DAY342 近所の温泉に行ったらいろんな気づきが起こった話。
今日は午前中に温泉に行きたくて、近所の温泉施設に出掛けてきた。
何気に出したポイントカード、あとひとつのハンコで無料券になる、と思ったら、なんと期限が一昨日までだった。くー!
と、なんだか最近、自分がズレている感覚。
めまいが頻繁に起こるときもまた、頭の中と外側がズレているような感覚だ。これもまた何かのサインなのだろうと観察していたのだが、何となく2パターン浮かんだ。
ひとつめは、中心からズレ始めているよ、というサイン。ふたつめは、中心に戻りつつあるよ、というサインだ。前者はよくある意味だけれど、今日感じたのは後者のほうだった。
箸にも棒にもかからないようなズレのときというのは、ズレているのが当たり前過ぎて、逆に気づかないことが多い。でも、それが少しずつ近づいてくると、所謂分離の状態から重なり合う部分が生まれてくる。重なり合うと、ズレが見える。しかも、ほんの微細なズレほど、大きく気になる。
ポイントカードの件だって、先月末までの期限だったとしたら別に、あーそうでしたか!で終わる話だし、ましてや残り1マスというタイミングじゃなければ、気にすることもなかった。
残り1マス、2日前の期限という〈ほんの微細なズレ〉が、良くも悪くも今のわたしっぽいな、と思えたのだった。
温泉で湯船のへりに腰掛けて、揺れる湯船を眺めていた。ふと底の模様に目をやると、まるで湯船の底が波打っているかのような光景が見えた。
ああ、感情に飲み込まれるって、こういうことを言うんだな、と咄嗟に思った。水は感情を表す。その水が風などで揺らされると、水の下にある地面、すなわち現実が、さも揺れているかのように見えるのだ。
揺れ動いているのは、水だ。地面は動いていない。感情は揺らぐけど、現実そのものは感情とは別物。でも感情の波というフィルターを通して地面を見ると、さも地面が揺らいでいるように見えてしまうのだ。
如何に感情というものが、現実を正しく認識するために機能せず、自分が見たいように見ているか、ということを、お風呂を眺めていた数分のうちに理解した。
いや正しくは、元々知ってはいたけれど、やっとハラ落ちしたのだ。
そのことを、思い立ってライブ配信してみたのだが、当たり前のことをただ当たり前に言ってるだけの人になった。くそう!
でも誰かを納得させたいのではなく、自分が納得したからそれで良いのだ。
そんなわけで、ズレている自分から中心に戻りつつあることを意図して、わたしはわたしにシンクロして生きることにしよう。