プロフェッショナルの正体
等身大で気さくなプロフェッショナル。
それは、私が一番憧れる在り方だ。
そんな中でいつも「本物のプロフェッショナルとは何か?」という疑問に辿り着く。
これは、言語化することが少し難しい。
対峙したときのその人が持つ雰囲気やオーラでそれを感じることもあれば、発する言葉や完成された作品で感じることもある。沢山の世界に存在するプロフェッショナルがいる限り、〝これがあれば貴方はプロフェッショナルです〟といった定義や条件を作ることはまず不可能だということを前提に、私が感じてきたその人たちに共通している3つのことを書き残したいと思う。
まず一つ目は、視点がブレないこと。
手掛ける内容が多方面に渡ったとしても、その人の根底に持っている価値観や大切にしている本質のような所謂コアの部分は変わっていない。積み上げるときはひとつずつ目の前のことからだけど、視るべきは顔を上げて真っ直ぐ前を見た先のその先の景色だ。
孫正義さんの言葉の中に「近くを見るから船酔いするんです。100キロ先を見てれば景色は絶対にぶれない。ビジョンがあれば、少々の嵐にもへこたれません。」というものがあるが、まさにこれだ。
そして二つ目は、妥協をしないこと。
手を抜いてもバレないことは往々にしてある。これが精一杯でした、なんて頑張った顔をすれば許されることも、それで認められることもある。妥協をしたのかどうか、最終的なジャッジは自分自身しかできない。
私は7歳からサッカーをしていたが、小学校の時のコーチがミーティングで「練習で100%やっても試合で出るのはせいぜい60%程度だ。練習で100%出来ない奴が試合で100%のパフォーマンスが出来るわけがない」と話をしていた。これは29歳の今の私にとっての根源ともなっている。
もしかしたら気づかれないかもしれない、これくらいでいいかな、、そんな風に思うような状況で、自分自身に対して妥協をしないこと。これをストイックだと呼ぶこともあるが、ストイックであることはプロフェッショナルと呼ばれる人にとって当たり前のことであるから、彼らは特別なことだと認識していない。
最後の三つ目は、続けること。
一つのことを続けることは、情報過多の現在の中で簡単なことではない。時に、顔も知らない人の言葉で怖くなってしまうこともあれば、甘い囁きに耳を貸しそうになることもある。ブレることも妥協することも簡単な優しい世界はもはや自分との闘いともいえる環境下だ。そこで視るべきものを変えず、ストイックに続けられる信念は、プロフェッショナルと呼ばれる人たちが必ず持っているように思う。
すぐに結果が目に見えて現れることの方が少ない。挫けることなく、目の前の小石を積み上げれば城を築けると信じ続けられるということが、結果としてプロフェッショナルへの道へ続き、そしてそれが最短なのだ。
3つの共通していることを挙げてみたが、そもそも当人たちはプロフェッショナルだと思っていない。結局は他人からみたその人の価値を言語化したようなものだ。
価値なんてものは一種の判断基準としてお金という存在があるものの、数値化出来るものでもなければ人によって変わるものだ。だから、〝ここまでできれば正解〟というものや〝これを満たしていればいい〟というモノサシが通用しないプロフェッショナルという概念は世界や人によって変わる。
月に500万儲けている人がプロフェッショナルなのか?ほぼ収入にはならないが世界の中でその人にしか持っていない技術があるとすればそれはプロフェッショナルとして認められないのか?
SNSが普及し、フォロワーの数やいいねの数という価値観が新しく生まれた現代では、〝安売り〟だと思うほど沢山のカリスマが簡単に生まれる。これは決して悪いことではなく、各個人の価値を多用的に認められるようになったと捉えるととても素敵なことだと思う。
ただ、その中には形骸化したものも沢山あることは事実だ。だからこそ、私たちは私たち自身の中にある基準で、しっかりと本物を見分けられるようになれなければいけない。
そして私も、着飾ったものではなく等身大で、驕ることないプロフェッショナルに近づけるように自分のペースで進んで行きたいと思う。
凡才である私をカリスマだと言ってくれる人たちのために、ゴールはない本物への道を追求し続けることに人生を描きたい。