや他のFRの支持者が、2種類の戦争の区別を曖昧にしていることを見れば、この問題をより明確に検討することができる。第1は、デモンストレーション攻撃である。これは大量のミサイルを必要としないため、双方の戦力の規模や脆弱性は重要ではない。もう一つは、ロシアが先制核攻撃を行い、米国の戦略兵力をできるだけ破壊しようとする消耗戦で、一撃で、あるいはよりゆっくりとした動きで、相手兵力を連続攻撃で破壊していくものだ。米国はソ連の都市を攻撃することはできるものの、そのような攻撃の結果は、30分後に米国の都市が吹き飛ばされるだけである。米国の戦略的戦力が脆弱であれば、ロシアは同様の割合の戦力を使うことなくその多くを破壊できる。米軍が保護目標を攻撃できなければ、ロシアの戦力を削ぐことはできないだろう。しかし、これは極めて重要なことであるが、双方の対戦力能力の比較が問題となるのは、反撃力の消耗戦の場合だけである。
防衛問題が発生する様々な文脈を検討すると、決意を示すことで効果を発揮する攻撃と相手の能力を低下させることを目的とする攻撃の区別が繰り返され、ADとFRの立場の基本的な違いに密接に結びついていることが分かる。もしADの立場が正しく、核時代において反撃力による消耗戦が現実的でないならば、米国はミニットマンが脆弱であるとか、ロシアが米国よりもハードターゲットを破壊する能力が高いとかを心配する必要はない。この議論を評価するためには、潜在的に危機的な状況を検証することが有効である。
ヨーロッパを守るために
大きな懸念は、米国がエスカレートしない限り、ソ連が欧州を制覇するような大規模な通常攻撃に出ることである。米国が戦術核兵器で敗戦を食い止めようとすれば、ソ連はそれに応え、西側が得た優位性を無効化する可能性がある。FRの解決策の1つは、どのような暴力レベルであれ、攻撃から身を守る手段を開発することであろう。したがって、西側諸国は、通常兵力を配備して通常攻撃を封じ込め、戦術核兵器を配備して同様の攻撃に対処することになる。この魅力的な議論は正しくない。侵略国は、防御国が抵抗する代償(戦闘がそれぞれの人口密集地に拡大する確率を含む)を支払わないと信じれば、エスカレーション・ドミナンスに直面しても攻撃することができる。このコインの裏側には、ヨーロッパで軍事的勝利を確信できる国家が、戦争が自国にも広がるかもしれないという不安から、攻撃を思いとどまったり、攻撃から防衛することを躊躇したりする可能性があるということである。このようなエスカレートのリスクをゼロにすることができた場合にのみ、この要素がなくなり、純粋に軍事的な考慮が決定的になる。このように、FRの擁護者は、自分たちの政策の有効性を誇張しているのである。
もちろん、米国にエスカレーション・ドナンスがなければ、ソ連がヨーロッパを攻撃した場合に、暴力とリスクのレベルを高めるイニシアティブを取らなければならない。しかし、最初の一手を打つ責任は、依然として侵略国にある。そして、リスクのレベルは双方が等しく共有しているため、イニシアチブを取らざるを得ないことに対する阻害要因よりも重要なのは、敗北を認めるのではなく、瀬戸際に近づこうとする意欲やその意志であると思われ、これはエスカレーション・ドミナンスとは関係ない要因である。さらに、いくつかの実際的な考察がこの結論を補強している。バーナード・ブロディが論じたように、NATOの戦術核兵器を前にしてソ連が通常攻撃を仕掛けるとは考えにくい。そのような攻撃には、NATOの戦術核兵器の格好の標的となるような大規模な部隊が必要である。ソ連は、自国の戦略核戦力や戦術核戦力がこのような NATOの反応を抑止できると十分に確信しておらず、自国の軍隊をそれほど無防備にしておくことはできないだろう。そして、ロシアが戦術核による戦争を始めるには、2つの困難が伴う。第1に、このような戦争がどのように行われるかについての不確実性は非常に大きく、どの国も勝つと確信することは難しいだろう。第2に、このレベルの暴力的な戦争は、特に米国の戦略的戦力を誘発する可能性が高い。
代替的なFR政策は、米国が十分な規模の戦略的戦力を開発し、そうすることでソ連が完全に武装解除されないとしても、その戦力の一部で脅威を与え、必要であれば反撃に出ることである。ソ連は米国の人口密集地に報復することはできても、自国の都市がまだ人質になっているため、報復はしないだろう。したがって、米国は「自国への攻撃を抑止できるICBM戦力が残存していることを確信して」攻撃を開始することができたのである。この安全保障の概念は奇妙なもので、ロシアは先制攻撃に対する反撃力を冷静に受け止めるという確信に基づくものである。なぜなら、FRの支持者は、ソ連の軍事ドクトリンに細心の注意を払うべきだといいながら、この点に関しては、先制攻撃を強調し、限定核戦争の可能性を否定するこれらのテキストを平然と無視するからである。
同様の誤りは、シュレジンジャー国防長官が、米国は同盟国との約束があるため、核のオプションを制限することを擁護したことに具現化されている。「米国には同盟国との約束があるため、実行可能な脅威を持ち、実行可能であると認識される核戦力が必要である。ある種の敵対行為があった場合、それを実行できる脅威がなければ、米国の戦力構造は論理的に抑止に貢献しない」。一方、米国が限定的核攻撃能力を有していれば、「侵略行為への対応を自制することはない」と彼は続ける。しかし、「自己抑止」という概念は役に立たず、その議論は維持できない。米国は、ソ連の報復の恐怖によって抑止されているのである。この危険は、ソ連が第二撃能力を持つ限り存在する。したがって、それはソ連の「優位性」ではなく、パリティの結果である。仮に、米国がシュレジンジャーの目標である「能力と目標オプションの両方におけるソ連との本質的な戦略的均衡」を維持することに成功したとしても、オプションを使用するための費用とリスクは残るだろう。
相手国が武装解除されなくても、反撃力のある側が安全に攻撃できるという主張は、相手の戦略的能力を低下させ、相手の都市を温存する消耗戦にしか当てはまらない。米国が欧州を守るためにこのオプションを採用できるという主張は、ソ連が大きな反撃力優位の余裕を持てば、西側を強制するためにそれを使うことができるという主張の裏返しである。この主張の妥当性は、消耗戦が深刻な可能性であるか、そのような紛争が人口密集地への攻撃にエスカレートする危険性が意思決定者の計算を支配するかどうかにかかっている。
先制
FRの支持者の中には、ロシアがヨーロッパに攻撃を仕掛ける可能性は最も低いと考えているが、ソ連の戦略軍が米国の戦略軍よりもはるかに効果的で、米国の戦略軍のかなりの割合が脆弱である場合、ロシアが戦争の可能性が非常に高いと考えた場合、おそらく求めてもいない重大危機で先制攻撃を行うかもしれないと懸念している人もいる。しかし、FR推進派が主張するサイロや指揮統制施設を攻撃する能力は、米国が先制攻撃した場合、ソ連の陸上ミサイルの大部分(ソ連の戦略兵力の大部分は陸上)を破壊できるため、この危険性を増大させる。ロシアがミサイルを攻撃する動機の一部が、反撃力のために必要とされる正確さに由来することを認めずに、ソ連が攻撃する機会を減らすために米国が新しいタイプのミサイルを必要とすると主張するのは少しばかり不誠実である。
さらに重要なことに、先制攻撃は、最初に打たれることが最初の一撃を受けることよりもはるかに悪い場合にのみ意味をなす。指導者が戦争は完全な破壊をもたらすと信じている国家は、たとえ多くのミサイルが脆弱であっても先制攻撃する動機はないだろう。ここで、他の点と同様に、FRの支持者は、純粋に軍事的な要因(双方の兵器の数や特性)に集中し、リスクの発生源としての軍事的な動きの役割を無視するという重大な誤りを犯している。FRの議論は、抑止には十分な兵力と種類が必要であり、相手が先制攻撃した場合、しなかった場合よりも軍事的に不利になる、というものである。したがって、例えばロシアが2000個の弾頭を持つミサイルを200発使用し、米国のICBMの大部分を破壊することができれば危険である。ブラウン国防長官は、「限定的な軍事力行使の後で、敵が行使前よりも有利になるとは考えないようにしなければならない。敵が、軍事的あるいは心理的な非対称性を作り出して、それを搾取することができると考えることを許してはならない」と述べている。しかし、ロシアがより有利な比率のミサイルを獲得できたからといって、何らかの意味のある目標に近づいたことにはならないし、米国が先制攻撃して利用できるミサイルの比率がロシアにとって不利になった場合よりも近づいたことになる。唯一の有意義な目標は、自分たちの都市を守り、可能であれば紛争で勝利することであろう。しかし、純粋に軍事的な意味での利益は、平時の場合と同様、戦時にはこれらの目的を達成することはできない。お互いに相手の社会を破壊する能力を保持している限り、相手より多くの弾頭を持つことは、相手を後退させる場合にのみ有利であり、FRの推進者は、そのような貢献ができることを示さないままである。先制攻撃の軍事的優位は、戦力が反撃力の状態のままであり、一連の交戦の後に最も多くのミサイルを残した国家が、人口密集地を失うことなく勝利した場合にのみ、政治的利益に転化することができる。ここでのFRの誤りは、ヨーロッパでの紛争を抑止し、あるいは勝利するためには、エスカレーション・ドミナンスの優位が必要または十分であるという主張に関わるものと同様である。軍事力の競争ではなく、リスクテイクの競争が支配的である。
反撃力の消耗戦と決意のバランス
反撃力の消耗戦では、兵器の数と特性が非常に重要である。核兵器時代以前と同様、重要なのは、絶対的な能力ではなく、相手の相対的な強さであろう。弾頭の主な標的が人口密集地ではなく、他の兵器であることから、AD派の基本的な主張は崩れる。反撃力の消耗戦が起こる可能性は、必要な準備を正当化するのに十分なのだろうか。人口密集地を免れ、どちらの国家が相手の軍事力をより効果的に削ぐことができるかによって結果が決まるような核戦争があり得るだろうか。たとえ、ロシアにそのような戦争に勝つ能力があったとしても、米国の自制心を信頼して攻撃を命じるには、ロシアが自暴自棄になるか、ひどく高いリスクを冒すことをいとわなければならないだろう。米国がそのような戦争に勝つことができたとしても、米国が戦争の全期間を通じて支配を維持できると考えているとロシア側が信じなければ、(例えばソ連のヨーロッパ攻撃に対する)米国の戦争開始の脅威は信用できないだろう。
さらに、前例のない数の民間人が犠牲になるが、この制御は維持されなければならない。ロシアの大規模な反撃は、軍事目標のみの破壊にとどまらない。大統領にとっては、米国のほとんどの人口密集地が依然として人質となっていることは明らかであろうが、全面的な反撃の危険性を鋭くするのに十分な被害がもたらされたことになる。このような対応の可能性は、たとえ米国がこのような対応をとらないと言ったとしても、ソ連の意思決定者に非常に大きな重荷となるはずである。
しかし、厳重な管理が存在すれば、消耗戦の戦略の成功が保証されるわけでもない。ロシアが反撃に転じ、米国がソ連の都市に報復しなかった場合、全く反応しないことで、ロシアの戦争遂行戦略を無効化する可能性がある。これは人口集中地区への反撃と同様に奇異に映るかもしれないが、よくよく考えてみると、それなりに意味がある。なぜ米国が報復しなければならないのか。米国の戦略的戦力の大部分を破壊することで、ロシアは何を得ることができたのだろうか。なぜ、攻撃前よりも攻撃後の方が、彼らの意向を反映できる立場にあるのだろうか。もし米国が弱体化したかのように振舞えば、交渉上の立場は悪くなるが、これは米国が制御できる範囲内である。ロシアの都市を後で破壊する能力を維持しながら、対応を保留することは、高い決意の表れとも低い決意の表れとも簡単に受け取れる。米国は多くのロシア軍の目標への攻撃を見送ることになるが、これを攻撃してもソ連が米国を破壊する能力を制限することはできないため、それほど価値のあるものを犠牲にすることはないだろう。ヨーロッパで同時に戦争が行われていて、それに対応できなかったために陸上戦力の不均衡が生じたり拡大したりした場合にのみ、反撃のための攻撃を控えることは、価値のあるものを放棄することになる。しかし、ソ連がヨーロッパでの戦争と同時に米国の戦略部隊(およびNATOの戦術核部隊)を攻撃することは、ソ連の人口密集地に米国が反撃する非常に高いリスクを負うことになる。
ソ連の反撃に応じない可能性があることは、核の消耗戦の奇妙な性質を指摘している。相手の戦略兵力を減らす努力の恩恵は、国家が社会を人質から解放することができたとき、終結間際にしか訪れない。その時点に到達しない限り、そして到達するまでは、反撃力の消耗戦に「負けている」側は、「勝っている」側に対して、開戦前とほぼ同じダメージを与えることができる。軍事的な努力は、「負けた側」が「勝った側」の都市を温存することによって、初めて成功することができる。もちろん、「敗者」が人口密集地に対する反撃を開始することは、「勝者」が報復することが予想されるため、費用負担が大きくなる。しかし、これは戦略的バランスの細部に関係なくいえることである。
消耗戦であっても究極の脅威が都市の破壊であるならば、そのような戦争は戦場で優位に立とうとする試みというより、リスクを取るための競争であることは明らかである。反撃によって一方にもたらされる軍事的優位に注目することは、核戦争ではエスカレーションの脅威という要素が非常に大きくなることを無視することになる。ブラウン国防長官は、広範な軍事目標を攻撃する能力があれば、「核を持つ相手による脅威や行動に信頼性をもって対応することができる」と述べているが、この一般的な指摘は外れている。しかし、重要なのは能力よりも、それを使う意志である。米国にソ連と一対一で戦える能力があったとしても、費用とリスクが大きすぎるという理由から、そうしないかもしれないし、ロシアは米国が反応しないと信じて動くかもしれない。また、米国にそのような能力がなかったとしても、ソ連は全面的な対応を恐れて、いかなる挑発も法外な費用がかかると考えるようになるかもしれない。限定的な戦略の戦争で重要なのは、たとえ軍事的な標的が主体であっても、高いリスクを冒す意思があるかどうかであり、その結果を最も強く左右するのは、「軍事力のバランス」ではなく「決意のバランス」である。余分な弾薬は、意志の弱さ、または破壊の危険を冒すことへの拒否−おそらく賢明な拒否−を補うことはできない。
リスクを取る上での競争の重要性は、相手の軍事能力を低下させる試みよりも、デモンストレーション攻撃の方が有用であることを示唆している。そのような攻撃は、軍事施設、相手の戦略的戦力の孤立した要素、指揮統制施設、または都市を狙うことができる。このような行動の目的は、痛みを与え、決意を示し、全面戦争のリスクを相手が耐えられないと思うレベルまで引き上げることである。もちろん、そのようなリスクは双方に重くのしかかる。しかし、高いリスクを進んで受け入れることによってのみ、国家は勝利することができる。高い決意に加え、核のデモンストレーションを行うためには、国家はある程度の数の限定的なオプションを実行することができる必要がある。しかし、必要な弾薬は、反撃力の消耗戦ほど高くはない(また、双方が同時にデモンストレーションの能力を持つことも可能である)。
デモンストレーション攻撃は、3つの方法で圧力をかけることができる。第1に、相手国にある程度の懲罰を与えることである。しかし、すぐに与えられる痛みは、おそらくこのような攻撃の根本的な動機である、相手が攻撃国家の要求に従わなければ、さらに被害を与えるという暗黙の脅しよりも重要ではないだろう。この脅威は、攻撃国が自国の目標が攻撃される可能性を高めるような非常に危険な行動に出ることを望んでいることを示したために、信憑性を獲得した。双方が第二撃能力を持つ場合、危機において一方が勝つのは、相手に苦痛を与えることができることを示すためではなく(これは双方にとって明白かつ真実であるため)、自分が危機に瀕した問題について非常に強く感じており、敗北に苦しむよりもむしろお返しに苦痛を受けてもよいと思うことを示すためである。第3に、核攻撃は制御不能なエスカレーションを引き起こす可能性を増大させる。核兵器を使用しないよう、あるいは使用された場合に譲歩するよう、政治家に強い圧力をかけているのは、このような危険性があるからである。たとえ一方が反撃に出たとしても、どちらかが弾薬を使い果たす前に戦争はほぼ間違いなく終結する。能力ではなく、決意が制約要因になる。ブラウン長官は、「完全に効果的な抑止には、軍事目標およびその他の目標を選択的に攻撃するための十分な規模と柔軟性を備えた戦力が必要である」と主張し、そのために米国は不死身のICBMを必要としているが、消耗戦の観点から考えているか、米国が必要とする弾頭数を誇張しているかのどちらかであろう。
考えられる反論
これまでの分析で暗黙の了解となっている結論を導き出す前に、3 つの明白な反論を記 述しておく必要がある。第1に、もし私が正しく、戦略的なバランスがかなり安定しているならば、米国の軍備の増強は悲惨な結果をもたらさない、と主張することができる25。米国が追加の配備によって失うものは金だけなのだから、安全策をとって余分なシステムを購入した方がよい、というのが批判的な意見である。さらに、消耗戦が起きないことを誰がどうやって確認できるだろうか。しかし、確かに、もっともらしいことを判断し、費用を心配し、米国が他国に誤った、また危険な教訓を教える可能性を考慮することは必要である。新兵器には多額の費用がかかるため、無駄を省くことは軽んじられる目標ではない。さらに、敵対国の国防予算、あるいは予算と超大国の衝突の度合いとの間に強力かつ直接的な関連性はないが、軍事と政治の路線を完全に分離することは困難である。最後の反論が最も重要である。限定的核戦争が可能であるとの仮定に基づいて態勢を整えることは、核戦争が起こる可能性を高めることである。もしロシアがすでに核戦争を限定的に維持できる可能性を信じているならば、米国はこの立場を受け入れることで、核戦争が起こる可能性を高めることになる。一方、ロシア人がこのような戦争は理解しがたいと考えていても、米国が十分に長く説得力のある話し方をすれば、受け入れるようになるかもしれない。そうなれば、核戦争が直ちに人口密集地の大量破壊を引き起こす可能性は低くなるが、その代償として、より限定的な核戦争が起こる可能性が高まり、それがエスカレートする可能性がある。このようなトレードオフは可能性が高く、シュレシンジャーでさえ、自らのドクトリンの採用が限定的核攻撃の可能性を高める可能性があることを認めている。
第2の反論は、相互確証破壊が安定をもたらすという考え方をロシアが受け入れていないことを私の分析が無視しているということである。ソ連の軍事ドクトリンは難解な分野であり、ここで詳しく説明することはできないが、ソ連の戦略観が米国と大きく異なっていることを示す証拠は多い。彼らは、戦争をより真剣に受け止めているように見える。実際、ソ連の軍事ドクトリンの多くは純粋な軍事ドクトリンである。つまり、その思想は特にロシア的でもなければ、特にマルクス主義的でもなく、社会を保護し戦争に勝利することを任務とする人々に期待されるものであるだけである。ソ連の将軍の発言の多くは、米国の将軍が思想に影響されず、文民指導者のパワーに制約されない場合には、米国の将軍の発言と似ている。したがって、ロシア人がおそらく抑止のために必要な以上のものを購入しているという事実から、彼らが拡大しようとするために高いリスクを冒すことをいとわないという推論を引き出すことはできない。より高い支出を求める米国の将官は、それに反対する者より好戦的であるとは限らない。ロシアもアメリカの将軍も、最悪の事態を想定して、戦争が強行された場合に戦えるように準備しておきたいのかもしれない。ロシア人は保険に加入しているのだろうが、普通、車に多額の保険をかける人が無謀な運転をしようと思っているとは思わない。
ロシアが、戦争が強制された場合にできるだけ良い結果をもたらすような軍事力を望んでいるという証拠はかなりあるが、そのような軍事力が西側を強制するために使用できると考えているという証拠はほとんどない。軍事目標を破壊する優れた能力が、政治的な前進を可能にする盾になると考えていることや、ソ連の軍事ドクトリンが、米国の抑止力を米国の姿勢と一致させる能力という観点から測定していることは、まだ示されていない。ロシア人は、相互の脆弱性が望ましい状態であるという考えを受け入れないかもしれないが、米国の脅威が自分たちの社会を破壊する力があることはよく理解しているようである。実際、彼らの見通しは、反撃力による消耗戦には不向きである。ロシアは、戦争になれば米国の戦略部隊を攻撃するだろうが、相手の都市を守るようなことは言っていない。むしろ、戦争が起きたら、できるだけ多くの標的を攻撃しようと考えているようだ。
仮にロシア側が「消耗戦は可能だと思う」と述べたとしても、米国はそのような考えを採用する必要はない。反撃力の戦争を行うには双方の合意が必要だが、ADの場合はそうではない。
もし一方が、反撃力による戦争が限定的なものにとどまる可能性を否定し、他方がそう信じていると説得すれば、他方はそのドクトリンに基づいて安全に行動することはできない。マクナマラやシュレジンジャーがそのドクトリンを発表していた時期、ロシア側はこのことを理解しており、米国の政治家は彼らの不信任の公言を真摯に受け止めていた。たとえロシアがその立場を逆転させたとしても、米国の否定を真剣に受け止めなければならないだろう。
第3の反論は、ソ連の優れた戦略戦力破壊能力とそれに関連するミニットマンに対する脆弱性の存在は、戦略的な問題ではないが、政治的な問題であるというものである。したがって、他国は核の優越性を示す指標に影響されるため、米国はこの競争に参加しなければならない(この主張をする人の多くは、優越性は認識とは別に意味があると主張するので、この主張には信憑性がない)。反論はいくつかある。第1に、欧州や第3世界の指導者が戦略バランスの細部にまで注意を払っている証拠はほとんどない。第2に、米国は第3者によるバランスに関する議論の基礎となる情報や概念的な枠組みのほとんどを提供している。米国は、ロシアがソ連のミサイルを破壊する米国の能力の多くを一掃できるため、異なる行動をとるだろうと他国を説得することができるかもしれない。しかし、それが真実でないと説得するのは、おそらくもっと簡単だろう。世界の指導者の中で、米ソが消耗戦を繰り広げることを期待している人はほとんどいない。さらに、ロシアが優勢であることが重要であると考え、多少勇み足になったとしても、米国がこれはナンセンスであるという立場を貫けば、彼らが得る交渉上の利点はわずかなものになるであろう。米国がソ連に戦力差に意味がないと信じ込ませれば、ソ連は米国が退却する可能性が高いと考える理由がなくなるため、危機交渉で安全に立ち回ることができなくなる。
結論
いくつかの結論を導き出すことができる。どちらの側が相手の戦略的戦力を破壊する能力が高いかという問題は、消耗戦の場合にのみ重要である。そのような戦争は起こりそうにないため、そのために巨額の資金を費やし、かなりの危険を冒す価値はない。どちらの側も、相手の人口密集地を破壊するために核兵器を使用することができるため、エスカレーションの危険性はどの戦争でも非常に大きな役割を果たすことになり、相手より多くのミサイル、より正確なミサイル、より不死身のミサイルを持つことによっても制御できないのである。核革命は元に戻すことはできない。これまで見てきたように、ソ連の優位性から来る危険とされる議論の多くは、実際にはパリティの結果である。米国の抑止力は、都市が脆弱であることによって抑止されるのであって、ロシアが何らかの軍事的優位性を持っていると想定されることによって抑止されるのではない。米国もソ連もその都市を人質から取り上げることはできないため、最大の危険を冒すことをいとわない国家が勝つことになる。米国にソ連の核兵器に匹敵する、あるいは凌駕するものを求める人々の多くは、米国が感じている決意の弱さを兵器の過剰で補わせようとしているのである。しかし、そのような欠点があるとしても、補うことはできない。選択肢の幅が広がれば、ロシアは西側諸国を威圧する方法を増やし、より安全な方法を手に入れることになるだけである。
もし、決意のバランスがそれほど重要なら、米国はソ連に比べて不利なのだろうか。米国はベトナムで、自国の利益と同盟国の利益を守るために戦わないことを示したと主張する人もいるだろう。しかし、1975年4月以降、ドミノ倒しはほとんど起こらなかった。他の国家は、米国が最終的に撤退することよりも、重要でない国のために多くの血と財を費やそうとすることに、それほど強い印象を持たなかったかもしれない。さらに、決意はアクターの全体的な特徴というよりも、与えられた問題で勝とうとする国家の動機の強さを反映するため、状況によって変化する要因である。現状を守る国家は、通常、相手よりも懸案事項や領土を重視するため、決意のバランスが重要となるほとんどの紛争で優位に立つことができる。国家にとって、拡張を見送る代わりに戦うという信頼できる脅しをかけるよりも、今あるものを保持するために戦うと相手に思わせる方が簡単なのである。決意がそれほど重要な意味を持つ世界は、米国にとってそれほど悪いことではないかもしれない。
現状を守る側の決意の大きさを双方が認識しても、特に第3国の危機から発展した状況では、事故や誤算は起こりうる。ADだけに頼るのは危険すぎるかもしれない。米国の現在の態勢を継続することで、ある程度の保険をかけることができる。それには、限定的な核オプションを利用できるようにすることが含まれる。しかし、それはあくまでもデモンストレーションであり、リスクを競い合うためのものであって、消耗戦のためのものではあってはならない。したがって、米国は核戦力の標準的な尺度のいずれにおいてもソ連に対抗する必要はないだろう。敗戦を喫するくらいなら極端な手段を取ることも厭わないことを限定的な使用で示すには、優れた軍事力、あるいは同等の軍事力が必要なわけではない。このような費用とリスクは、核時代の交渉の切り札である。たとえ米国がFR政策のための兵器とドクトリンを持っていたとしても、それに依存せざるを得ない。
米国は限定的な核実験を行うことができるはずだが、この部分を強調すべきではない。現時点では、そのような幻想的な手段が必要になるとは考えられないし、最も悲惨な緊急事態にのみ行われるものと見なすべきであり、国家運営の道具として見なすべきでもない。このような攻撃の可能性についてあまりに議論しすぎると、どちらか一方または双方が、限定的な応酬のリスクは管理可能であり、エスカレーションは厳重に管理されたままであると考えるようになりかねない。その結果、米国はせいぜい、限定的な核戦争が起こりやすい世界を作り出すにとどまるだろう。最悪の場合、こうした考え方は検証され、間違っていることが証明されるだろう。
もちろん、デモンストレーション攻撃を行う能力によって補完されたAD政策は成功しないかもしれない。全面戦争が勃発する恐れがあるため、双方が慎重になり、重要な問題について現状を無理に変えようとするのは危険すぎるからである。しかし、後から振り返ってみると非常に明瞭に見える状況でも誤算はあり得るし、国家は時として、高く評価されている目標を達成するために、他人が法外なリスクと思うようなことを進んで行うことがあるものである。優れた軍事力が抑止力を保証するものではないことを、1941年に日本が行った戦争への決断が教えてくれる。日本は、指導者が代替案を利益の放棄ではなく、「存在そのもの」を失うと考えたため、戦争をしかけた31。このように、彼らは非常に高いモチベーションを有していた。米国の意思決定者が考えているよりもさらに高いモチベーションを有していた。さらに、彼らは全面戦争に勝てないことを十分承知していた。しかし、彼らはそのような戦争をしなければならないとは思っていなかった。米国は長く費用のかかる闘争をするよりも、東アジアにおける支配を譲歩することを望むため、戦争は限定的なものになると考えていた。ロシアも同様に、米国は奈落の底に近づくよりも譲歩することを望むため、核戦争は限定的に抑えられると考える可能性が常にある。ロシアにとっては、誤算に対する罰が日本よりはるかに大きいため、警戒心はより強くなるはずである。しかし、危険は依然として残っており、それは兵器の増産では対応できない。
【英文】
Recent debates on the role of nuclear weapons in American defense policy have not clarified the important issues or dealt with the underlying assumptions that are involved. While some of the specifics of the arguments are new, the basic questions are as old as the nuclear era and can be referred to as the dispute between those who advocate a policy of Assured Destruction (AD) andthose who call for Flexible Response (FR). Proponents of AD believe that any nuclearwar willbe all-out war and therefore that the United States need only have an assured capacity to destroy an enemy's cities even if forced to absorb a first strike. Proponents of FR hold that there is a range of military contingencies for which the United States must be prepared and that nuclear weapons can be used in a variety of such contingencies in a more flexible, limited way. The main arguments against AD, now as in the past, are that it is not credible and would lead to disaster if deterrence failed; the central argument against FR is that it is costly, ineffective, and dangerous. This article generally defends the AD position and argues that FR misunderstands the nature of nuclear deterrence.
ASSURED DESTRUCTION AND FLEXIBLE RESPONSE
Proponents of AD argue that the vulnerability of population centers in both the United States and the Soviet Union that comes with mutual second-strike capability has transformed strategy. Because a military advantage no longer assures a decisive victory, old ways of thinking are no longer appropriate. The healthy fear of devastation, which cannot be exorcised short of the attainment of a first-strike capability, makes deterrence relatively easy. Furthermore, because cities cannot be taken out of hostage, the perceived danger of total destruction is crucial at all points in the threat, display, or use of force.
Four implications follow. First, because gaining the upper hand in purely military terms cannot protect one's country, various moves in a limited war-such as using large armies, employing tactical nuclear weapons, or even engaging in limited strategic strikes-are less important for influencing the course of the battle than for showing the other side that a continuation of the conflict raises an unacceptable danger that things will get out of hand. New weapons are introduced not to gain a few miles of territory, but to engage in what Schelling has called competition in risk taking.1 Escalation dominance-the ability to prevail at every level of military conflict below that of all-out war-is thus neither necessary nor sufficient to reach one's goals, be they to preserve the status quo or to change it. Being able to win on the battlefield does not guarantee winning one's objectives, since the risk of escalation may be too great to justify the expected benefits.
Second, it does not matter which side has more nuclear weapons. In the past, having a larger army than one's neighbor allowed one to conquer it and protect one's own population. Having a larger nuclear stockpile yields no such gains. Deterrence comes from having enough weapons to destroy the other's cities; this capability is an absolute, not a relative, one.2
Third, if national security is provided by one's capability to destroy the opponent, not by the possession of a more effective military machine than the other side, then the force that drives the security dilemma is sapped. The security dilemma is created by the fact that in the prenuclear era weapons and policies that made one country secure made others insecure. An army large enough to protect the state was usually large enough to threaten a neighbor with invasion, even if the state did not intend such a threat. But when security comes from the absolute capability to annihilate one's enemy, then each side can gain it simultaneously. Neither side need acquire more than a second-strike capability and, if either does, the other need not respond since its security is not threatened.3
A fourth aspect of the AD position is that nuclear war is very unlikely because to initiate it a statesman would have to be willing to run the risk that his country's population centers would be destroyed. Not only is "the balance of terror .. . decidedly not delicate," but, because statesmen know that imprudent action could lead to all-out war, the resulting deterrence covers a lot more than attacks on one's homeland. To take any major offensive action is to run an intolerably high risk of escalation. The United States and the Soviet Union may engage in fierce rhetorical battles and even use force in such peripheral areas as Africa and Asia, but there are sharp limits to how far they can push each other. The chance that such attempts would lead to total destruction is simply too great. (And it can be too great even though it is very low. That is, even a very small probability of escalation is sufficient to deter serious encroachments.)
The Flexible Response position is different on all counts. Its logic is best seen in terms of what Glenn Snyder has called the stability-instability paradox.5 Because the balance is so stable at the level of all-out nuclear war, each side is relatively free to engage in provocations and military actions at lower levels of violence. The most obvious application of this argument is that if NATO lacks the ability to defend Europe with conventional weapons, it faces the danger of having to fight such a war: thus the Soviet second-strike capability would "deter our deterrent" (to paraphrase the title from an article by Paul Nitze).? The same argument can be applied to more bizarre situations. To secure some highly valued goal the Russians might destroy most of the American Minuteman force. Since its cities were still in hostage, the United States would be deterred from striking back at Soviet cities.
For the advocates of FR, the United States must be prepared to fight a war-or rather a variety of wars-in order to gain a better chance of deterring the Soviets from making any military moves, to deter them from escalating if they do move, and to secure as favorable an outcome as possible at any level of violence. In contrast to the AD view, FR argues that in the nuclear era, as in earlier times, the absolute amount of armaments on each side is less important than the relative amounts because each nation's military forces as well as its population centers are potential targets. As decision makers stop thinking that any war must be total and realize that the stability-instability paradox allows a wider range of contingencies of controlled and less self-defeating strikes, the importance of the details of the strategic balance becomes clear.7
Proponents of FR thus disagree with the AD position that the inherent riskiness of any major provocation in the nuclear era means that a second-strike capability protects against much more than an unrestrained assault on the country's homeland. Secretary of Defense Brown argues that "we now recognize that the strategic nuclear forces can deter only a relatively narrow range of con- tingencies, much smaller in range than was foreseen only 20 or 30 years ago."8 Similarly, Brown, like Schlesinger before him, claims that "only if we have the capability to respond realistically and effectively to an attack at a variety of levels can we . . . have the confidence necessary to a credible deterrent."9 But, the proponents of AD would reply, this argument advocating something approximating escalation dominance misses the point. No state can respond "effectively" in the sense of being able to take its population centers out of hostage; thus, it is the willingness to run risks and the perceptions of this willingness that will determine whether a response is "realistic" and a threat is credible.
Stability, Predictability, and Soviet Intentions
Much of the difference between the two schools of thought turns on differing ideas about stability. Both groups agree on the overwhelming importance of preserving one's cities. But for the proponents of FR, the common interest in avoiding a mutually disastrous outcome can be used as a lever to extract competitive concessions. Either side can take provocative actions because the other cannot credibly threaten to respond by all-out war. Proponents of AD, on the other hand, see stability as broader, and deterrence as covering a wider set of interests, since it follows from the reasonable fear that any challenge to an opponent's vital interest could escalate. Paradoxically, stability is in part the product of the belief that the world is not entirely stable, that things could somehow get out of control.
There are two elements that influence beliefs about the extent to which the risks of escalation could be kept limited and controlled, and it is not surprising that advocates of AD and FR disagree about both. The first element is the American reaction and the Soviet anticipation of it. Advocates of FR fear that the Russians might be certain enough that the United States would not use nuclear weapons in response to a major provocation to make such a provocation worth taking. Those who support a policy of AD deny this, noting that the United States has behaved too unpredictably for any state to be sure what it will do. Part of the reason for the disagreement on this point is that proponents of both AD and FR project their views onto the governments of the United States and the Soviet Union. The latter believe, and the former deny, that a large Russian arms build-up would intimidate the United States.
The other element in the belief about whether the risks would seem controllable is a judgment about the inherent limits of manipulation and prediction in human affairs. While these factors are rarely discussed explicitly, the tone of much of the FR writings implies that men can make fine, complex, and accurate calculations. Friction, uncertainty, failures of implementation, and the fog of battle do not play a major role. Men see clearly, their subordinates are able to carry out intricate instructions, and the other side gets the desired message. Thus, Secretary Brown recently argued that "if we try bluffing [the Russians with a threat of massive retaliation], ways can be found by others to test our bluffs without undue risk to them."10 Such attempts would involve reasonable risks only if the situation were under complete control and seen by the Soviets as relatively safe, and then only if they believed this to be the case. (But many proponents of FR also believe that the United States cannot rely on tactical nuclear weapons to defend Europe because their use could too easily lead to all-out war. This fits oddly with the belief that the superpowers could fight a limited strategic war.)
For the advocates of AD, this is a dream world. War plans can be drawn up on this basis, but reality will not conform. Furthermore, decision makers, having experienced the multiple ways in which predictions prove incorrect and situations get out of control, do not commit the fallacy of believing that escalation could be carefully manipulated and thus would not place any faith in the precise options of limited nuclear warfare. FR advocates see the need for a policy they consider to be prudential in the sense of being able to cope with unlikely but dangerous contingencies because they do not think decision makers can be counted on to avoid terrible risks; proponents of AD do not think American policy has to cover such remote possibilities because they are confident that statesmen are at least minimally prudent.
This difference in beliefs or perhaps I should say in intuitions-goes far to explain why some of the proponents of FR see a much greater danger of a Russian first strike than do advocates of AD. One would not expect any difference of opinion here since the question seems entirely technical. But it is not. To launch a first strike in the belief that one could destroy most of an opponent's strategic forces is to accept a set of complex and uncertain calculations: the weapons have never been tested under fully operational conditions; accuracies are estimated from performances over test ranges, which may be different when the missiles are fired over different parts of the earth; the vulnerability of the other side's silos (and one's own) can never be known with certainty before the war; and the effects on the environment of huge nuclear explosions can only be guessed at. The same orientation that leads one to believe that statesmen could be sufficiently confident of their ability to prevent escalation to allow them to engage in major provocations also fits with the conclusion that statesmen might place sufficient confidence in their estimates to launch a disarming strike.
If differences in beliefs about the risks inherent in major provocations are one source of the dispute between AD and FR, another is a difference in perceptions of the risks that the Russians are willing to run. Most proponents of AD argue that while the desire to expand is not completely absent, the Russians are not so strongly motivated in this regard as to be willing to endanger what they have already gained. Proponents of FR argue not that the Russians want war, but that they care enough about increasing their influence to run significant risks to reach that goal. And by acquiring massive military might, the Russians could hope to be better able to expand without courting dangerous confrontations. The proponents of AD would reply that almost no decision maker in the world's history would embark on a course of expansion while his cities were held hostage. The sort of leaders the proponents of FR posit are very rare-even Hitler probably was not an example, since he knew that if he could militarily defeat the Allies he could protect his own country.
Because the advocates of AD believe the Russians to be less strongly motivated than do those who call for FR, they believe that much less deterrence, both in terms of the damage that the United States needs to inflict and the probability that it will be inflicted, will be sufficient. Thus there is a disagreement over "how much credibility is enough": two policy analysts therefore might agree on how likely the Russians thought it was that a limited war would escalate and disagree over whether they would be deterred.11
SITUATIONS CALLING FOR FLEXIBLE RESPONSE
The basic concern of the proponents of FR is that the threat to attack Soviet population centers is not credible when the Russians can respond in kind. In a crisis the United States must "have a wider choice than humiliation or all-out nuclear action," to use President Kennedy's terms.12 The danger that the proponents of FR see was expressed well by Secretary of Defense Schlesinger in 1975: "If one side should remove the other's capability for flexible and controlled responses, he might find ways of exercising coercion and extracting concessions without triggering the final holocaust. ... No opponent should think that he could fire at some of our Minuteman or SAC [Strategic Air Command] bases without being subjected to, at the very least, a response in kind. No opponent should believe that he could attack other U.S. targets of military or economic value without finding similar or other appropriate targets in his own homeland under attack. . .. Above all, no opponent should entertain the thought that we will permit him to remove our capability for flexible strategic responses."13
We can examine the problem more clearly by seeing that Schlesinger and other proponents of FR blur the distinction between two kinds of wars. The first involves demonstration attacks. Since they do not require large numbers of missiles, neither the size of each side's force nor its vulnerability is important. The second is a counterforce war of attrition in which the Russians would launch the first nuclear strike, trying to destroy as much of the American strategic force as possible, either in one blow or by moving more slowly and taking out the opposing forces in a series of strikes. Although the United States would still be able to attack the Soviet Union's cities, the only result of such a strike would be to have U.S. cities blown up thirty minutes later. If the U.S. strategic force is vulnerable, the Russians can destroy much of it without using a similar proportion of their force; if the U.S. force cannot hit protected targets, it will not be able to reduce the Russian force. But, and this is crucial, it is only in counterforce wars of attrition that the comparison of each side's counterforce capabilities matters.
Examining a number of contexts in which defense problems arise, one can see that the distinction between attacks that have an effect by demonstrating resolve and those that aim at reducing an opponent's capability recurs and is closely tied to the basic difference between the AD and FR positions. If the AD position is correct and counterforce wars of attrition are not a real possibility in the nuclear era, then the United States does not have to worry that its Minuteman force is vulnerable or that the Russians have a greater ability to destroy hard targets than the United States does. To evaluate the arguments, it is useful to examine the potentially critical situations.
Protecting Europe
One major fear is that the Soviets could launch a large-scale conventional attack that would conquer Europe unless the United States escalated. If the United States tried to stave off defeat by employing tactical nuclear weapons, the Soviets could reply in kind, nullifying any advantage the West may have gained. One FR remedy would be to develop the means to defend against an attack at any level of violence. Thus the West would deploy conventional forces to contain a conventional attack and tactical nuclear weapons to cope with a like attack. This alluring argument is not correct. An aggressor could attack in the face of escalation dominance if he believed that the defender would not pay the price of resisting, a price that includes a probability that the fighting will spread to each side's population centers. The other side of this coin is that a state that could be confident of winning a military victory in Europe could be deterred from attacking or deterred from defending against an attack by the fear that the war might spread to its homeland. Only if the risk of such escalation could be reduced to zero would this element disappear and purely military considerations be determinative. The advocates of FR thus overstate the efficacy of their policy.
Of course if the United States lacks escalation dominance it would have to take the initiative of increasing the level of violence and risk in the event of a Soviet attack on Europe. But the onus of undertaking the original move would still remain with the aggressor. And since the level of risk is shared equally by both sides, what is likely to be more important than the inhibition against having to take the initiative is the willingness or unwillingness to approach the brink rather than concede defeat, a factor not linked to escalation dominance. Furthermore, some practical considerations reinforce this conclusion. As Bernard Brodie argued, it is hard to imagine that the Soviets would launch a conventional attack in the face of NATO's tactical nuclear weapons. Such an attack would require massed troops that would be an inviting target for NATO's tactical nuclear weapons. The Soviets could not be sufficiently confident that their strategic or tactical nuclear forces would deter such a NATO response to leave their armies so vulnerable.1 And for the Russians to initiate a tactical nuclear war would raise two difficulties. First, the uncertainties about how such a war would be fought are so great that it would be hard for any country to be confident that it would win. Second, a war of this level of violence would be especially likely to trigger the American strategic force.
An alternative FR policy is for the United States to develop large enough strategic forces to threaten, and carry out if need be, a counterforce strike with some of its forces, even though doing so would not leave the Soviet Union totally disarmed. While the Soviet Union could retaliate against American population centers, it would not do so because its own cities were still in hostage. Thus the United States could launch its strike "secure in the knowledge that the United States had a residual ICBM force that could deter attack upon itself."15 This notion of security is an odd one, resting as it does on the confident prediction that the Russians would calmly absorb a counterforce first strike. This is especially odd because while the proponents of FR tell us that we should pay close attention to Soviet military doctrine, on this point they blithely disregard these texts which stress preemption and deny that limited nuclear wars are possible.
A similar error is embodied in Secretary of Defense Schlesinger's defense of limited nuclear options on the grounds that because the United States has commitments to allies, "we require a nuclear capability that has an implementable threat and which is perceived to have an implementable threat. Unless, in the event of certain hostile acts, we have a threat that we can implement, the existence of the American force structure does not contribute logically to deterrence." If, on the other hand, the United States has the ability to launch limited nuclear strikes, he continues, it "will not be self-deterred from responding to . .. an act of aggression."1 But the concept of "self-deterrence" is not useful and the argument cannot be sustained. The United States is being deterred by the fear of Soviet retaliation. This danger is present as long as the Soviets have second strike capability; thus, it is a consequence not of Soviet "superiority" but of parity. Even if the United States reached Schlesinger's goal of preserving "an essential strategic equilibrium with the USSR both in capabilities and in targeting options,"17 the costs and risks of employing the options would remain.
The argument that the side that had better counterforce capability could safely launch such an attack even though the other side would not be disarmed pertains only in wars of attrition in which each side tries to reduce the other's strategic capability and spares the other's cities. The claim that the United States can employ this option to protect Europe is the opposite side of the coin of the claim that if the Soviet Union had a large margin of counterforce superiority, it could use it to coerce the West. The validity of this claim turns on whether a war of attrition is a serious possibility or whether the danger that such a conflict would escalate to attacks on population centers would dominate decision makers' calculations.
Preemption
Some proponents of FR think it most unlikely that the Russians would launch an attack on Europe, but fear that if the Soviet strategic force was much more effective than the American one and if a significant proportion of the American strategic force were vulnerable, the Russians might make a preemptive strike in a grave crisis, perhaps one they had not sought, if they thought that war was very likely. The ability to hit missile silos and command and control facilities that the proponents of FR call for, however, increases this danger, since it enables the United States to destroy a large proportion of USSR's land-based missiles (and most of the Soviet strategic force is land based) if the United States were to strike first. It is a bit disingenuous to argue that the United States needs a new type of missile to decrease the chance that the Soviet Union would attack without also acknowledging that some of the incentive the Russians would have to attack those missiles comes from the very accuracy that is supposedly needed in order to fight a counterforce war.18
More importantly, preemption makes sense only if being struck first is much worse than getting the first blow in. A state whose leaders believe that war will lead to total devastation will have no incentive to preempt even if many of their missiles are vulnerable. Here, as at other points, the proponents of FR make the crucial mistake of concentrating on purely military factors-the numbers and characteristics of weapons on both sides-and ignoring the role of military moves as generators of risk. The FR argument is that deterrence requires a sufficient number and kind of forces so that if the other side struck first, it would be militarily worse off than if it had not. Thus it would be dangerous if the Rus- sians were able to use, for example, 200 missiles with 2,000 warheads and knock out most of the American ICBMs. As Secretary of Defense Brown has put it: "wemust ensure that no adversary could see himself better off after a limited exchange than before it. We cannot permit an enemy to believe that he could create any kind of military or psychological asymmetry that he could then exploit to his advantage."19 But the fact that the Russians would have gained a more favorable ratio of missiles does not mean that they would be closer to any meaningful goal or even that they would be closer to it than they would have been if the United States struck first and the ratio of missiles available was less favorable to them. The only meaningful goals would be to preserve their cities and, if possible, prevail in the dispute. But gains in purely military terms do not accomplish these objectives in wartime any more than they do in peacetime. As long as each side retains the ability to destroy the other's society, havingmore warheads than an opponent is an advantage only if it makes the opponent back down, and the proponents of FR have not shown how it will make such a contribution. The military advantages of striking first can only be translated into political gains if the war remains counterforce and the state with the most missiles left after a series of exchanges prevails without losing its population centers.20 The FR fallacy here is parallel to that involved in the claim that escalation dominance is necessary or sufficient for deterring or prevailing in a conflict in Europe. Competition in risk taking, rather than competition in military capability, dominates.
Counterforce Wars of Attrition and the Balance of Resolve
In a counterforce war of attrition the numbers and characteristics of the weapons would matter a great deal. As in the prenuclear era, what would be crucial would not be absolute capability, but the relative strengths of the opponents. The basic argument of the AD school is undercut because the primary targets of the warheads are not population centers but other weapons. Is the likelihood of counterforce wars of attrition sufficient to warrant the necessary preparations? Could there be a nuclear war in which population centers were spared and the outcome determined by which state is able to do the better job of reducing the other's military forces? Even if the Russians had the ability to win such a war, they would have to be desperate or willing to run terribly high risks to place sufficient faith in American self-restraint to order an attack. Even if the United States could win such a war, its threat to initiate it would not be credible (for example, in response to a Soviet attack on Europe) unless the Russians believed that the United States thought that control would be maintained throughout its course.
This control would have to be maintained, furthermore, although un- precedented numbers of civilians would be killed; a large Russian counterforce strike could not be limited to destroying only military targets. Although it would be obvious to the president that most American population centers were still held hostage, sufficient damage would have been done to raise sharply the danger of an all-out response. The chance of such a reaction-which would be present even if the United States said it would not react in this way-would have to weigh very heavily on the Soviet decision makers.
But the existence of tight control would not ensure the success of a strategy of attrition. If the Russians launched a counterforce strike and the United States did not retaliate against Soviet cities, it might nullify a Russian war-fighting strategy by not responding at all. This may seem as bizarre as a counterattack on population centers, but on closer examination it makes some sense. Why should the United States retaliate? What would the Russians have gained by destroying a significant portion of the U.S. strategic force? Why would they be in a better position to work their will after a strike than before it? If the United States acts as though it is weakened, it will be in a worse bargaining position, but this is within American control. To withhold a response, while maintaining the ability to destroy Russian cities later, could as easily be taken as a sign of high resolve as of low. The United States would forego hitting many Russian military targets, but this would not sacrifice much of value since attacking them would not limit the Soviet ability to destroy the United States. Only if a war in Europe were being fought at the same time, and thus a failure to respond created or magnified an imbalance of land forces, would withholding a return counterforce strike give up something of value. But for the Soviets to attack American strategic forces (and NATO tactical nuclear forces) in conjunction with fighting a war in Europe would be to run a very high risk of an American counterattack on Soviet population centers.
The possibility of not responding to a Soviet counterforce strike points to the odd nature of a nuclear war of attrition. The benefit of the efforts to reduce an opponent's strategic forces comes only near the end, when the state is able to take its society out of hostage. Unless and until that point is reached, the side that is "losing" the counterforce war of attrition can do nearly as much damage to the side that is "winning" as it could before the war started. Military efforts can succeed only if the "loser" allows them to by sparing the "winner's" cities. Of course it will be costly for the "loser" to initiate counterstrikes against population centers, since the "winner" will presumably retaliate. But this is true regardless of the details of the strategic balance.
If the ultimate threat, even during a war of attrition, is that of destroying cities, it is clear that such wars are more competition in risk taking than they are attempts to gain an advantage on the battlefield. To concentrate on the military advantages that accrue to one side or the other by counterforce attacks is to ignore the fact that in any nuclear war the element of threat of escalation will loom very large.21 This general point is missed by Secretary of Defense Brown when he says that the ability to hit a wide range of military targets "permits us to respond credibly to threats or actions by a nuclear opponent."22 But what is crucial is less the capability than the willingness to use it. Even if the United States had the ability to match the Soviets round for round, target for target, it might not do so-and the Russians might move in the belief that the United States would not respond-because the costs and risks were felt to be too great. And even if the United States lacked such a capability, the Soviet fear of an allout response could lead it to expect that any provocation would be prohibitively costly. Since what matters in limited strategic wars, even if they involve targets that are predominantly military, is each side's willingness to run high risks, it is the "balance of resolve" rather than the "balance of military power" that will most strongly influence their outcomes.23 Extra ammunition cannot compensate for weakness in will or a refusal-perhaps a sensible refusal-to run the risk of destruction.
The importance of competition in risk taking implies that demonstration attacks would be more useful than attempts to reduce an opponent's military capabilities. Such attacks could be aimed at a military installation, an isolated element of an opponent's strategic forces, a command and control facility, or a city. The purpose of such an action would be to inflict pain, show resolve, and raise the risks of all-out war to a level that an opponent would find intolerable. Such risks, of course, weigh on both sides, but only by willingly accepting high risks can a state prevail. In addition to high resolve, in order to engage in nuclear demonstrations a state needs to be able to carry out a certain number of limited options. But the ammunition requirements are nowhere near as high as they are for a counterforce war of attrition (and both sides can simultaneously have the capability for demonstrations).
Demonstration strikes would exert pressure in three ways. First, they would exact some degree of punishment on the other side. But the immediate pain inflicted would probably be less important than the underlying motivation of these strikes-the implied threat to do more harm unless the opponent complies with the attacking state's demands. This threat gains its credibility because the attacking state has shown that it is willing to engage in very risky actions that have increased the chance that targets in its own country would be struck. When both sides have second-strike capability, one side prevails in a crisis, not by showing that it can inflict pain on the other (for this is obvious and true for the both sides), but by demonstrating that it feels so strongly about the issue at stake that it is willing to be hurt in return rather than suffer a defeat. Third, any nuclear attack increases the chance that uncontrolled escalation will occur. It is this specter that exerts so much pressure on statesmen not to use nuclear weapons in the first place or to make concessions in any conflict in whichthey are used. Even if one side launched a counterforce strike, the war would almost surely end before either had run out of ammunition. Resolve, not capability, would be the limiting factor. When Secretary Brown claims that "fully effective deterrence requires forces of sufficient size and flexibility to attack selectively a range of military and other targets"24 and argues that to do this the United States needs an invulnerable ICBM, he is either thinking in terms of a war of attrition or overstating the number of warheads the United States needs.
POSSIBLE OBJECTIONS
Before drawing the conclusions that are implicit in the previous analysis, I should note three obvious objections. First, it can be argued that if I am right, and the strategic balance is quite stable, an increase in American arms will not have dire consequences.25 Since all the United States can lose by additional deployment is money, argue the critics, it is better to play it safe and buy the extra systems. Moreover, how can anyone be sure that a war of attrition will not occur? But surely there must be some judgments about plausibility, some concern for costs, and some consideration of the chance that the United States might teach others lessons that are both incorrect and dangerous. The new weapons cost a lot of money and avoiding waste is not a goal to be scorned lightly.? Furthermore, although there are no strong and direct links between the adversaries' defense budgets or between the budgets and the degree of superpower conflict, it is hard to keep the military and political tracks entirely separate. A final line of rebuttal is the most important: to develop a posture based on the assumption that limited nuclear wars are possible is to increase the chance that they will occur. If the Russians already believe in the possibility that such wars could be kept limited, U.S. acceptance of this position would increase the likelihood of their occurrence. On the other hand, if the Russians now find these kinds of war incomprehensible, they might learn to accept them if the United States talked about them long and persuasively enough. This could decrease the chance that a nuclear war would immediately involve the mass destruction of population centers, but at the cost of increasing the chance of more limited nuclear wars-which then could escalate. Such a trade-off is highly likely, and even Schlesinger acknowledged that adoption of his doctrine might increase the chance of limited nuclear strikes.27
The second objection is that my analysis ignores the fact that the Russians do not accept the notion that mutual assured destruction creates stability. Soviet military doctrine is an arcane field that cannot be treated in detail here, although the bulk of the evidence indicates that the Soviet view of strategy is very different from the American.28 They appear to take war more seriously. Indeed, much of Soviet military doctrine is pure military doctrine-that is, the ideas are not particularly Russian or particularly Marxist but simply those one would expect from people charged with protecting society and winning wars. Many statements by Soviet generals are similar to statements by American generals when the latter are not influenced by the ideas or constrained by the power of the civilian leadership; many American military officials seek the same program that the Russians are following. Thus one cannot draw from the fact that Russians probably buy more than is needed for deterrence the inference that they are willing to run high risks to try to expand. The American generals who call for higher spending are not necessarily more bellicose than those who disagree with them.2 Both the Russian and the U.S. generals may want to prepare for the worst and get ready to fight if a war is forced on them. The Russians may be buying what they think is insurance, and we do not ordinarily think that someone who buys a lot of insurance for his car is planning to drive recklessly.
While there is considerable evidence that the Russians want military forces that would provide as good an outcome as possible should war be forced on them, there is very little evidence that they think that such forces could be used to coerce the West. It has yet to be shown that they think that a superior ability to destroy military targets provides a shield behind which they can make political advances or that Soviet military doctrine measures American deterrence in terms of the United States' ability to match their posture. The Russians may not accept the idea that mutual vulnerability is a desirable state of affairs, but they seem to understand very well the potency of the American threat to destroy their society. Indeed their outlook is uncongenial to a counterforce war of attrition. While the Russians probably would attack U.S. strategic forces in the event of war, they have not talked about sparing the opponent's cities. Instead, they seem to be planning to hit as many targets as they can if war breaks out.
Even if the Russians were to say that they believed a war of attrition was possible, the United States would not have to adopt such a view. While it takes the agreement of both sides to fight a counterforce war, this is not true for AD.
If one side denies that counterforce wars could be kept limited and convinces the other side that it believes this, the other cannot safely act on its doctrine. The Russians understood this in the periods when McNamara and Schlesinger were enunciating their doctrines, and American statesmen took their professions of disbelief seriously. Even if the Russians were to reverse their position, they would have to take American denials seriously also.
A third objection is that although the Soviet superior ability to destroy strategic forces and the related existence of Minuteman vulnerability is not a strategic problem, it is a political problem. Accordingly, because other nations are influenced by indicators of nuclear superiority, the United States must engage in this competition. (This argument loses some credibility since most people who make it also claim that superiority is meaningful apart from these perceptions.) There are several lines of rebuttal. First, there is little evidence that European or Third World leaders pay much attention to the details of the strategic balance. Second, the United States provides most of the information and conceptual framework that underpins third-party discussions of the balance. The United States might be able to persuade others that it would behave differently because the Russians could wipe out much of the American capability to destroy Soviet missiles. But it would probably be easier to convince them that this was not true. Few world leaders expect the United States and the Soviet Union to fight a war of attrition. Moreover, if the Russians believe that superiority matters and thus may be somewhat emboldened, the bargaining advantages they will gain will be slight if the United States holds to the position that this is nonsense. If the United States convinces the Soviet Union that it does not see a meaningful difference in strength, the USSR cannot safely stand firm in crisis bargaining because it will not have any reason to think that the United States is more likely to retreat.
CONCLUSIONS
We can draw several conclusions. The question of which side has greater ability to destroy the other's strategic forces matters only in a war of attrition. Such a war seems unlikely enough so that it is not worth spending large sums and running considerable dangers to prepare for it. Because either side can use its nuclear weapons to destroy its opponent's population centers, the danger of escalation would play a very large role in any war and could not be controlled by having more missiles, more accurate missiles, and more invulnerable missiles than the other side. The nuclear revolution cannot be undone. As we have seen, many of the arguments about the supposed dangers following from Soviet superiority in fact are consequences of parity. The American deterrent is deterred by the fact that its cities are vulnerable, not by the fact that the Russians have some supposed military advantage. Since neither the United States nor the Soviet Union can take its cities out of hostage, the state that is willing to run the greatest risks will prevail. Many of those who call for the United States to match or surpass the Soviet's nuclear arsenal are trying to have the United States compensate for what they feel is a weakness of resolve by an excess in weaponry. But such a deficiency, if it exists, cannot be compensated. A wider range of options will merely give the Russians more ways, and safer ways, of coercing the West.
If the balance of resolve is so important, is the United States at a disadvantage compared to the Soviet Union? Some would argue that the United States has shown in Vietnam that it will not fight to defend its interests and those of its allies. But few dominoes fell after April 1975; other states may have been less impressed by the final American withdrawal than they were by its willingness to spend so much blood and treasure on an unimportant country. Furthermore, resolve is not so much an overall characteristic of an actor as it is a factor that varies with the situation because it reflects the strength of the state's motivation to prevail on a given issue. The state defending the status quo has the advantage in most conflicts in which the balance of resolve is crucial because it usually values the issue or territory at stake more than its opponent does.30 It is easier for a state to convince the other side that it will fight to hold what it has than it is to make a credible threat to fight rather than forego expansion. A world in which resolve matters so much may not be so bad for the United States.
Even if both sides recognize the greater determination of the side defending the status quo, accidents and miscalculations are still possible, especially in situations growing out of a crisis in a third area. To rely solely on AD may be too dangerous. Some degree of insurance can be purchased by a continuation of the present American posture, which includes the availability of limited nuclear options. But these should be demonstrations, keyed to competition in risk taking, not attempts to wage a war of attrition; thus, the United States would not have to match the Soviets on any of the standard measures of nuclear power. It does not take a superior or even an equal military force to show by limited use that one is willing to take extreme measures rather than suffer a defeat. Such costs and risks are the trading chips of bargaining in the nuclear era; even if the United States had the weapons and doctrine for an FR policy, it could not avoid relying on them.
Although the United States should be able to conduct limited nuclear demonstrations, it should not stress this part of its policy. At this point there is no reason to think that such fantastic measures will ever be necessary, and they should be looked on as something to be done only in the most dire emergency, not as a tool of statecraft. Too much discussion of the possibility of such strikes might lead either or both sides to believe that the risks of a limited exchange were manageable, that escalation would remain under tight control. At best, the United States would therefore create a world in which limited nuclear wars were more likely to occur. At worst, these beliefs would be tested and proven to be incorrect.
Of course a policy of AD supplemented by the ability to conduct demonstration attacks may not succeed. The specter of all-out war is probably compelling enough to make both sides so cautious as to render forcible changes of the status quo on important issues too dangerous to be attempted. But miscalculations are possible, even in situations that seem very clear in retrospect, and states are sometimes willing to take what others think are exorbitant risks to try to reach highly valued goals. Both a cautionary tale and reminder that superior military capability does not guarantee deterrence is provided by the Japanese decision to go to war in 1941. Japan struck because her leaders saw the alternative not as the foregoing of gains, but as losing "her very existence."31 They were thus very highly motivated-much more so than American decision makers thought. Furthermore, they knew perfectly well that they could not win an all-out war. But they were not expecting to have to fight such a war; they thought that the war would be limited as the United States would prefer to concede dominance in East Asia rather than engage in a long and costly struggle. It is always possible that the Russians might similarly believe that a nuclear war could be kept limited because the United States would rather concede than move closer to the abyss. The penalty for miscalculation would be much greater for Russia than it was for Japan, and so their caution should be much greater. The danger remains, however, and it cannot be met by building more weapons.
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?