家庭料理を商う
何料理のお店なの?
何料理か?お客さまによく聞かれます。たしかに分かりにくい店なんです。並べてあるおかずを自由に選んで、テイクアウトもイートインもできるのですが、周りにはそういうお店も少ないですし、イメージがわきにくいのも分かります。そもそも飲食じゃないと思われている方もいらっしゃるくらいで。おかずだけじゃなくて、食に関する物販商品も多く並べているからかもしれませんね。
いずれにせよ、よく聞かれるんです。そしていつも、パッと答えられず、一瞬、答えに窮するのです。そして、こう答えます。
「えーと、いろいろあるのですが、いわゆる家庭料理です」
私たちが作っているのは、和風もあれば洋風もあり、中華やエスニックもあります。ご家庭の毎日の食卓がそうであるように、私たちのお店も特に専門分野はありません。
だから「家庭料理」と答えるのですが、そもそも家庭料理とはお店の料理の対概念であるはず。なのに、お店で出しているのが家庭料理というのは論理矛盾してしまっているようで、正確に言えばお客さまにそう感じられているのではないかと思い、だから一瞬、答えるのに戸惑いを覚えてしまうのです。
この時私の心にあるモヤモヤを、もうすこし詳しく書いてみたいと思います。
上でも下でもなくて…
べつに卑下しているわけではないのです。私は家のごはんが何より大好きです。文字にすると馬鹿みたいですが、嘘偽りない本心です。
料理にはそもそも上も下もないはず。違いがあるとすれば、お金を取るかどうかなのでしょうが、昔と今では、すこし状況が違っているように思えます。
核家族化や共働き夫婦の増加に伴い、家庭での食卓事情も変わってくるのは当たり前です。平たく言えば、その昔のご家庭では手の込んだおかずが数種類も並んだのが、現在は人手と時間がなくてそこまで手が回らない、という変化は当然あるでしょう。
手が回らない部分を商品として買うことで、生活を円滑に進められることだってあります。時代の変化に応じて、飲食店のカテゴリーを捉え直してみるならば、専門店は「非日常」の体験を提供し、家庭料理のお店は「日常」に寄り添ったサポートをしていると分類するのが自然かもしれません。
しかし、ちょっと待てよ、と私が思うのは、そうした当然の変化を受け入れることに対して、罪悪感のようなものが蔓延っているように見えるからです。
例えば「休日は材料からこだわって料理したからウィークデーは買ってきたもので済ませよう」とか「サラダは作れそうだからメインのおかずは買って帰ろう」とか…。そんな選択肢がすこしずつは受け入れられつつあるものの、まだ心につっかえるものを感じている人が少なくない気がします。
なぜでしょうか。ステレオタイプな価値観が根強いこともあるでしょう。もちろん理由は様々でしょうが、私は、SNSの影響も少なくないのでは、と思います。
SNSを受け入れつつ
人から良く見られたい、という欲求はなにも今に始まったものでもないでしょう。例えばファッション。友人たちからワイルドなイメージを持ってもらいたいから、ヴィンテージの古着を取り入れる、そんな行動は充分に理解できます。
SNSの登場によって変わってきたと感じるのは、人から承認を得たいものが、単なるイメージを超えて、より複雑化していることです。
ファッションの例で言えば、身につけているアイテムについて、原材料や設計デザイン、製造過程、環境配慮性といったストーリーを伴うスタイル、もしくは思想などもパッケージにして、自分のアイデンティティとして認めてほしいという欲求が強まっている気がします。
しかも、その承認を得るためには、自分で投稿しなくても良いのです。
SNSの仕組みとして、自分の求めるスタイルを発信している、見ず知らずの他人の投稿に共感を示すだけで、自分の見え方をつくっていくことができます。ひと昔前にモノを買ったみたいに、深い思想だって簡単に身にまとうことができるのです。
そして私が重要だと思うのは、こうした思想への共感によって自分のアイデンティティを確立するというアクションが、あまりに当たり前の社会常識として浸透したことで、SNSから距離をとって生活している人たちの心性をも変化させてしまっているように見えることです。
つまり自分の生活をSNSにアップしていない、また誰かの投稿にも反応すらしていない、といった場合であっても、「今のこの状況は他人から見たらどう評価されるだろう」と知らず知らずに想像してしまっていることってないでしょうか。私はあります。実際には投稿もしない(このnoteより前は)し、評価もされようがないはずなのに、自分で自分を査定して、その評価に対して勝手に苦しくなったりもします。常識が変わっていて、その常識のなかで生きているのだから、まったく影響を受けないというのは、やはり考えにくいです。
私はなにも、だから世の中からSNSを無くした方が良い、と言いたいわけではありません。むしろ、これまでになかった情報技術の発達によって、コミュニケーションの新しい形が見えることにワクワクすらします。ただ、新しい環境に自分の身を置くときに、今までと同じマインドセットでいることには注意する必要があるとは思います。
当たり前のなかにある新しい発見を
さて、話をおかずに戻します。日々のおかずをお店で買うことに対するちょっとした心のひっかかりは、もしかしたら無意識のうちに他人からの評価を軸にしてはいないでしょうか。今の自分の生活をバランスよく進めていくために、どんな選択肢を取るべきか。周りの環境にとらわれることなく、"純粋"にそのことだけを見つめることは、口で言うほど簡単ではありません。
でも、私は感じているのです。食べるという行為は他人を経由することなく、自分の体にダイレクトに作用します。それだけに、この"純粋"さに繋がるヒントを孕んでいるのでは。
そして、はじめに書きましたお客様からのご質問です。私は専門店で出す料理と家庭料理の差は代金を支払うかどうかではなく、「非日常」の体験と「日常」に寄り添ったサポートに分類したらどうかと提案しました。これらの分野をそれぞれに深めていくなら、非日常の体験は「未知との出会いによる驚き」を求め、日常のサポートは「当たり前の中に埋もれている不可欠さの再発見」を追求することにもなりそうです。そして、ここに食べるという"純粋"な行為そのものを代入すれば、前者が追求するのは「初めての驚くべき食体験」であり、後者は「毎日の食事をきっかけにした新たな視点」とも言えそうです。
私たちは、たべものやというお店を通じて、後者の考えを深めていきたいと思っています。一日に何度も訪れる「食べる」を通じて。家庭料理が持つ可能性を信じながら。