DAY239 静御前に学ぶ女性性の在り方など。
今のテーマは女性性。昨日はリフレクソロジーで癒されて、今日は静御前を御神体として祀る神社に行ってきた。
あろうことか、この神社の娘さんである方とご縁が繋がり、まさかのご本人のアテンドで参拝させていただけることに。超贅沢な大人の遠足である。
静御前。この神社の言い伝えによると、この神社のあった場所に、身重の静御前がやってきたのだという。そして別ルートから源義経が北上してきて、この場所で再会し逢瀬を重ねたのだという。それが約800年前の話。
身重でありながら、最愛の義経のために岩手までやってきて再会を果たす。そのパワフルさって女性性の為せるものだと思う。
ていうか、女性性にもいろいろカタチがあって、弱々しくて儚げなものもあれば、ひとつの信念を貫く力強さみたいなものもあるのだろう。
つい、前者的な女性性を目指してしまいがちだけど、多分わたしは〈そっちじゃない〉のだと思うのだ。
大切なナニカを守り抜くチカラ、信念を貫き通すこと、誰かや宇宙を信じ切ること、その強大なエネルギーは、紛れもなく女性性だ。
ていうかもしかしたら、わたしが見ている弱々しい女性のイメージすら、ナニカを守り抜くための戦略かもしれないのだ。
実際のところ、オンナは弱いし強い。チカラでは負けるが守り抜く信念は強い。強いっていうか、したたか。そう、したたかさこそが女性性なのだ。
したたかさを履き違えると、比較競争にぶれてしまう。意識は外に向けるのではなく、常に内側だ。
西洋占星術でいう月は自分の内側の象徴で、蟹座の支配星だ。蟹は甲羅の中を守る。そのために己のハサミを使う。誰かに勝つための戦いではなく、守るための攻撃だ。
ということは、女性性の基本形は、守るべきナニカが内側にある。じゃあわたしの内側には、守るべきナニカはあるのだろうか?
か弱く見えるのも力強く見えるのも、ただの現象(外側)でしかない。そこだけ真似ても意味がない。
例えば、流されないブレない軸。誰が何と言おうとも揺るがない思い。もっとシンプルに言えば、自分が自分であるという確固たるもの。それこそが守るべきナニカなのでは説。
誰かと比較競争して勝ち取るのではなく、自分を自分たらしめるために守り抜くしたたかさことが女性性なんじゃないかな、と。
そうしてまた、確固たる自分を探す旅に出てしまいそうになるのだが。結局のところゴキゲンな自分こそがソレよな!ということなのだろう。