DAY359 「築き上げる」ことについてのT氏からの考察。

先日お会いしたときのことを、坂爪さんが書いてくださっていた。その中に、「築き上げる」という文脈について書いてあるのだけれど、これについて今日は書きたいと思う。
反論とかではなく、このときの話の補足というか、さらに深い考察みたいなことを。

“T様は言った。自分を出したら嫌われてしまうという思いがあって、自分を小出しにしてしまう。喧嘩別れをした後に、ああ、もったいないことをしたなと思った。もっと自分を出しておけばよかったと思った。二人で一緒に築き上げてきたものが、壊れてしまうのが怖かったのだ、と。私は、築き上げると言う表現に「?」と思った。愛や、友情は、築き上げるものなのだろうか。築き上げるという言葉に、期待にも似た、強迫を感じた。築き上げてきたものを担保に、こんなに愛しているのにとか、こんなに手間暇をかけてきたのにとか言うのは、おかしい。愛とか、友情は、築き上げるものではないと思う。どちらかと言えば、愛や、友情は、焼け野が原になっても残るものだ。”

坂爪さんのnoteより

信頼関係は「築き上げる」ものである、という考え方がある。恋愛、パートナーシップ、友情、仕事、何でも。
そして、その信頼関係が〈崩れる〉ことが起こる。それは何故か?という話。

そもそも、築き上げるから崩れる。そして築き上げているものは、信頼ではなく〈相手への期待〉である。わたしに対してこうであって欲しいという思い、相手に嫌われたくない思い。イコール期待。それを互いにジェンガの如く積み上げているだけのことなのだ。

ジェンガをやったことがある人は分かると思うけれど、一本の棒を引き抜いて上に積み上げていく。自己犠牲、からの期待の積み上げである。そうして足元をグラつかせながら、ただ「築き上げる」ことにばかり執着している。そうやって、いずれ崩れる。

ほんとうの信頼関係は、築き上げることじゃなく、〈開く〉ことで成り立つのだと思う。
わたしは人一倍疑り深い性分で、騙されないように、嫌われないように、心をうっかり開いて傷つかないように、用心しながら生きてきた。
だからこそ、これを見せても嫌いにならない?と小出しにして、相手を試すように生きてきた。特にも、ほんとうに好きな人に対しては。

でも、坂爪さんにお会いして思った。ありのまま、思うままに自分を見せても大丈夫だし、初対面の相手をいきなり信頼することだって可能なのだと。

お会いしている途中、坂爪さんは煙草を吸いに喫煙所に向かった。わたしはベンチで、坂爪さんの一切合切の荷物と一緒に座って待っていた。こんな行為、わたしには到底無理だと思った。見ていない場所で、勝手に鞄を開けられるかもしれないし、なんなら盗んでトンズラされるかもしれない。

そして思った。坂爪さんは、期待しない人なのだ。もしわたしが仮に、坂爪さんの荷物と一緒にトンズラしたとしても、そもそもわたしに〈荷物と一緒にいてくれる筈〉という期待を持っていなかったであろうし、荷物そのものにさえ、執着しなかったに違いない。
彼が一番信頼しているのは自分の命で、だからこそ、それ以外のことには期待も執着もせず開いていられるのだろう。

自分自身を信頼して、期待も執着もせず、開いて生きることは、初対面の人を信頼することと結果的にはイコールになる。

坂爪さんの言う〈焼け野が原〉は、散々期待してガッカリして、執着するだけしてサレンダーしたあとに残る、「あぁそれでもあの人が生きていてくれるなら、わたしはしあわせ」という、種火みたいな愛だと思う。

開くってどうすればいいのでしょう?という問いに、開いた姿で教えてくれていたこと。めっちゃロックだな、と思った。
半ば衝動的に、会いたい気持ちだけでお会いした人だけど、この出会いはマジで必然で、noteを読むだけでは伝わらないほどの愛を受け取った。

生きているうちに坂爪さんにお会いできて良かった。次は熱海に行くか、海外に行くときにでも、また会えたら最高!

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