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およそ30個の鉱石

言葉は存在に輪郭を与える力があると思っている。
だから、身体と感覚が乖離してしまい、なにに触れても安全に受け取れない、自分自身のモノに出来ないような時期には、簡単な日々のことについて書くのも一苦労で、まとまる前に掌からこぼれ落ちる砂のように、さらさらとわたしをすり抜けてしまう。
そうして途方に暮れているうちに、自分自身も砂の塊に姿を変えてしまう。
最初は、喉の奥からせり上がり、胸をいっぱいに詰まらせて声と呼吸を奪われた後に、腹に、頭に、脚に、指先に、内側から圧迫されて元の形を保てなくなるような感覚になる。

そういう時期にも情動がないわけではなく、むしろある側面では、普段よりもずっと無防備に、鋭敏に触れたものに影響されてしまうとも言えて、その頃は言葉の守護を失っているばかりに上手く受け身が取れず、大怪我をするようなことを繰り返してきた。

ここ最近、そのドツボに嵌まっていたと思う。
この前思考整理のために、まず表面上のスケジュールから出来事を追って行こうと考えて、ドツボの淵からひいひい言いながらもリストアップしてみた。
すると、3月から数えて、30もの大事に文章にしたいトピックが出揃ったのだ。
出来事としてはどれもまだ新鮮で、客観的に思い出そうとすれば細部まで描写することが出来るはずなのだが、出来上がったリストを眺めているうちにトピックの枠組が溶けていき、不思議ともう全て他人事のような、夢の中の遠近感の狂ったビジョンのような感触を覚えた。
たった3ヶ月で、これらの出来事は主観においては圧縮されて形を変えてしまったようだった。
そうすると、迷子のような、寂しいような、苦しいような気持ちになる。

苦しみはいつも美しい姿をしていて、砂になったわたしの中で圧縮されたそれらは、さながら砂漠の薔薇のように、清潔な鉱石のような手触りをしている。
これは確かにわたしの中にあるものだけれど、この姿のままではわたし自身にはならなくて、そんな鉱石をほんの小さい頃から少しずつ腹に溜め込んで来ていたように思う。
大人になってやっと、砂の中から彼らを見つけ出すことが出来るようになり、その姿形を認めて、なるほど、こんなものを抱えているならば、そりゃあよっぽどおセンチな世界に生きているわ、と、改めて自己を客観視することが出来たのだった。

おセンチなままに表現すること、解消することも以前は試してみた。
それは例えば俳句だった。
俳句は早い。
五七五の17文字では短過ぎて情緒が入り込む隙間がないので、無防備な身体が受けた衝撃のままの言葉を並べても出来上がってしまう。
言葉は、そのひとつひとつがわたしの中にあるものよりもずっと大きな世界を内包しているから、わたし自身は依然未熟なままでも、言葉そのものにおんぶにだっこで体裁を保たせてもらっていたのだと思う。
砂まみれのままに、ろくに観察も洞察もないままに、無責任に甘えていたなと思う。
だから順当に挫折して、何がいけなかったのか言語化出来ずにいたが、ここに来てやっと言葉になった。

自分で何かを生み出す気力すらないとき、逃げ場にしていたのは例えば音楽だった。
訳も分からず言葉に過敏になっているときには、インストや英語以外の異国の言葉の音楽をよく聴いた。
鉱石を発見してからは、それらに似合うような、硬質で美しい歌詞の歌も聴いた。
そうして抱えきれないものを肩代わりしてもらっていたのだろう。
それらは似ている波長で寄り添ってくれはしても、わたしの鉱石そのものになることはなかった。
でも、鏡のように、レンズのように輪郭を浮かび上がらせてくれた。

今日、夜に独りで散歩をしながら、ceroの新譜を繰り返し聴いていた。
硬質で美しい歌詞とメロディだった。
バーチャルと生臭い現実が混ざり合う都市に生きながら、その裏側に隠されている自然をも認めながら、いずれの場所とも混ざりきれないような、ぎりぎり全てと繋がりながら揺蕩うような感覚を覚えて、わたしは、この心許ない居場所から糸口を見つけていくんだ、と腹が決まり、帰宅後すぐにこの文章を書き始めた。

わたしを今まで支えてくれたものを、インスタントに消費するのはもうやめようと思う。
今なら、音楽とも向かい合わせで話が出来るはず。
今なら、正しく言葉を信じて俳句をやりたいと思う。
最終的に、逃げずに文章にまとめ上げて、しっかりわたしの物語にしたい。
多分それは、わたしのものになった後、物語としてはわたしの手を離れていくのだと思う。
一度そうして手放して初めて、鉱石はもっと自由な形を得て、わたしそのものになっていくのだと思う。
わたしは欲張りなので、なんでも大切にしたいのだ。
過度な甘えは対象を蔑ろにすることになると思っている。
甘えではなく信頼で、言葉とも、俳句とも、音楽とも付き合いたい。

わたしはどうしても鉱石を作り出してしまうから、それらの鉱石のそばにいてくれるものたちの力を借りて、もっと上手に、大切に出来るようになりたい。
その試行錯誤の一部をここにも記していきたいし、生涯をかけて探求していきたいと思っている。

3ヶ月分の鉱石たち(まだ砂まみれ)

3月11日 昼にリアルで、夜にTwitterスペースで、「それぞれの3.11」開催
3月13日 森美術館「ヒグチユウコ展」
3月14〜16日 叔父の手伝いで武術の相手役をする
3月24日 柚子の収穫
3月25日 spoon「魁!炎のライティング塾」開催
4月1日 ときがわ町の城跡で山歩きの瞑想
4月4日 スイーツと感話の会
4月5日 食べちゃんの誕生日「15年後のオスカー像を作る」ケーキがわりにわたしが作ったスイートポテトを一緒に食べる
4月6日 映画「ブルージャイアント」鑑賞後、5時間カラオケする
4月9日 知り合いの形見分け会
4月12日 「アクト・オブ・キリング」鑑賞
4月13日 今期最後の柚子の収穫、レモンの地植え
4月14日 永福町で友人のライブ
4月15日 散髪、祖父と昼食、夜は映画枠で「アクト・オブ・キリング」
4月16日 てらたん(身体を使ったシステム論的自己探求型ワークショップ)
4月22日 「あなたが言うなら」鑑賞
4月24日 夜通し「カタシロ」を観てぼろぼろに泣く
4月29日 1日中母と遊ぶ。都美術館で「マティス展」、喫茶ギャラン、カラオケ
5月1日 西新井のプラネタリウムで君島大空
5月2日 ネトフリで「呪詛」を観てもやもやする
5月3日 シアターコントロニカ「回廊」鑑賞
5月5日 祖父、叔母、母と共に森のホールでフジコ・ヘミングのコンサートを観る
5月9日 スイーツと感話の会プチ特別編
5月12日 ゼルダの伝説ティアーズ・オブ・ザ・キングダム開始
5月13〜14日 嬬恋で田んぼの手伝い
5月16日 「美しき愚かものたちのタブロー」朗読再開
5月17日 ボランティア後、ショッピングモールで買い物失敗してやけ食い
5月21日 寺子屋(内山節先生の私塾)でお手伝い
5月27日 映画「PLAN75」をテーマに映画枠
5月28日 てらたんで父親との関係について探求する

そのほか、ここには書けない仕事のこと、人間関係、わたしの内側のこと、わたしの身体のこと。

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