海賊ブラッド外伝~枢機卿の身代金(1)
ローマ・カトリックの信仰で生まれ育ったキャプテン・ブラッドは、己が法の埒外で生きる身となってからも自らを旧教徒と見なす事をやめなかった。そのような彼がプロテスタントの闘士を助けた罪によりイングランドを追放された事、そしてスペイン軍からは火刑に処してしかるべき異端者と見なされている事はなんとも痛ましい皮肉であるのだが。
ある日の事、個人的な良心の呵責を理由にして、少しばかりの涜聖行為に目を瞑れば実現可能な容易かつ莫大な略奪計画に背を向けたキャプテン・ブラッドは、フランス人同盟者イブレビルに対しこのような事情を心外そうな口ぶりで詳細に説明した。
聖職者となる事を両親に望まれ、そして諸々の事情によって故国を離れてフィリバスター(不法戦士)に転ずる前には実際に下級聖職に就いてもいたイブレビルは、憤慨と彼自身が無益と考えている良心の呵責を面白がる気持ちとの板ばさみになった。だが、この日においては可笑しみの方が勝った。背が高く屈強だが既に中年太りの傾向が見えているこの男は、そのユーモラスな口と楽しげな茶色の目が示しているように陽気で温和な性質であった。確かに――結局は、彼自身が抵抗しお笑い草として片付けようとしたものの――彼の中には偉大な聖職者の資質が隠されていた。
彼等はビエケス島に入港していたのだが、この時のアラベラ号は襲撃対象を定めぬまま航海していた為に、イブレビルは何か有益な情報が拾える事を期待して買い出しを装い陸に上がった。国境線を跨いだスペイン側で数年間を過ごした経験のあるバスク人イブレビルはその気になればスペイン人のふりで通せる程の流暢なカスティリャ語を操れた為、このスペイン植民地において偵察役を務めるにうってつけだったのだ。
彼は見込みのありそうな企てを示唆していると考えられる情報を携えて、厚かましくもメイントラック(大檣冠)にスペイン旗をはためかせつつ停泊地に錨を下ろしている大きな赤い船に戻っていた。彼は問題の人物、管区を歴訪しながらメキシコに向かって航行中の砲八十門ガレオン船サンタ・ベロニカ号上にある、元カスティリャ異端審問所[^1]の長であり新たに新スペイン[^2]の大司教枢機卿に任命されたドン・イグナシオ・デ・ラ・フエンテに関する話を聞きつけてきた。この猊下はそれまでサン・サルバドル島に滞在していたが、目下はサン・ファン・デ・プエルトリコに向かっているとの情報があった。その後、恐らくはサン・ドミンゴ、ひょっとするとサンティアゴ・デ・クーバにも立ち寄るかも知れないが、ともかくスパニッシュ・メイン[^3]の水域に入る前にハバナに寄港するのは確実だろう。
イブレビルはその悪知恵で導き出した、目下の状況を利用して得られるかもしれない儲け話を臆面もなく開陳した。
「往年のフェリペ王は別にして」と彼は弁じた。「あとはせいぜい異端審問所長とセビリアの大司教枢機卿くらいでしょうな、この新スペインの首座大司教より高い身代金をぶんどれるようなスペイン人は」
ブラッドは足を止めた。二人は常夏地帯の眩しい十一月の日差しの下、アラベラ号の船尾甲板を歩いていた。イブレビルの血気盛んな長身は未だ陸に向かった際に身につけたライラック色の華美なサテンの服と、長い茶色の巻き毛に結んだ紫のリボンで飾り立てられていた。キャプスタン(巻上げ装置)前方とブレース(転桁索)の辺りでは、この大型船に行き足をつける為の準備で騒然としていた。そしてフォアチェーン(前檣索繋鎖)の処ではボースン(水夫長)のスネルがだらしのない灰色の巻毛が頭飾りのように載った禿頭を鈍く光らせながら、片言の汚いカスティリャ語で数槽の邪魔なバムボート(物売り舟)[^4]に退くようにと怒鳴っていた。
ブラッドの鮮やかな目は同行者の楽しげな表情に難色を示した。「それで?」と彼は尋ねた。
「それでって、ただそれだけの話です。サンタ・ベロニカ号はおそろしく高価な高位聖職者という貨物を積んでいる、これまでメキシコから出港してきたどの金塊運搬船よりも高価な荷をね」そう言って彼は笑った。
しかしブラッドが彼と共に笑う事はなかった。「なるほど。それで我々がその船との間に板を渡して件の大司教を拉致するというのが、君の碌でもない考えという訳か?」
「大当たりですよ!サンタ・ベロニカ号の待機場所はサオナ島の北にある海峡でしょう。そこで我々はサン・ドミンゴに向かう途中の猊下を捕まえるんです。こんな楽な仕事はありません」
つば広帽の下で陰になっているブラッドの顔は険しいものだった。彼は頭を振った。「それは我々の仕事ではないな」
「我々の仕事ではない?どうしてです?あの八十門の大砲が問題ですか?」
「私が問題にしているのは涜聖行為を軽んじる事だ。大司教に狼藉を働き身代金目当てに拉致するとは!私は確かに罪人かもしれないが、しかし心底においては自分が真の教会の息子でありたいのだ」
「貴方は真の教会の息子ですよ」とイブレビルが取りなすように言った。「俺の望みは自分が自分以外の何者でもなくいられる事ですが、元異端審問所長を人質にして身代金を取る事に感じるやましさなぞ、大した問題にはなりませんな」
「それはそうだろう。だが、君には神学校で教育を受けたという利点がある。思うに、そのせいで君は神聖なものに対して無遠慮になれるのではないか」
イブレビルは皮肉っぽく笑った。「そのお陰で俺はローマの信仰とスペインの信仰を分けて考えられるんですよ。スペインの『聖なる家[^5]』とアウト・デ・フェ[^6]と火刑用の薪束、俺から見れば奴等の方がよっぽどの異端者だ」
「詭弁だな、枢機卿の誘拐を正当化する為の。だが私は詭弁家ではないからな、イブレビル、他の何者であったとしてもだ。我々は涜聖行為には関与しない、以上だ」
彼の口ぶりと表情に表れた決意の固さを前にして、イブレビルは諦めの溜息をついた。「はいはい!貴方がそう思うなら…しかし、こいつは見送るには惜しい物凄いチャンスなんですがねぇ」
そしてキャプテン・ブラッドが己の運命の皮肉について詳しく説明したのはこの時の事であったが、彼等の会話は巻上げ装置から聞こえた水夫長の叫びによって遮られた。「索止め!」続いて警笛が鋭く鳴り、水夫達が動索を解く為に檣頭に急行した。鳥が翼を広げるようにアラベラ号は帆を広げ、確かな目的もないまま危険な冒険を続ける為に外海へと進んでいった。
微風を受けつつ悠々とした様子でバージン諸島を滑るように進む間も、彼等は視界に入ってくる船には常に目を光らせていた。しかしながら三、四日の間は見込みのありそうな獲物は見つからなかった。プエルトリコの南20マイルの位置までは。それは二本マストの小型カラック船だった。後部甲板が非常に高い位置にあり、砲の数は1ダース足らず、そしてスペイン船である事はメインスル(大檣帆)に掲げられた『悲しみの聖母』の絵姿を見れば明らかだった。
アラベラ号は風上に1、2度移動するとユニオンフラッグ(英国旗)を掲げ、射程距離内に入ったスペイン船の船首の向こうに停船を要求するシグナル代わりの一発を撃ち込んだ。
英国側の重武装と優れた航行性能を考慮すれば、カラック船がその要求に即座に従ったのは不思議な事ではなかった。しかし、それと同時にメイントラック(大檣冠)からは、メインスル(大檣帆)の装飾を真っ向から否定するようにセント・ジョージ・クロスが掲げられたのであった。そして先方の船から降ろされた一隻のボートが、穏やかに波打つサファイア色の水面を4分の1マイル離れたアラベラ号に向かって急行した。
そのボートから、ずんぐりとした短躯に暗緑色の衣装をきっちりと着込んだ赤毛に赤ら顔の男が降りると、アラベラ号の縄梯子を登ってきた。見るからに決然とした様子の小男は強靭な短い脚をせわしなく動かして、彼を迎える為に中部甲板|ウエストで待ち受けている黒と銀の堂々たる装いのキャプテン・ブラッドに向かって行った。ブラッドが伴っていたのは、派手やかな衣装については勝るとも劣らぬイブレビル、セッジムーアで片目を失ったが残りの一ツ目で並の男の倍は良くものが見えると豪語している巨漢のウォルヴァーストン、そしてこの事件について記したクロニクルを後世に残してくれたアラベラ号の航海長ジェレミー・ピットである。
ピットはこの新入りについて以下のように描写している。『これ程までに興奮している男に会ったのは、私の人生でも初めての事だ。』薄茶色の突き出た眉の下にある小さな目で、彼は周辺を念入りに点検して回るように熱心に品定めをした。木皿のように磨き込まれた甲板、光沢を帯びた真鍮のスキャットルバット(船内水飲場)と船尾舷檣上のスイベルガン(旋回砲)、メインマストの置き棚にあるマスケット銃の整然とした配列。全ては彼に自分が国王の御座船に乗ったかと錯覚させた事だろう。
最終的に漁り回るようなハシバミ色の目は彼を待ち受けている一団をつぶさに検討する作業に戻った。
「俺の名前はウォーカーだ」彼は野蛮な態度と北方生まれである事がうかがえるアクセントでそう告げた。「キャプテン・ウォーカー。いきなり腐れ弾をカマしてくれたアンタらが、何処のどなた様なのか教えてもらえると嬉しいんだがなぁ。アンタらがウチの船の鼻先に一発ぶちこんだのはメインスルのマリア様を見てコッチをスペイン人とカン違いしたせいかもしれんが、実際のとこ、俺はご覧の通りの人間だぜ」
ブラッドは簡潔に答えた。「貴君があの船のキャプテンであるなら、どのような経緯によるものなのかを教えていただけると有難い」
「アイアイ。聞きてえってンなら聞かせてやるがよ!長い話になるぜキャップン、おまけに胸糞の悪い話さ」
ブラッドが促した。「下に来たまえ」そう彼は言った。「あちらで拝聴しよう」
彼が今までの経緯を語ったのは、彫刻を施した金色のバルクヘッド(隔壁)に緑のダマスク織りが吊るされ、本や絵画、その他瀟洒な備品の数々がずらりと揃った、粗野な北国の船乗りにとっては船の甲板下にそのようなものがあるとは夢にも思った事のない、アラベラ号のグレートキャビンにおいての事だった。それはこの奇妙な訪問者を迎え入れた四人に打ち明けられたのだが、ブラッドが自分自身と仲間達の紹介を済ませた直後の一時は、ちびの船長の野蛮な態度は幾分和らげられていた。しかし一同が着席し、黒人スチュワードがカナリア・サックとナント産のブランデー、大型のジョッキを目の前に置くと、彼は憤りと怒りの全てを回復し、自分が如何なる苦難を耐え偲んできたかを吠え立てた。
キャプテン・ウォーカーは六ヶ月前にプリマスから出航すると、まずはギニアの海岸に向かい、以前にも何度か似たような取引をした事があるアフリカの族長からガラス玉やナイフや斧と引き換えに買った三百人の壮健な若い黒人奴隷を積み込んだという。この高価な貨物をハッチの下に詰め込んで、彼はうってつけの奴隷市が待つジャマイカへと向かっていたのだが、九月の終わり頃、バハマ沖の何処かで、近付きつつあるハリケーン・シーズンの前触れである嵐に捕えられてしまった。
「神様のお慈悲でよ、俺達はどうにか嵐を乗り切った。けど船体がボロボロにやられた上に、大砲も全部海に投げ込んで丸裸になっちまった。浸水した箇所から水を汲み出して沈没しないようにするだけでやっとだ。喫水線より上の部分はほとんどなくなっててよ、ミズン(後檣)がそんな有様で見張り台も使えねぇから夜もオチオチ眠ってられやしねぇ。俺達ぁ、とにかく一番近くの港に向かって船を走らせたんだが、その一番近い港ってのがハバナだったのよ。
「ハバナ港のアルカルデ(代官)[^7]がやってきたのはそン時だ。ウチの船の尾羽うち枯らしたザマや、さっきも言った通りに大砲を捨てて丸腰なのを見た上で、避難所に使える礁湖を教えてくれた。俺達はそこで船の修理にとりかかったのさ。
「資材やら何やらの支払いの為に、俺は代官に積荷の奴隷を何人か買っちゃくれないかともちかけた。その時丁度、鉱山じゃ伝染病が――天然痘だか黄熱病だか、そんなヤツよ――蔓延したせいで、働き手になる奴隷が足りてないって聞いたもんでな。
代官は俺に売る気があるなら大勢買うと言った。コッチにすりゃ渡りに船ってヤツよ、倉庫を空にして船を軽くできるのは有難い話だし、代官が奴隷を欲しがってるのは俺が抱えてた厄介事からオサラバするにゃ願ってもない幸運だと考えた。けど、事は俺が期待してたようにゃ都合よくいかなかった。
代官は金の代わりに生皮で支払うって言い出したんだ。アンタらも知ってるだろうが、皮はキューバの特産品だ。否やはなかった。イングランドに持ってきゃ買値の三倍、上手くすりゃもっと高く売れるしな。それでヤツは皮の為に船荷証券をよこして、船の修理が済んだらすぐにブツを積み込むって事で話がまとまった。
「俺は修理を急がせてから、自分の儲けを勘定してみた。一時は難破してオシマイかと思ったのが、結局の処は今までで一番お得な航海って事になりそうだった。
「けど俺はスペイン野郎の悪どさを勘定に入れてなかったのさ。ようやくもういっぺん船を出せるようになったんで、俺は船荷証券に書かれた皮を積み込む準備ができたって知らせを送った。そしたらむかつく返事がきやがったのよ。キャプテン・ジェネラル(司令官)――奴等がキューバ総督って呼んでる野郎だ――は出荷を許さないだろう、ってな。どんな外国人だろうとスペイン植民地で取引したら法律違反と見なされる、だからとっとと海に出た方がいい、司令官}が見逃す気でいるうちに…そう代官は書いてよこしやがった。
「アンタらもわかってくれるだろ、俺の気持ち。言っとくがな、このトム・ウォーカー様は泥棒野郎にナメたマネをされて泣き寝入りするような男じゃねぇんだ。相手が巾着切りだろうと司令官だろうと関係ねぇ。それで俺は陸に上がったのさ。代官の所に行ったんじゃないぜ。ああ、そうさ。俺は真っ直ぐに司令官の所に行った。ふんぞりかえったカスティリャのグランデ(名門紳士)で、俺の腕と同じくらい長ったらしい名前の野郎だ。短く縮めてもドン・ルイス・ペレラ・デ・バルドロ・イ・ペニャスコン、マルコス伯爵の称号もある。お偉い上にもお偉いグランデ(閣下)って訳だ。
「俺はその閣下の鼻先に船荷証券を叩きつけてからキッパリ言ってやった、泥棒野郎のアルカルデ(代官)がどうやって俺を引っ掛けやがったかをだ。俺に落ち度がないのを確認して即刻公明正大な処置をとってくれってな。
「けど閣下が肩をすくめて笑う様子を見たら、コイツもやっぱり悪党だってのが口を開くより前にわかったぜ。『君は既に法律について話されているはずだ』そう言ってこすい笑い方をしやがった。『そして君は正確に説明を受けた。如何なる者であれ、外国の商人との売買は我が国王陛下の法令によって禁止されている。皮を送る事はまかりならん』
「ガッカリどころの話じゃねぇ、あてにしていた儲けが反古にされちまったんだからな。けど俺はブチ切れそうなのをグッと抑えた。『そんならそれで』と俺は申し上げたさ『俺にとっちゃヒデぇ大打撃ですが、その法律は俺がこの腐れ証券を渡される前から効力がある訳だ。そういう決まりなンだから、コッチは三百人の奴隷を返してもらえるんでしょうな』ってな。
「そしたらヤツは顔をしかめて、八字髭をひねり回しながら俺のツラをジロジロ見やがるのよ。『嗚呼、主よ我に忍耐を与えたまえ!』やっこさんは言いやがったね。『その取引は同じく非合法なものだ。君はこの地で奴隷売買を行う権利を有していなかった』
「『閣下、コッチは代官から言われて奴隷を売ったんですぜ』って俺は思い出させてやった。
「『我が友よ』ヤツは言いやがるのよ。『仮に君が他の誰かの要請で殺人を犯したとして、それが罪を免れる理由になるかな?』
「『法律を破ったのはコッチじゃないんですよ』俺はがんばった。『俺から奴隷を買ったあの野郎はどうなんです』
「『君達は二人共に有罪だ。従って両者いずれも利益を得てはならん。奴隷達は我が州が没収する』
「俺ぁ身ぐるみはがされちまったんだよ、あの盗人野郎のスペイン紳士に銀貨一万相当で取引したはずの奴隷達を騙し取られたんだ――クソッたれが!――流石の俺も堪忍袋の緒が切れた。トサカにきちまった俺は、お偉いカスティリャ貴族――ドン・ルイス・ペレラ・デ・バルドロ・イ・ペニャスコンにガツンと言ってやった、こんな不正がまかり通ってるのはアンタの責任だろ、だからアンタが奴隷の代金を払ってくれよってな。
「涼しいツラした悪党は俺に散々吠えさせた後、嫌ったらしく笑いやがったのよ。
「『我が友よ』ヤツは言いやがった。『君にはこのようなから騒ぎを起こす理由もないし、不平を述べる理由も全くない。やれやれ、愚かな異端者よ、わからんのかね。私は君の船を没収し君自身と君の部下達を逮捕してカディスかセビリアに送り、世界の禍である異端を浄化するという厳密な義務の遂行を留保しているのだぞ』」
キャプテン・ウォーカーはそこで彼の記憶が駆り立てていた興奮状態から少し己を落ち着かせようとして言葉を切った。彼は額をぬぐうと、再び説明を続ける前にバンボ[^8]を一口飲んだ。
「忌々しい話だが、俺はブルっちまった。ヤツのその言葉を聞いたら、さっきまでの意気が汗が流れ出すみたいにサーっと出ていっちまった。『儲けをふんだくられる方がマシだ』俺は自分に言い聞かせた。『異端審問の信仰の火にくべられるよりは』ってな。それで俺は閣下の御前から退散する事にしたのさ、やっこさんが慈悲の心とやらより義務感の方を優先する気になっちまう前にな――くそっ地獄に落ちやがれ!」
再び彼はひと息ついてから、また続きを話しはじめた。「アンタら、これで俺の災難も終わりだと思ってるかもしれねぇがな、どっこい、まだまだ底には底があるのよ。
「俺は大急ぎで船に乗った、当然だよな。すぐさま錨を引っこ抜いて一気に要塞からのちょっかいが入らない沖まで出ようとした。でも、俺達は4、5マイル先までしか行けなかったのさ、後ろをグアルダ・コスタ(海岸警備船)のカラック船が一隻つけてきて、射程距離に入った途端に砲撃してきやがったんだ。あの船は俺達を沈めるようにクソッたれのキャプテン・ジェネラル(司令官)から命令を受けていたに違いねぇ。なんでそう思うかって?なぜって、異端審問所と信仰の火の話はあんまり大げさだったからな。あの泥棒野郎は、本国の眼の届かない新スペインで私腹を肥やしてる手口がバレちゃヤバいと思ったのさ。
「それでな、その海岸警備船だが、下手糞なスペインの砲術にしちゃぁ、結構素早く強烈にラウンドショット(鉄塊弾)を浴びせてきたのよ。コッチは大砲がないからシギ撃ちみたいに楽勝だ。まぁ、向こうさんはそう考えてたんだろうな。ただし、ウチの船の方は風上の位置をとってた。俺はたった一つの残されたチャンスに賭けた。目一杯舵を切って真っ直ぐ向こうの船に向かっていったのさ。あのクソッたれどもは、俺達に乗り込まれる前にコッチを蜂の巣にするつもりだったらしいし、実際そうなりかけた。コッチの船はどんどん沈んでいってザルみたいに水が入ってきて、ようやく向こうの船と並んだ時にはもう、甲板も水浸しだ。だけど神様のお慈悲は異端者の分も残されていたのさ。ボロボロの俺の船がグラプネル(四爪錨)でグアルダ・コスタ(海岸警備船)の肋材を捕まえて、俺達は向こうに乗り込んだ。それから後の奴等の甲板は真っ赤な地獄よ。なにせ、俺達ぁみんな、あの冷血漢の人殺しどもに怒り狂ってたんでな。船首から船尾へ向かって、俺達は容赦なく剣を振るいながら進んでいった。俺は五人仕留めて、十人ちょっとを半殺しにしてやったね。まあ、そン時に命拾いしたスペイン人達も、結局船の外に放り出したんで、みんな溺れておっ死んだけどな」
再び奴隷商人はひと呼吸おき、彼の火のような目は聞き手達に挑むような視線を浴びせた。「これで全部さ。もちろん俺達は沈められちまった船の代わりにカラック船をいただいた。そういう訳で、コッチの船のメインスル(大檣帆)にカトリックの印があるのさね。あんなモンを掲げてたら、早晩やっかいな事になりそうだとは思ってたんだがな。で、思ってた通り、アレのせいでアンタらの船がコッチの鼻先に一発撃ち込んできた訳だが、そいつはつまりお仲間がめっかったって意味だよなと思いついたのさ」
[^1]:1478年にフェルナンドⅡ世が教皇の認可の下で設置。本来、異端訴追は教皇庁の異端審問官か司教区の担当官が行うものであったが、カスティリャにおいては国王任命による審問官が行う事が許された。
[^2]:新大陸のスペイン領土(フィリピン、マリアナ諸島、カリブ海諸島も含む)。首都はメキシコシティであり、国王代理の副王(ビレイ)によって統治される。
[^3]:大航海時代におけるカリブ海沿岸のスペイン領。おおよそフロリダ半島からメキシコ、中米、南米北岸まで。
[^4]:停泊中の船の船員に食品や雑貨を売るボート。
[^5]:異端審問が行われる建物。
[^6]:auto de fe(信仰の業)。本来は有罪宣告から処罰に至るまでの異端判決宣告式全体を指す言葉だが、俗語では火刑の同意語的に使用される。
[^7]:スペイン語で「市長」。新大陸植民者が作った自治組織の長を指し、裁判権も有する。
[^8]:ラム酒に砂糖とナツメグを加えたカクテル。
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