海賊ブラッド外伝~枢機卿の身代金(3)
彼等は結局、キャプテン・ブラッドが提案したようにスペインのカラック船を沈める事はしなかった。小さな北国から来た船乗りのけちな性分としては、そのような無駄遣いは考えただけで胸が悪くなったのだ。それと同時に、自分と手下達がイングランドに戻る足を確保しておきたかったという用心もある。結局の処、例え一部であれブラッドの作戦が不首尾に終わった場合には、提供を約束された大型船も空手形に終わるかもしれない。
とはいえ、それ以外の事柄はキャプテン・ブラッドが定めた通りに進んでいった。北東に舵を取ったアラベラ号はグアルダ・コスタ(海岸警備船)を後ろに従えて、二日後にはバッカニア(海賊)達の自由が黙認されているセント・クロイ島のフランス領に到達した。一行はそこに四十八時間留まったが、キャプテン・ブラッドとイブレビル、そしてカリブ海の全ての港町に精通している小柄な禿頭のボースン(水夫長)スネルは、ほとんどの時間を陸上で費やした。
それからカラック船を待機させ、ウォーカーと手下達はアラベラ号に移動した。彼等は帆を揚げると、再び西向きの針路、プエルトリコへと行き先を定めた。その巨大な赤い船体がキューバの北海岸の波打つ緑の丘陵から見えなくなって以降、二週間が過ぎるまでアラベラ号の姿を見た者はいなかった。
その海域の温暖で快適な風を受けながら船は肥沃な岸に沿って進み、遂に彼等は教会や修道院、広場や市場、全てがオールド・カステリャ[^1]からニュー・ワールド(新世界)までまるごと運んできたかのような威厳に満ちた石灰岩の豪華な建物が立ち並ぶハバナの、その礁湖の入口まで辿りついた。
接近しつつ当地の防衛にざっと視線を走らせたブラッドは、ウォーカーやジェレミー・ピットが語ったスペインの大兵力が大げさなものではない事を理解した。陰鬱な稜堡と重厚な塔を擁する力強いモロ要塞は海峡の入り口すぐの場所で岩がちな高台を占めており、その反対方向にある三日月形に並んだ砲台を有するプンタ要塞、そして入口に面して不気味に立ちはだかるエル・フエルテ要塞もまた、厄介な事にかけては負けず劣らずの代物だった。かのドレイクの時代にこの地の兵力がどれ程のものだったかはともかくとして、現在のハバナを攻めるという無謀を行う者は、この三つの手強い要塞から厳しい攻撃を受けるはずだ。
アラベラ号は停泊地に留まり挨拶代わりの空砲を撃つ事で己の存在を告げ、ユニオンフラッグ(英国旗)を掲揚すると相手の反応を待った。
反応は、間もなく十本オールのバージ(艦載艇)という形で表れた。そのボートの日よけの下から顔を出したのは、この港町のアルカルデ(代官)でありウォーカーとは因縁のあるドン・ヒエロニモだった。彼は息を切らして縄梯子を登ると、この水域に現れた船の目的を調査する為に乗り込んで来た。
紫と銀の衣装で装ったキャプテン・ブラッドが、ピットとウォルヴァーストンを伴って中部甲板で彼を迎え入れた。1ダースの半裸の船乗りが整備された甲板上をうろつき、そして半ダース強がロイヤルマスト(最高檣)上の高みから見下ろしていた。
代官に対する歓迎ぶりは宮廷そこのけの雅やかなものだった。高価な奴隷達を満載してジャマイカに向かう途中であると自己紹介したブラッドは、木材と水が心もとなくなった為にハバナに入港せざるを得なくなったのだと説明した。同様に若干の新鮮な食料も補充できれば幸いであり、その為に代官の好意とはからいを願いたく、当然の事ながらそれらの代金ははずみましょう、と。
5フィート半程度の身長とほぼ同じくらいの腹回りの身体を黒衣で固め、青白いたるんだ顔をして雄牛のように喉肉をだぶつかせたドン・ヒエロニモは、如何に優雅な身なりや礼儀正しい言葉遣いをしていようとも、忌まわしい異端者の外国人に丸め込まれたりはしなかった。鋭い黒い目で疑わしげに甲板の隅々までを探りながら、彼は深い悪意のこもった表情で冷ややかな返答をした。だがそれは奴隷について言及されるまでの事であった。それから奇妙な変化があった。多少の愛想が彼の近付き難い無愛想を和らげたのである。彼は黄色い歯を見せて微笑を作るまで態度を変化させた。
セニョール・キャプテンはハバナで必要な物品は何でも購入する事が可能であると保障された。いつでも望む時に港に入る事が可能であり、湾内のバムボート(物売り舟)から何でも必要な物資を購入する許可を与えよう。不足があるならば上陸して港の施設を利用しても構わない、と代官は快諾した。
これらの保証を得た上で、ホイップスタッフ(舵棒)についていた船員は舵を風下に取るように命じられ、そしてブレース(転桁索)の要員達に針路を変えるように指示するピットのきびきびした声が響きわたった。再び微風をとらえたアラベラ号は代官のバージ(艦載艇)を牽引しながら手強い要塞群を通り過ぎて静かに前方へ進んだが、その間も愛想の良さを増した代官はキャプテン・ブラッドからこの船に積まれた奴隷に関する情報をどうにか引き出そうと狡猾な努力を続けていた。しかしこの話題に触れた時のキャプテン・ブラッドは曖昧かつ気のない態度であり、結局、ドン・ヒエロニモは率直かつ明けすけに論じざるを得なくなった。
「こちらの奴隷について何度も尋ねるのは少々しつこく思われるかもしれんが」と彼は言った。「しかし貴君がその気になれば、わざわざジャマイカまで彼等を運ぶ手間は必要ないのではないかと、ふと思ってな。ここ、ハバナには奴隷の良い買い手がおるのだ」
「ハバナに?」ブラッドは眉を上げた。「しかしそれは、カトリック王の法律に反するのではありませんか?」
代官は、ぶ厚い黒ずんだ唇をすぼめた。「その法律は、我々の現在における苦境を予期しておらぬ時点で作られたものだ。鉱山に天然痘という災禍が発生してな、我々には人手が不足しておるのだ。必然的に我々は法の適用を差し控えねばならん。もしも取引に際してその点を懸念しておるのなら、サー・キャプテン、問題はないのだ」
「なるほど」と気のない調子でブラッドは言った。
「それに、良い価がつくだろう」気をそそるようにしてドン・ヒエロニモは言い添えた。「実の処、破格と言ってよいだろうな」
「私の奴隷もですよ。実に破格だ」
「そして、それは、事実だ」ウォルヴァーストンはたどたどしいスペイン語でその言葉を追認した。「彼等は、高くつくだろう、セニョール・アルカルデ(代官)。多分、彼等をひと目見たら、貴方達は、いくらでも払うはずだ」
「是非とも彼等を見せていただきたい」スペイン人は懇願した。
「おお、断る理由などありましょうや?」ブラッドは二つ返事で承知した。
アラベラ号は既にボトルネック(狭路)を通って大きな青い礁湖の中、つまりハバナ湾まで侵入し、3マイルを横断していた。フォアチェーン(前檣索繋鎖)で測鉛手が水深を報告し、これ以上は進まない方が賢明であろうとブラッドは考えた。彼はピットを振り返ると、森林のように立ち並んでいるマストとスパー(円材)から距離を保った位置で町を背にして錨を下ろすように命じた。それから彼は代官との会話を再開した。
「ではご案内しましょう、ドン・ヒエロニモ」彼はそう言うとスカットル(小型昇降口)に向けて歩き出した。
短く狭い梯子を使って彼等は主甲板下の暗がりに降りたが、そこには開いているガンポート(砲門)から一条の光が射し込み、頭上の格子から来る光と交差していた。代官はその恐るべき大砲の列と、背後の両サイドに掛けられた今も数名の船員が休んでいるハンモックの列に沿って視線を走らせた。
その天井の低い場所で梁柱を避けて身をかがめながら、彼は長身の先導者の後に従い、巨漢ウォルヴァーストンに従われて船尾へと向かった。やがてブラッドは立ち止まると、奇妙な問いを投げる為に振り返った。
「つかぬことをお伺いしますが、大司教枢機卿ドン・イグナシオ・デ・ラ・フエンテ、新スペインの新たな首座大司教とお会いになった事は?」
「いや、まだだ。猊下は未だハバナに到着しておられん。だが、我々は猊下にお目にかかる名誉を日夜心待ちにしておる」
「それは貴方の考えておられるよりも早く実現するかもしれませんよ」
「とはいえ一日千秋の思いで待つ我々にとっては、今日明日のご到着であれ早いという事はなかろうがな。何だね、貴君は大司教枢機卿の航海旅行について何か知っておるのかね?」
しかしブラッドは既にまた船尾へ歩み出しており、その問いには答えなかった。
彼等はようやく二人のマスケッター(銃兵)によって見張られたワードルーム(士官室)の扉に着いた。近付くにつれて聞こえてきたくぐもった詠唱、それもグレゴリオ聖歌らしきものに代官は当惑していたが、彼等が立ち止まった今は低い単調な声で唱える祈言すら明瞭に聞き取れるようになった。
『ホステム・レペラス・ロンジウス
パチェムクェ・ドネス・プロティヌス
ドゥクトレ・シク・テ・プラエヴィオ
ヴィテムス・オムネ・ノクシウム
(敵を遠く防ぎ
我等に平安を与え
我等を導きて
総ての悪より逃れしめ給え)』
彼は眉をひそめるとブラッドをまじまじと見上げた。「ポル・ディオス!(神よ!)歌っているのは君の奴隷達なのか?」
「どうやら彼等は聖歌に慰めを見いだしているようだ」
何に対して、と言っても皆目見当もつかないが、ドン・ヒエロニモは疑わしいものの存在に感づいた。ここには何か尋常ならざるものが存在する。「妙に信心深い事だな?」彼は言った。
「確かに信心深いですね。妙な事ではありませんが」
合図に従って銃兵の一人が閂を外した扉をブラッドが広く開け放つと、詠唱の声は『サエクロルム』までで突然止んだ。その賛美歌はアーメンの唱和で締めくくられる事はなかった。
ブラッドは代官に対し厳かな身振りで入室を促した。この謎を解明しようとはやるドン・ヒエロニモは乱暴かつ足早に敷居を跨いだが、そこで突然に足を止めると、慄然のあまり飛び出さんばかりになった両目を凝らしていた。
ビルジ(汚水)とスパニヤン(紐索)の臭いが充満した広いが家具はまばらにしか置かれていないワードルーム(士官室)で、船尾窓から射す光によって、彼は聖ドミニコ修道会[^2]の白い毛織りの服と黒い外套をまとった十二名の人々を一眺した。二列に並んだ彼等は人体模型と見紛うばかりに声もなく身動きもせずに、ただ一人の無帽の者を例外として、全員が大きく開いた袖の中に手を隠してフードを被った頭をうつむかせていた。彼等は、離れた場所にある丈高い椅子に座す堂々とした人物に随従しているように見えた。四十歳前後と思われる長身で端正な顔をしたその男性は、頭頂から爪先までが緋色の炎であった。赤褐色に近い豊かな茶色の垂髪にあるはずのトンスラを覆い隠している緋色のスカルキャップ。絹の僧衣の首を飾る精緻なレースの襟。緋色の胸の上で鈍く光る黄金の十字架。彼は赤い手袋をはめており、右手の指には司教の蒼玉 [^3]がきらめいていた。その落ち着きと厳粛な態度によって、彼はほとんど超人的なまでの威厳を帯びていた。
彼の端正な双眸はあまりにも突然かつ不作法にこの場所へとよろめき入ってきた粗野な男をひたと見つめた。しかしそのまなざしの高遠なる落ち着きはいささかも乱される事はなかった。それは彼が、背後にいる酔漢のような赤ら顔をした無帽の修道士、剃刀でトンスラを剃る煩いとは無縁の赤みがかった天頂禿を茶と灰色の油染みた巻毛が冠のように取り巻いている男のような凡夫達に、人間的な熱情を全て任せているかのようだった。侵入者を検分する際の凄まじく険悪な表情によって、このブラザーが極めて人間的な存在である事は判断できた。
キャプテン・ブラッドは呆然としている代官を押しのけるようにして前方に進み出た。脱帽した彼は数歩前に進み出ると、代官をさし招く為に振り返った。
しかし彼が口を開く前に、卒中を起こしそうな勢いで怒り狂い息を切らせた代官は、一体全体これはどういう事なのかと問い詰めた。
その憤慨を前にしてもブラッドは笑みを浮かべ泰然としていた。「一目瞭然ではありませんか?貴方が驚かれるのは理解できますが。しかし我が奴隷は破格であると、事前に説明した事をお忘れでしょうか」
「奴隷?彼等が?」代官は窒息寸前のように見えた。「売りに出されていると?主の御名において、よくもこんな悪辣極まりない悪ふざけができるものだな!この罰あたりめ、貴様一体、何処の何者だ?」
「私はブラッドと呼ばれております、サー。キャプテン・ブラッド」そして彼はお辞儀をしながら付け加えた。「どうか、お見知り置きを」
「ブラッド!」黒い両目の在り処を見失いそうなまでに彼の顔面は真っ赤になっていた。「貴様がキャプテン・ブラッドなのか?貴様があの、地獄から這い出てきた魔性の海賊なのか?」
「スペインではそのように言われているようですが。しかしスペインには偏見があるのですよ。それはさておき、こちらにおいでください」再び彼を差し招いてからブラッドが発した言葉によって、代官が抱いていた最悪の疑念は現実である事が確認された。「ご紹介しましょう、こちらにおわすは、大司教枢機卿ドン・イグナシオ・デ・ラ・フエンテ猊下、新スペインの首座大司教であらせられる。猊下との対面は貴方の考えておられるよりも早く実現するであろう、と申し上げたはずだが」
「慈悲の神よ!」ほとばしるかのように代官は唱えた。
式部官のように堂々たる態度でブラッドは一歩進み出ると、枢機卿に向かって深々と頭を下げた。「猊下、畏れ多き事なれど、どうか哀れな罪人|の訪問をお許し下さい、こちらはハバナのアルカルデ(代官)」
ウォルヴァーストンはドン・ヒエロニモを豪腕で乱暴に前へ押しだすと同時に大声で叫んだ「跪かんか!猊下に祝福を賜るんだぞ」
高位聖職者の深く窪んだ冷静で計り難い目は、眼前で跪き怯えている役人をじっと見つめていた。
「猊下!」ドン・ヒエロニモは半ば涙ぐみながらあえぐように言った。「猊下!」
そのまなざしと同じく断固として深い、豊かな声が囁いた。「パクス・ティビ、フィリウス・メウス(汝に平和を、我が息子よ)」同時に枢機卿の指輪がはめられた尊い御手がゆったりと伸べられ、代官の接吻を許した。
口ごもりつつ「猊下!」と繰り返すと、代官はその手に視線を落とし、次に貪らんばかりの勢いで己の口元に運んだ。「何と恐ろしい!」彼はむせび泣くように言った。「主よ、何と恐ろしい!何と罰あたりな!」
限りなく深い思慮と限りなく深い哀れみ、そして気高さに満ちた微笑みが高位聖職者の端正な顔に浮かんだ。「この苦難は己自身の罪に対する贖いなのです。息子よ、感謝するのです、我々に与えられたこの試練を。どうやら我々は売り物のようです。私自身と、私に同伴して異端の捕獲者の手にかかり拘束されている気の毒なドミニコ会の兄弟達は。偉大なる使徒聖ペテロと聖パウロのお二人もまた、聖なるおつとめを成し遂げる過程において虜囚の身となられた事を思い、我々も不屈の精神を保ち得るよう主の恩寵に祈らねばなりません」
ドン・ヒエロニモが立ち上がる際の挙動がのろのろと無様なものだったのは、その肥満だけでなく強烈な感情ゆえにであった。「しかし、一体このような恐ろしい事態は如何なる次第で起こったのです?」彼はうめくように言った。
「私がこの貧しい盲目の異端者の手中に捕らわれた事を嘆く必要はありません、息子よ」
「その三つの単語中には三つの誤りが含まれておりますよ、猊下」というのがブラッドの論評だった。「過ちの何と容易き事かを御覧じよ、そしてその事を、先程下されたような拙速なる御判断に対する警鐘としていただければ幸い。私は貧しくはありません。私は盲目ではありません。私は異端者ではありません。私はマザー・チャーチの真実の息子です。そして私は猊下に対し心ならずも手荒いまねをいたしましたが、それは単に貴方をカトリック王と聖なる信仰の名の下に成された恐るべき過ちを正す為の人質とする為のみならず、猊下御自身の賢明さと信仰によって、その過った行為とそれを成した者に対してのお裁きを下していただきたいがゆえなのです」
無帽の赤ら顔をした小柄な修道士が前方へ身を乗り出し、テリアのように歯をむきだして発した三つの単語によって非難した。「ペロ・エレヘ・マルディト!(忌々しい異端の犬め!)」
直ちに枢機卿の手袋をした手が彼を咎め押し止める為に凛然と上げられた。「静まりなさい、フレイ・ドミンゴ(ドミンゴ修道士)!
「私の意味した処は魂の貧困です、肉身について言ったのではありません」彼は静かにブラッドに答えると、更に彼等の間に存在する大きな隔たりをより顕著に表わすかのように、二人称単数を用いて説教を続けた。「なんとなれば、その意味において汝は貧しく、そしてまた盲目であるのだから」彼は溜息をついた。そして更に断固として付け加えた。「汝が自らを真の教会の息子とみなしている事、それはこの非道な行いについての告白を聞く以前に心に描いていたよりも、遥かに恥ずべきものです」
「しばしの間はお裁きの保留を願います、猊下、私が真意の全てを明らかにするまでは」ブラッドはそう言ってから、開いている扉の方向に一、二歩進むと声を高めて呼びかけた。「キャプテン・ウォーカー!」
それに応えて、完全に憤激し攻撃的な様子の赤毛でがに股の小男が体を揺すぶりながら進み出て緋色の貴人に会釈すると、次に代官と対決する為に両手を腰に当て仁王立ちした。
「ご機嫌はどうだい、ドン・ラドリン(泥棒野郎)、また会えてうれしいぜ。こんなに早くまた俺のツラを拝めるなんざ考えてなかったろ、この人殺しの悪党が。アンタらも知ってンだろ、イングランドの船乗りは猫とおんなじくらいしぶといのさ。俺ぁ、あの皮の為に舞い戻ってきたんだ、この泥棒野郎。俺の皮と、テメェみてえな極道野郎のせいで沈んじまった俺の船の為によお」
この時の代官の苦脳と激怒、そして理解力の混乱に更なる何かを加える事ができたとすれば、キャプテン・ウォーカーの再登場がそれであったのは間違いない。顔を黄変させ頭のてっぺんから爪先までをも震わせて、彼は息を詰まらせ口をぱくぱくさせながら絶望的に返すべき言葉を捜して立ち尽くしていた。しかしキャプテン・ブラッドは彼に気を取り直す猶予を与えてはくれなかった。
「さて、ドン・ヒエロニモ、そろそろ貴方にも分かってきた頃と思うが」彼が言った。「我々が今ここにいるのは、盗まれたものを取り返す為、犯罪の補償の為だ。そして猊下こそが、その為の人質なのだよ。
「貴方とキャプテン・ジェネラル(司令官)がこの気の毒な船乗りから騙し取った皮を返せとは言わない。だが、件の皮がイングランドで売れたはずの金額を支払ってもらおう。8レアル銀貨で二万だ。それに加えて、司令官の命令によってグアルダ・コスタ(海岸警備船)が沈めた船と少なくとも同じ積載量の船を提供してもらう。二十門の大砲、その他備品全て、武器と長期の航海用食料も込みだ。時間の猶予は充分にある。それが成されたら、その時に猊下を上陸可能にする為の論議をしよう」
代官の顎には血がしたたり落ちていた。彼の歯が唇を噛んで出来た傷から流れ出たものであった。彼は抑えがたい怒りによって逆上していたものの、この海賊船は強力なハバナ要塞の大砲とスペイン海軍小艦隊の射程範囲内に厚かましくも錨を下ろしているが、新スペインの大司教が船内にいる以上、こちらは手も足も出せないのだという事を認識できぬまで盲目になってはいなかった。この船を拿捕せんとする襲撃には、命知らずの凶悪な海賊達によって枢機卿が害される危機が伴うだろう。どれほどの費用がかかろうとも猊下を救出しなければならない。それも、可能な限り迅速にだ。全ての状況を考慮すれば、あの海賊にはもっと過大な要求が可能であるにもかかわらずこの程度で済ませているのは、僥倖と言っても良いくらいなのだ。
彼は尊厳を保つべく努力して、背筋を伸ばし太鼓腹を突きだし従僕に命ずるがごとき態度でブラッドに話しかけた。「貴様と交渉するつもりはない。私は司令官に報告せねばならん」彼は最大級にへりくだった態度に改めると枢機卿の方を向いた。「退出をお許しください、猊下、そして御身がこの嘆かわしい拘束より可能な限り速やかに開放されましょうという我が言葉をご信頼ください。どうか退出のお許しを」彼は深々とお辞儀をして暇乞いをした。しかし枢機卿は彼に退出の許しを与えなかった。彼はそれまでのやり取りをしっかりと聞いていたのである。
「待ちなさい。待つのです。私には未だ理解できぬ事があります」当惑による皺が眉の間に寄っていた。「この者は返還について、補償について話しました。この者はそのような表現を用いる権利を有しているのですか?」
彼の問いに答えたのはブラッドだった。「私は猊下にそのご判断をお任せしたく存じます。先ほど私が言及した裁定というのがそれなのです。それをお伝えしたいが為に聖職にある御方に狼藉を働いてしまった点については、猊下に赦罪を請わねばなりますまいが」そこで彼は的を射た切れのよい表現で、立て板に水のごとくに法律上の申し立ての体でキャプテン・ウォーカーの蒙った被害についての概要を説明した。
ブラッドが語り終えた時、枢機卿は蔑むように彼を見てから、腹立たしげに代官の方に顔を向けた。彼の温和な声は憤慨によって熱を帯びていた。
「無論の事、これは作り話です。あり得ません。私はこのようなものに騙されませんよ。カトリック王より勿体なき御信任を戴いたカスティリャ人ともあろう者が、このような卑劣な罪を犯す事などあり得るはずもない。聞きましたね、アルカルデ(代官)、この心得違いも甚だしい海賊が、偽りの証人などを連れてまいる事によって自ら不滅の魂を危うくする様を」
冷や汗をかいている代官}の答えは、猊下が期待したほど即座には返されなかった。「何をためらっているのです?」驚いた様子で彼は身を乗り出して尋ねた。
必死のドン・ヒエロニモは、しどろもどろになりつつ語り始めた。「それは、その……ディオス・ミオ!(我が神よ!)今の話は甚だしく誇張されております。それは…」
「誇張!」温和な声は突然、そして急激に高められた。「誇張されていると?ではつまり、全くの作り事ではないというのですか?」
彼が受け取った唯一の返事は、代官の畏縮しうなだれた肩と高位聖職者の厳しい視線を当てられて不安げになった目つきであった。
椅子に深く背を沈めた大司教枢機卿の表情は計り知れぬものであり、その声には不気味な穏やさがあった。
「下がりなさい。ハバナの司令官には、我が許へ参るように要請を。私はこの件について更に多くを知る必要があります」
「キャ…キャプテン・ジェネラル(司令官)は安全な通行の保障を必要とするかもしれません」哀れな代官はどもりながら言った。
「認めましょう」キャプテン・ブラッドが言った。
「聞きましたか?私は彼の可能な限り早い到着を期待します」そしてサファイアの指輪がはめられた緋色の手を厳粛に振ってドン・ヒエロニモを追い払った。
最早気もくじけ、代官は深々と頭を下げると国王の御前から退出するかのように後ずさりで外に出た。
[^1]:スペイン王国の中核を成す、イベリア半島北部の旧カスティリャ伯領の辺り。
[^2]:カトリックの修道会のひとつ。清貧と学究を重んじる。中世異端審問の時代から異端問題に関して発言力を有していた為に、ドメニコ会から審問官に抜擢される者も多かった。国王諮問会議のひとつである異端審問最高会議でも重要な位置を占めていた。
[^3]:カトリック教会の高位聖職者は叙任の際に神との契約のシンボルである指輪を授与される。枢機卿の指輪はサファイア。信徒は跪いて指輪に接吻し神の権威に敬意を表するのが儀礼とされている。