伊藤トイ
#小説 をつけたやつです
今日のパスタ、どうかしら? ──うん、美味しいね。 そう、良かったわ。 嬉しそうに彼女は微笑む。 ─────────────────── 地を打つ雨。立ち込める煙。響き渡る怒号。立ち尽くす僕。一体これはなんだろう。 ─────────────────── 最近、突然砂嵐のようなものが視界を覆って変なものが見えることが多い気がする。疲れてるのかな。 ──食べないの? 私はいいわ。見てるだけで十分。 ──そう。 ─────────
鳥が囀る。 風が流れる。 桜が舞う。 私は生きている。 といった「詩」(こういってしまうと詩を貶すことになると思いますが)を作り、HuMuuさんに絵を書いてもらいました。ありがとう。 自分が作ったものが、こうして誰かに伝わっている、という感覚は素敵で、本当に何にも代えがたいものだ、ということが実感出来ました。 今までの創作は、自分で勝手に創って勝手にnoteやなろうにに貼ってただけなんですが、こうして創ったものを誰かに見てもらい、それに絵まで描いて頂き、やはり創ったもの
変わらないことは大変だ。転んだらそのまんま寝っ転がっていたいのは転んだ直後だけで、すぐに息苦しくなって仰向けに回転する。そして空の綺麗さに、立ち上がってもっと近くで見たいと思う。もし息苦しくても構わないとしても、そのままずっと寝ていたら何時かは意思が消え、リン酸カルシウムの集合に、変わり果てた姿になる。結局何時かは立ち上がらなければならないのだから、変わらなければ生きていけない。 それでも僕が変わりたくないのは、変わってしまった僕がどうなるのか怖いからだ。今の思考回路は何時
#小説付けたやつまとめたら1つの話になりそうだなこれ
伸びるのと伸びないのの違いが分からんのう
今日も歩く。 行く先もないまま、なんてかっこつけて言ってみたいけれど決してそんなことはない。 ただ学校へ向かっているだけだ。 帰り道の対義語は行き道って言うらしい。まさに僕は今「いきみち」を歩いている。自己の存在証明のため、生きていることを証明するため、僕は歩いている。 生きるために歩いている。 例えば透明人間、例えば山奥で暮らす仙人。誰にも認識されない人は、生きておらず存在していないのと同じだ。 死んでも誰にも気付かれないのは、生きていないのと同じだ。 まだ死
深夜1時、家を出る。 いつも通る街も、夜には夜の衣装を身にまとう。街路照明で優しく光る歩道。信号機は赤の部分だけが点滅し、歩行者用信号は完全に消えている。完全に電気の消えた家もあれば、未だ煌々と光を放つ家もある。 僕はコンビニでコーラを買い、飲みながら歩く。 たまに車や歩行者とすれ違うが、皆が目の前だけを見て歩いている。死んだような顔をして。 いつもの公園に到着。ベンチに座り、目の前のブランコを眺める。風でたまに少しだけ揺れるそれは、悲しげにキーキーと音を立てる。
信じることは、思考停止だ。 信じるな。 考え続けろ。 信じるという言葉で現実を見ることから逃げてる人が多いような気がします。何かを信じるということは、それが自分にとって良いものであると思考停止することであり、それをしてしまえば間違っていても「信じていた」という言い訳で責める声から逃れることができます。それはとても楽で、信じることに逃げる人が多いのも頷けます。 しかし、それはただの責任逃避です。信じるという言葉に逃げ、自分の行動の責任を信じた対象になすりつけているだけです。
過去を回想すると、嫌なことばかり思い出す。 あの時こうしていれば、そう思わなかった日はない。 でも過去は変えられない。 思うに、人は2種類いると思う。過去を切り捨て今を、そして未来を生きる人、過去に囚われ今を生きれない人。 どちらもそれぞれ魅力的ですよね。 今を生きれば過去を忘れられるし、過去に囚われれば今を生きなくて済む。 あなたはどちらがいいですか。
バレンタインデーも近いので、なんかその関係のこと書こうと思ったけど、マジで全く縁がなくて語ることが何も無いため、「偽善」についてお話します。 僕の好きな作家の1人に西尾維新さんがいて、僕が一番好きな西尾さんの名言に、「生きる意味なんてある奴の方が少ない」っていうのがあります。だから、生きる意味がないからって気にするなとかそういう風に話は続いていきます。(僕はこの言葉に軽く感動しました。生きる意味なんてなくてもいいんだ、そんなふうに思いました。)彼(多分彼)自身は所謂「売れっ
学校。 クラスメイトが屈託のない笑顔で話している。こんなに息の詰まる場所はない。 道。 みんなが無表情という名の仮面を被り、歩いている。怖い。 塾。 先生の熱意が空回りしている。見ていて悲しくなる。 電車。 スマホの画面が乗客の顔を照らす。僕は顔をハンドバッグに埋めた。 エレベーター。 おばさん達が腹を揺らしながら醜く顔を歪めている。気持ち悪い。 家。 両親が過剰な期待で僕を束縛する。これ以上何を奪われるのだろうか。 屋上。 風が僕の顔を打ち付ける。まるで僕を落とそうとしてい
僕が教室を抜け出して近くのコンビニへコーラを買いに行っているうちに学校では猫の大軍が図書室を占拠したらしい。ツイッターのtlでそんなメッセージが流れてきたが、僕は無視していつもの公園へ向かう。 公園、それは公衆が憩いまたは遊びを楽しむために公開された場所。ウィキペディアの文をコピペしてもそれはなんの意味も成さず、ただただ味気ない「事実」という名のなにかレッテルのようなものを付加するだけだった。とにもかくにも公園に到着。晴天の空の下、ブランコがその錆びたチェーンを輝かせている。
今は情報も財もサービスも過多で過激で、つまり過剰。 いるものはどんどん多くなっていき、要らないものはいるものよりさらに加速度的に増えていく。 結局それらを決めるのは自分のエゴで、作り手の思いとかを踏み潰していく。 エゴがなけりゃ人間じゃないし、エゴがあっても生きずらい。 何が言いたいのかっていうと、みなさん人間やめましょう。