話すことと聞くこと(席替えに4時間もかかった話)
自分の意見をいうことが悪いことだなんて、思ったこともなかった。
自分の考えを話すことはとても大切だから、皆そうするべきだと思っていた。
むしろ、思ってることがあるのに言わないなんて不誠実だとまで思っていた。言いたくないなら無理して言わなくていいとは思うけど、言わない方が楽だから黙っているならそれはずるい。
自分の考えを伝えて、他の人の意見もたくさん聞いて、人間はそうやって関係を築いていくものだ。わたしはずっと、そう思っていた。
きっとわたしはそういう教育を受けてきていたのだ。飯能山奥学園に通った中高六年間で。
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そこは多分、ちょっと変わった学校だった。
覚えることよりも考えることを大切にしていた学校だったと思っている。
人の価値は点数で表せられないだろうという理由でテストがなかったその学校で、私たちはいつもテストの代わりに自分で自分の学びを振り返り文章を提出してきた。そして教員たちは採点の代わりに文章を読んで、得点の代わりに手紙のようなコメントをくれた。正解か不正解かではなく、いいか悪いかでもなく、ただ考えに対してコメントをただ返してくれていた。
どう感じたか、何を学んだか、誰の意見が興味深かったか、それを踏まえてどうしていくか……私たちはとにかく何でもかんでも言葉にしてきた。書いて話して歌って、とにかく発信してきた。言葉にすることで繋がって、言葉にすることで学びの場を作ってきた。もちろんそれが初めは苦手な子もいたけど、みんな徐々にその力をつけていった。
わたしが通っていたのはそういう学校だった。
もちろん、テストがないからといって楽なわけではない。テストは教科書を読めば答えがわかるけれど、覚えれば解ける問題だけれど、私たちが挑む問いの答えは教科書には載っていないことばかりだった。そもそも教科書を使っていなかった。だから必ず授業に参加しなければいけないし、自分たちで考えてなければいけないし、それをうまく文章にまとめなければいけない。テストよりも難しい面もあったと思っている。
知識をできるだけ詰め込んで正解が決まっている世界に飛び込むのではなく、知識を得た上で自分の考えを深めて問いに挑み続けるような感覚だった。問題はあるのに絶対に正しい正解がないこともあった。何かを達成すること、正解にたどり着くことよりも、どんな見方をしどんな時間を過ごすかが大切にされていた。
とにかく自分の考えが大切で、そのために色々な見方を知る必要があり、それこそが自由と自立につながる、そういう学校だったと思っている。
「自由」という言葉が学校名に入っているからなんでも自由の学校なのかと勘違いされるけど、それは違う。あの学校は、自由への学校だった。自由になるために色々な見方を学ぶ学校だった。
色々な捉え方をする人がいるけれど、私はそう思っている。
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だから私たちはいつも話し合っていた。自分の考えを深めるために、他人や自分についてできる限り理解するために、新しい見方を手に入れるために。受信をしては発信をしていた。
どんなに頑張って言葉を使っても絶対に自分が思っていることがそのまま伝わることはないからこそ、だからこそできるだけ伝わるようにみんな一生懸命頑張っていた。あの頃の私たちはいつも必死だったと思う。
学校単位でいえば学校行事をやるかどうかを話し合い、学年単位でいえば修学旅行をどんな風に作っていきたいかを話し合い、クラスでは授業態度や席替えについて話し合った。
生徒会はなく、中学生から高校生まで興味がある人たちが集まって話し合っていた。クラスや学年を超えた場ではどうしても意見を言う人が偏ってしまうのが問題だったけど、とにかく誰もが皆話し合いを大切にしていたと思う。
話し合いは学校生活の過ごし方だけにとどまらない。数学の授業では問題の解き方からみんなで考えて、日本語の授業ではみんなで文章を読んだ後にどう解釈していくか話し合った。特に盛り上がったのが社会で、私たちは色んなことを学んで考えて話し合った。法律のこと、歴史のこと、社会問題のこと……どんな授業でもたくさん話し合って、人の意見を聞いて、自分の意見を話して、いつもレポートを書いて共有した。
意見を言うことと人の話を聞くこと、話し合いをすることが全てだったのだ。(友達はそれを対話主義と呼んだ)
そうやって過ごしてきた学校生活だったけれど、もちろん自分と全く同じ意見の人はいなかった。それぞれが個人個人として、自分の意見を持っていたからだ。自分と違う意見があるのは当たり前で、それは貴重なものだって知っていた。
だからお互いに尊重しあいながらその場を作っていた。話し合いというのは、場というのは、人と人との関係性というのはそういう物なのだと知っていた。
いいところ悪いところを出し合って、みんなの考えを理解して、それで、どうしよう。色んなことを調べて理解した上で、ここからどうしていこう。もう少し話をしよう、聞いてみよう。誰か客観的な意見を言える人も連れてこよう。そして多数決は最後の最後まで取っておこう。そういうことをずっと積み重ねた六年間だった。
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授業態度について話し合うこともあった。特に覚えているのが、席替えについて四時間近く話し合った中学二年生の時のことだ。(友人によれば延べ三日かかったそう……)矢野絢子さんという素敵な歌手の方が学校にライブをしに来ていたにも関わらず、狭い教室で、クラス全員で、放課後めいいっぱい終バスまで何時間もひたすら話し合っていた。
なぜあんなに必死に話し合いができたのだろう。多分はそれは、その問題が自分たちの生活に関わる大切なことだったからだと思う。席替えはいつだって一大イベントだからだ。
十年前なので私はあまり覚えていないけれど、友人によれば議題内容は「席移動問題」だったそうだ。席替えをするタイミングで話し合いが始まったらしい。
席が決まっているのに勝手に移動して授業中に話している人がいてうるさい、そもそも席替えをしても勝手に席移動しちゃうんだったら席替えなんていらないじゃないか、という話から始まったと彼は言った。自分の席が決まっているにも関わらず休みなどで空いている席があると、前の席で授業を受けたいがために移動したり、仲がいい友達の隣の席に勝手に移動していたそうだ。
普通に学級崩壊じゃん、決まっているルールを破って席移動する奴が悪いじゃんと今は思う。だけどそんな状況でさえ反対派と賛成派がいて、それぞれの考えを話し合って、誰もすぐに多数決で決めようとはしていなくて、担任はいつも通り私たちの話をただ聞いていたそうだ。(途中でいなくなったらしいけど)
ちなみ私が通っていた頃、この形(コの字)を採用しているクラスがとても多かったです。何故ならこの方が顔を見て話し合いがしやすいから……高校生になってからは、何が一番授業を受けやすいか模索して色々な形を試すこともありました。
人の行動が視界に入ると授業に集中しにくい子が多いようで、今ではほとんどのクラスが黒板の方を向く普通の形を採用しているようです。話し合いの文化も少しずつ変わっているそう。
小さなことに思えるようなことでさえ大きな問題で、というか意見が分かれた以上見逃せない問題で、とにかく私たちは話し合いばかりしていた。クラスという小さなコミュニティの中ではどんな問題も身近に感じることができていたからだ。そして誰も馬鹿にしなかった。たくさんのことを知ってる担任でさえ、安易に口を挟まずいつも見守ってくれていた。
個人がとても尊重されていたから安心して意見を言うことができたし、だけど人の意見を聞いて変化することも時には必要だということをみんな知っていた。話し合いをするのにはとてもいい環境だったと思う。
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自分と違う意見の人がいたとしても何の問題もなかった。その人の考えに反論することはできても、その人自体を批判することはない。
そもそも自分の考えが絶対に正しいなんてことはない。そして、考えが合わないからといって、その人の方が劣っているなんてことは絶対にない。仲良くなれないわけでもない。
むしろわたしは考えが違う人が大好きだった。自分とは違う目線で物事を見ているから、違う分野に詳しいから、たくさん学べて嬉しかった。
私たちは思っていることを言い合って考えるのが大好きで、必要で、人と人のコミュニケーションはそういう風に作られていくものだと思っていた。
だから意見を発しない人がいるなら話しやすい環境を作ろう。ゆっくりでもいいから皆が喋れる環境を作るべきだし、全員から意見を引き出すべきだ。まずはみんなの意見をできるだけ出し合って、話し合って、それでもダメだったら最後の最後に多数決をとるべきだ。そして発信ばかりではなく勉強もして受信も大切にしよう。友だちの意見はもちろん教員の意見も聞こう。勉強をしよう。
人それぞれみんな意見が違うのが当たり前。だからたくさん話して、聞いて、お互い理解しよう! 話し合いをしよう!!!
「対話主義」と言う言葉が本当にしっくりくる。……改めて振り返るとちょっと怖いくらいだ。
とにかく十二歳から十八歳までの六年間を、私はずっとそういう環境で過ごしてきた。
自分の考えを表すことが好きになり、人から学ぶことが好きになり、それらを共有し話し合っていく場を大切にするようになっていった。
だからわたしは理解していなかった。
そもそも、意見を持つことや感情をそのまま表現することがよくないとされていることに。
だからわたしは気づいていなかった。
違う考えや意見を持っている人の気持ちを理解する事はできていても、意見を言わない人、気持ちを表現しない人のことが理解できていなかったことに。
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あなたたちはコミュニケーション方法が一般的な中高生とは違うようだと言われたことがある。その人が言うには、思ったままに感情を表現するよりも我慢するコミュニケーションが一般的だと言う話だった。
なぜなら感情をすぐに出したりなんでも言葉にしてしまうと人を傷つけてしまうかもしれないし、相手の行動の裏にある意味や背景を考えなさいと教え込まれたからだとその人は言った。
わたしはそれを聞いてとても驚いた。
思っていることをそのまま伝えるのが一番いいと思ってきたからだ。言葉にしろ気持ちにしろ、嘘偽りないそのまんまのことに一番価値があると思っていた。言わないことの方が失礼だと思っていたし、自分に足りないところがあろうと何だろうとまずは表現していかないと始まらないと思っていたからだ。もちろん相手を傷つけたいとは思わない。違う意見の人を言い負かそうとも思わない。
ただ、とにかく自分の気持ちを正直に言うこと、他意も悪意もなく自分の考えを伝えることが一番いいと思っていたのだ。
だけどそうじゃなくて、思っていることがあれど黙っている方がいい場合もあるというのだ。
自分の考えが間違っているかもしれない、相手を傷つけてしまうかもしれない、相手がどんなことを思い考え学んできたか分からないから……
なるほど……とすごく納得してしまった。
その人の言う通りだ、わたしは分かっていなかった。意見を言わない人のこと、何でだろう? って思ってた。
恋人が、友達が、家族が全然自分のこと話してくれなくて、思っていること伝えてくれなくて……って言う話を聞くたびに、それは言わない相手が悪いよ! と言ってしまっていた。
人それぞれだって分かっているつもりで、何も分かっていなかった。別の友人はそれを傲慢さと呼んだ。その通りだ。
その指摘はすごく響いて、わたしの中にずっと残っている。これからは自分の考えを言うのに時間がかかってしまう人のこと、言えない人のことも理解したいと思った。
ちなみにそれは恋愛の話をしていたときの話だ。不特定多数への発信についてではなく個人的な関係の話だったけど、それでも全てのことに当てはまると思った。
それはすごくいい気づきだった。
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それでもわたしは思っていることをひたすら表していく。
間違ったことをして失敗するのは怖くない。でも自分の発言で誰かが傷つくのは怖い。だけど、思っていることがあるのに言わないより、無関心になるより、自分に関係することには出来る限り向き合っていたい。できるだけ相手に寄り添いながら、相手の気持ちも考えながら。
それは目の前に人がいても、画面の向こうに人がいても変わらない思いだ。
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話し合いまみれの十代を終えて、親の元から離れて、子供の頃よりも法律を身近に感じながら生活するようになった。
みんなでルールを作っていた学生の時よりも生活範囲がグッと広くなって、ルールもめちゃくちゃに増えてしまって、まるで自分と関係ないかのように思える事ばかりになった。
話をする人たちの範囲も増えて、色んなことが目の前にやってくるようになって、知らない人と急に話さなければならないことも多くなった。スマホが普及してSNSがさらに身近になり、顔も名前もよく分かっていない人たちに向けて自分の意見を話すことが簡単にできるようになった。呟いているだけのつもりだったのに、反応がたくさん返ってくるようになった。この十年で、インターネットにおける環境はぐっと変わった。
パソコンの電源ボタンを押してからお茶を入れるためにキッチンに行くこともなくなり、インターネットはボタンを押せばすぐに立ち上がるようになり、思ったことをちょっと考える間も無くすぐに発信することができるようきなった。そして多くの情報に触れることができるようになっている。良くも悪くも。悪意のある嘘も間違いも本当も、全てが皆同じ顔をして並んでいるように見えるのは結構怖いことだと思う。
そんな中でようやく私も好き勝手言い散らかすことに無責任さを覚え、「よく分かっていなくて申し訳ないんですが」とか「無知なのですが」などと前置きすることを覚えた。だけど本当は、別にそんな前置きがなくても自分の意見を喋っていいはずだとも思っている。わたしはそうでいたい。そしてSNSではそれらの言葉を違う意味として使う人もいるからもう本当に難しいのだけれど……
全部をわかっている人じゃないと何についても話しちゃいけないって、本当ですか?
私はそれを窮屈だと思う。むしろ分かっていないからこそ話していくべきなんじゃないの、と思ってしまう。
もちろん無闇に発言したり、感情のまま話したり、誤った解釈を広めたり、一人の人の意見を鵜呑みにしたり、何も調べ考えずにただ周りに流されるのは何の益もない。むしろ悪い。だったら発信しない方がいいとも思う。
だけど、ものすごく詳しくないと発信してはいけないと言うのはおかしい。自分の考えを調べ尽くして誰からも批判されないようにして完全に定めてから話すという事は、他の人の意見を受け入れるつもりがないようだ。専門家しか発言してはいけないようだ。
むしろ自分のもともと持っていた考えと他の人の考え、色々なものに触れながら自分の考えを深めていきたいと私は思う。
そもそもどんなにその分野に詳しい専門家だって意見が違うことがあるのだ。目線が違うから、誰にとっても正しいことってないから、だから意見が分かれるのだ。一人じゃない以上自分と違う意見があるのは当たり前で、どっちが賢いとかじゃない。
法律についての話をしていたときに「万人受けする法律はないですからね」と言われた。本当にそう思う。変わらない事実があったとしても、捉え方も考え方も人それぞれだもの。
違う背景と環境にいるそれぞれの人間なのだから。
だからわたしは、自分と違う考えの人を批判しない。自分と違う意見だからって、勉強不足だなんて思わない。むしろいつだったわたしの方が勉強不足かもしれないといつも思ってる。だって、相手のことなんてそうそうしっかり分からないもの。
真面目にその問題に取り組んでいる人は大抵自分より物知りで、ただ捉え方が違うことがあるだけで、どれも真っ当な意見だ。
賛成意見も反対意見含めた色んな人の話を聞くことは自分の理解を深める上でとても役立つって、ずっとそうやって学んできた。そして本当にそう思っている。
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わたしは色んな意見を素直に受け入れることのできる、いつまでも学び続ける子供でいたい。考え続けることをやめないで、学び続けることをやめないで、みんなで話していきながら成長し続ける子供のような人でいたい。
そして相手のことを考えて時には黙る人のことも分かりたい。色んな人がいるんだって理解していきたい。そのうえで話がしたい。
全員の顔を見ながら話し合いをしてきた学生時代を終えて、本当の名前も顔も見えないSNSで意見を交換することが増えてきた。画面の向こうには人がいるのに、テレビを見ながら文句を言うように心のない言葉を簡単に送る人に出会うこともある。
SNSなんて嫌になっちゃうな、と思う時がよくある。
だけど自分には想像もしなかった考えや見落としていた部分に気づかされることがたくさんあるから、SNSをやっていてよかったなと思うこともよくある。
こうやって思っていることを文章にして誰かに伝えることができるSNSがあってよかった。
だから本当に不思議だ。
何でみんな意見を言うことが悪いっていうの? 私は意見を言うことが悪いだなんて思わない。どんな意見を持つにしろ、そして意見を言う言わないも、全て個人の自由だと思うんです。もちろんちゃんと調べず間違っていることを広めるのは本当によくないですが!!
……という話を同じ山奥学園に通っていた友人にしたら、それって今のTwitterの話でしょ? と冷静に言われた。その通りだ。
「Twitterは独特だからなあ」大学院でひたすら数学の研究をしている彼は続けた。
「そもそもそれはTwitterの構造上の問題な気がするな」
「自分の好きな人たちだけを集めたはずのタイムラインに、自分と違う意見が入ってくると余計に違和感を感じてしまうから……だから余計に反応しがちになってしまうんだと思うよ」
「っていうか”みんな”っていっても、そもそも世の中のほとんどの人はTwitterをやっていないからなあ」
……全くもってその通りだ。
ここまで頑張って書いたけど半分くらい消したくなった。
本当に、人の話を聞くのってすごく益になるなあ。
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