不安定を生き切ること
怒涛の7月が終わってしばらく経った。
終わったもの、変化したもの、進んだものの多さに飽和して、8月の初旬はかなりの時間腑抜けていた。
色々あり過ぎて逆に掴みどころのない月であったが、文末に添えた「7月のあらまし」の羅列を見ると、インプットの多い月だったように思う。
サブスク、劇場含め、映画を5本も観ているが、なにはなくとも君たちはどう生きるかにやられてしまって、今の今まで引き摺り続けている。
先月のアフターサン然り、自らのパーソナルな部分に直接衝撃を与えられるような映画体験が続いている。
わたしはいつだってそういう、主観に基づいた映画の見方をしてはいるのだが、身体ごと持ってかれるようなのはそうそうあるものではないのだけど。
映画館で、自分自身が変わるようなものと出会えることは、なんて貴重で贅沢なことだろう。
そうだ、7月は自分が丸ごと変わるような体験を多くした。
それと出会う前の自分にはもう戻れないな、と思う体験だらけの月だった。
先月に続き、人間関係の変化がたくさん起こっていた。
母と、以前とは違う立ち位置で話を出来るようになった。
月末に仕事が本当にすべて終わって、上司でもあった叔母との関係がすっかり変わった。
元恋人との関係の整理がおおかたついた。
今でもとても大切な人で、一番信頼している友人として、また楽しいことを一緒に始める準備がやっと整ってきた。
新しい友人もたくさん出来た。
新しい恋人も出来た。
すごく楽しくて、嬉しくて、これからが楽しみなこともたくさんあるけれど、こういうときわたしは、大切な人が増えてしまったな、と、少しだけ困ったような気持ちになってしまう。
便宜上、友人とか、恋人とか言っているが、わたしの中では一緒くたにみんな「大切な人」で、それぞれが名前の付かない固有の関係性を持っている。
わたしは大切な人たちと溶け合い、常にお互いが変化するような関係でいたい。
これはわたしのどうしようもない性質で、危うさを孕んでいる自覚もありながら、持ち続ける他ないと思っているものでもある。
常に変化しているということは、不安定なことでもあって、ときには衝突も避けられないし、お互いが大きく傷付くこともある。
以前のわたしは衝突しながら形を変えていくことに積極的で、傷付くことも厭わなかったし、それが自分が表現出来うる誠実さ、真剣さだと思い込んでいた。
ずいぶん多くの大切な人を傷付け、また自分自身も傷付いてきた。
本当に毎回手探りでやっているし、その人それぞれの大切に仕方があって、毎回初めての試みなのはそうなのだけれど、ありがたいことに、今までのたくさんの大切な人たちと過ごしてきた時間で自分が変化したことで、少しずつしなやかさを持って触れ合えるようになってきている。
だから、今始まったばかりの色々な人たちとの関係の中にも、これからどんどん宝物やお守りを見つけることが出来るのだろう。
わたしの人との付き合い方は、場合によっては未だに危ない橋かもしれないけれど、そういう不安定さを抱えながら、しなやかに変化して、大切な人たちと共に生きていきたいと、本気でそう思っているんだ。
新しい人、変化した人、みんなこれからよろしくね。
7月のあらまし
1日 日中、奥多摩(沢井)で森林浴と河原遊びののち日本酒パーティ
夜、第1回文春川柳大会
2日 母に会う
6日 ウクライナ舞踊
7日 激流揖保乃糸大食い大会
9日 寺子屋で懇親会にたくさんのポテサラとつくねを持っていく
11日 映画『ゲットアウト』友人たちとリモートで再鑑賞
12日 映画『バッファロー‘66』再鑑賞
夜、久々のかりねこラジオ
15日 群像の夜『NOPE/ノープ』編
16日 映画『君たちはどう生きるか』鑑賞後、twitterスペースにて群像の夜番外編として感想会を開催
18日 友人と根津の蕎麦屋で日本酒をやる、のち、色々ありカラオケでオール
19日 鉄塔の下のボランティア
23日 叔母主催のワークショップへ行く
24日 映画『パール』鑑賞
26日 国立西洋美術館、千鳥ヶ淵灯籠流し、そして恋人が出来る
27日 国立映画アーカイブ
31日 お仕事最終日、断髪!
他、Apple Musicで夏プレイリスト作りしたり、『檸檬』と『人間椅子』を朗読したり。