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海賊ブラッド (9)叛逆流刑囚

 熱帯地方の紫色をした宵闇がカリブ海を包んだ刻、シンコ・ラガス号の守備をする為に残された者は十人以下であり、スペイン人達は島の完全制圧を――相応の根拠あっての事だが――露ほども疑っていなかった。筆者は先に、守備する為の十人と記したが、これは彼等の任務というよりも、彼等が船に残った名目と言う方が的確であろう。実の処、スペイン人の大半が陸上で飲み食いし蛮行に興じる間、スペイン船のガンナー(砲手)とガンクルー(砲側員)達――彼等は見事に役目を果たし、その日の大勝利は既に決まったも同然であった――はガンデッキ(砲塔甲板)上で、岸から運び込んだワインと新鮮な肉を楽しんでいた。上方には、ステム(船首)とスターン(船尾)に見張りが二名いるだけだった。彼等もまた同様に終始目を光らせていた訳ではなく、さもなければ、大型船の船尾に静かに接近する為にオール受けにしっかりと油を塗り、暗闇に紛れて埠頭から滑り出てきた二艘のウェリー(平底船)に気づいていた事だろう。

 ドン・ディエゴが陸に向かう際に使用したラダー(梯子)は未だ船尾展望台に掛かっていた。この展望台付近にやってきた船尾担当の水夫は、突如この梯子上に現れた黒い人影と対峙した。

「そこに誰がいるのか?」そう尋ねたが、同僚の誰かと思い込んでいた彼は警戒してはいなかった。

「俺だよ」静かに答えた流暢なカスティリャ語の主は、ピーター・ブラッドであった。

「ペドロ、お前か?」スペイン人は更に一歩近づいた。

「私の名も聖ペトロからとられているが、生憎、お前の知っているペドロとは別人だ」

「何っ?」見張り番は聞きとがめた。

「こういう事だ」それがブラッドの返答だった。

 木製のタフレール(船尾手摺)は低く、スペイン人は完全に不意を打たれた。カウンター(船尾突出部)の下で待機している満員のボートの一艘をかすめるようにして彼が水面に叩きつけられた際に発した水飛沫の音を除けば、そのスペイン人が遭遇した災難を周囲に告げる物音は一切なかった胴鎧、腿鎧、兜で武装していた男は装備もろとも沈んでゆき、二度と浮かんではこなかった。

「静かに!」ブラッドは待機中の囚人仲間を制止した。「さあ、今だ、音を立てるな」

 彼等が進入を開始してから五分も経たぬうちに、狭い船尾展望台からあふれ出た総勢二十名はクォーターデッキ(船尾甲板)上に身を伏せていた。前方に灯りが見えた。大きなランタンの下、彼等は船首にいるもう一人の見張りがフォアキャッスル(船首楼)をゆっくりと歩く黒いシルエットを見た。下からはガンデッキ(砲塔甲板)の馬鹿騒ぎが聞こえた。朗々とした男声は、品のないバラッドを合唱していた。

「イ・エストス・ソン・ロス・ウソス・デ・カスティリャ・イ・デ・レオン!(そしてこいつがカスティリャ・レオンの流儀さ!)」

「今日、目にしたものからすれば、その流儀は確かに事実なのだろうな」ブラッドはそう言い、次いでささやいた。「行くぞ――私に続け」

 低く屈んで滑るように動き、影のように音もなくクォーターデッキ(船尾甲板)の手摺に至ると、そこから忍び降りてウエスト(中部甲板)に潜入した。彼等の三分の二がマスケット銃で武装していたが、それらの銃は奴隷監督の家で発見したものか、逃亡計画に備えてブラッドが苦心の末にかき集め、秘匿していたものである。残りの者達はナイフやカットラス(舶刀)を装備していた。

 彼等はしばし中部甲板で待機し、その間にブラッド自ら、上の甲板には船首の厄介者以外に見張りはいないと確認した。彼等がまず注意すべきは、その見張りであった。ブラッドは二名の仲間と共に自ら忍び足で前進し、残りの者達は英国海軍での経験を考慮してナザニエル・ハグソープに指揮権をゆだねた。

 ブラッドの不在は短かった。彼が僚友の許に戻った時、スペイン人の見張りの姿は甲板上になかった。

 一方、下で飲み騒ぐ者達は、己の安全を疑う事なく油断し切って陽気に笑いさざめいていた。バルバドスの駐屯部隊は敗北し武装解除されており、そして彼等の仲間達は陸に上がって町を完全に掌握し、勝者の報酬としてたらふく飲み食いしていた。恐れるべきものなど一体どこにある?彼等の持ち場に乗り込まれ、そして自分達が二十人の荒々しく危険な、半裸の――彼等が白人であろうとは推察できはしたものの――野蛮人の大群としか見えない男達に囲まれているのに気づいた時でさえ、スペイン人達は自分の目を信じる事ができなかった。

 ひと握りの忘れられたプランテーション奴隷達が、あえて自らこのような大それた行動に出るなど、誰が想像できただろうか?

 半ば酔っていたスペイン人達は、突然笑いをやめ、歌を唇で凍りつかせて、自分達に照準が定められたマスケット銃を困惑しつつ呆然と見つめた。

 そして次に、彼等を取り囲んだ武骨な野蛮人の群れの中から、背が高く痩身、黄褐色の顔にライトブルーの目をした男が、その瞳に意地の悪いユーモアをきらめかせて進み出てきた。その男は訛りのない完璧なカスティリャ語で演説した。

「貴君等が率先して我々の囚人となり、率先して安全な場所に収まり大人しくしているならば、率先して苦痛と厄介に我が身をさらす事にはならないだろう」

「なんてこった!」砲手は毒づいたが、それは言葉にしようもないほどの驚きを表すには全く足りなかった。

「では、よろしいかな」とブラッドは尋ね、スペインの紳士達は一、二度マスケット銃で小突かれただけで、それ以上の抵抗もなく、直ちに昇降口から下の甲板へと降りる気になった。

 その後に、叛逆流刑囚はスペイン人達が食べていた佳肴を飲み食いした。何ヶ月もの間、塩漬けの魚とトウモロコシ団子だけしか口にしていなかった不幸な囚人達にとっては、キリスト教徒らしい食物を味わえるというだけで豪華な饗宴に等しかった。しかしそこに放縦はなかった。その為には断固とした態度が必要であったが、ブラッドは行き過ぎぬように気を配った。

 勝利の喜びに浮かれる前に、作戦は遅滞なく遂行されねばならない。この局面を突破する鍵の一つを手にしたとはいえ、所詮これは前哨戦に過ぎないのである。その鍵を使って最大の利を得るという仕事は、未だ片付いてはいなかった。その作戦計画にはこの重要な夜の大部分が費やされた。だが少なくとも、いささか驚くべき一日を照らす太陽がヒルベイ山の肩に顔をのぞかせる前には、彼等の準備はぬかりなく整っていた。

 肩にスペインのマスケット銃を担ぎ、スペインの胴鎧と兜を身に着けてクォーターデッキ(船尾甲板)を往復していた叛逆流刑囚がボートの接近を報せてきたのは、日の出が間近い時刻だった。そのボートにはドン・ディエゴ・デ・エスピノーサ・イ・バルデスが、夜明けにスティード総督から届けられた身代金、計二万五千枚の銀貨を納めた四つの大きな宝箱と共に搭乗していた。彼は息子のドン・エステバンと六人の漕ぎ手を伴っていた。

 フリゲート艦上は、全て平常通りに静かで整然としていた。錨を下ろし、左舷を岸に向け、そしてメインラダー(舷梯)は右舷側に。ドン・ディエゴと宝物箱を載せたボートは舷梯を目指して旋回した。ブラッドは作戦上の有効性を意図して配置を行っていた。彼がデ・ロイテル提督の下で学んだのは伊達ではなかった。回り込んでくるボートを待ち構えて、ウインドラス(巻き上げ機)には要員が配置されていた。下では――先に記したように――政治活動に熱中してモンマス公爵に従う前は英国海軍のガンナー(砲手)であったオーグルの指揮下で、一名のガンクルー(砲側員)が待機していた。オーグルは頑丈で信頼に値する決然とした男であり、任された事は必ずやり遂げる能力があった。

 ドン・ディエゴは梯子を登り、そして単身、何の疑念も抱かず甲板に足を踏み入れた。この哀れな男に、一体何を疑う事があっただろう?

 周囲を見渡して、彼を迎えに出てきた護衛を観察するより前に、ハグソープが手にしたキャプスタン・バー(車地棒)で手際良く加えた頭上からの軽打によって、余計な騒ぎを起こす間もなく彼は意識を失った。

 ドン・ディエゴは自分の船室に運び入れられ、その間に、ボートに残された男達の手によって宝箱が甲板に上げられていった。その作業が完了し、順々に梯子を上ってきたドン・エステバンとボートの残る乗員達は、同様に手際よく処理された。ピーター・ブラッドはこの手の策に関して天与の才があり、それは劇的な演出力を身に着けていると表現してもよいのではなかろうか。劇的、というより他にない光景が、この時、襲撃の生存者達の眼前で繰り広げられたものであった。

 ビショップ大佐と、その横で壁の残骸に座っている痛風のスティード総督を筆頭にした町の生存者達は、略奪、殺人、口にするもおぞましい暴虐の限りを尽くしていったスペインのごろつきどもを乗せた八艘のボートの出発を、陰鬱な面持ちで見送った。

 彼等は無慈悲な敵達が去って行く安堵と、この小さな植民地の繁栄と幸福を、一時的にであれ完膚なきまで破壊した猛威により陥った絶望との相半ばする思いで、それを傍観していた。

 笑い嘲るスペイン人達を載せたボートは岸を離れ、水面を走る間も、彼等は自らの蛮行から生き延びた者達に嘲弄を浴びせ続けた。ボートは埠頭と船の中間に至ったが、その時突然、空気が大砲の轟きによって震えた。

 ラウンドショット(鉄塊弾)が先頭のボートから一尋(183cm)の海面に着弾し、乗員達の頭上には、にわか雨が降り注いだ。彼等はオールを漕ぐ手を止めて、一瞬の間、驚きに静まり返った。それから彼等は爆発したように、口々に話し始めた。怒りのあまりの雄弁さで、彼等は母船のガンナー(砲手)に向かってこの危険な不注意を罵った。お前は実弾を装填したまま礼砲を撃つほど愚かなのかと。一発目よりも正確に照準を定められ、ボートの一艘を木っ端微塵にして乗員を生死問わず水中に叩き込んだ二発目が発射された瞬間も、彼等は未だ砲手を呪っていた。

 だが、この一艘を沈黙させた代わりに、残る七艘の乗員達は一層怒り、激し、当惑して饒舌になった。彼等が興奮のあまり立ち上がり、金切り声で悪態を吐き、大砲を撃ち込んだ狂人を告発しようと天国と地獄に請い願う間、オールを漕ぐ手は止まり、ボートは水上でただ浮かんでいるだけだった。

 彼等の中央に三発目が過たず撃ち込まれ、凄まじい威力で二艘目を破壊した。再び訪れた恐ろしい沈黙の一瞬の直後、スペイン人は皆が早口で話し始め、てんでんばらばらに慌てて漕ぎ始めたオールが水飛沫を上げた。何人かは、他の者達が真っ直ぐに母船に向かったのは誤りかもしれないと考えて、陸に上がる選択をした。船内で何か非常に重大な悶着が起っているのは疑いの余地がなく、彼等が論じ合い、腹を立て、呪いの言葉を吐く間にも、更に二発の弾が三艘目のボートを仕留める為に水上を飛来した。

 決然たるオーグルは卓越した実践によって砲術への精通を十全に証明して見せた。仰天したスペイン人達がボートを密集させてくれていたお陰で、彼の受け持つ作業は手間が省けた。

 第四打の後には、もはやスペイン人の間に意見の相違はなかった。それは全員一致で協定を結んだか、あるいは結ぼうとしたかのようであった。何故なら彼等が真に一丸となる前に、スペイン船のボートのうち更に二艘が沈められてしまったからである。

 水中でもがき苦しむ不運な仲間を捨て置いて、残る三艘のボートは全速力で埠頭を目指して引き返した。

 スペイン人達も事態を全く理解していなかったが、シンコ・ラガス号のメインマスト(大檣)からスペイン旗が降ろされて、その代わりに英国旗がはためくのを目にするまでは、陸上の哀れな島民達の理解はスペイン人に輪を掛けておぼつかぬものだった。尚も若干の混乱は続き、この異常事態のはけ口として島民に残虐性を向けられはしまいかと、彼等はスペイン人の帰還を恐れを込めて凝視していた。

 しかしオーグルは、己の砲術知識が昨日今日身に着けたものではない証拠を示し続けた。逃げるスペイン人達の背後から砲撃が浴びせられた。最後のボートは埠頭にたどり着いたのとほぼ同時に木っ端微塵にされ、その残骸は崩れた石材の下に埋もれていった。

 これが、ほんの十分前には、悪事の分け前として手に入れた銀貨を笑いながら数えていた海賊一味の最期だった。六十名近い生存者が懸命に上陸を試みた。そのスペイン人達が如何なる歓迎を受けたかについては、彼等の辿った運命を記した資料が残されていない為、ここで語る事はできない。記録の欠如は、それ自体が雄弁である。上陸した生存者が即座に縛り上げられた事は判っており、そして彼等の仕出かした蛮行を考慮すれば、彼等には命永らえたのを後悔する理由が山程あった事に疑いの余地はない。

 スペイン人に対する報復を行う為、そして島を守る代償に要求された銀貨十万枚という法外な身代金が奪い去られるのを防ぐ為に土壇場になって現れた救い手の正体は、依然として謎のままだった。今やシンコ・ラガス号がこちらの味方であるのは疑いの余地なく証明済みであった。しかしブリッジタウンの人々は互いに尋ね合った。あの船は何者の支配下にあるのだろう?一体、いつの間に制圧されたのだろう?唯一の現実的な仮定はかなり事実に近いものだった。勇敢な島民の一団が夜の間に忍び込み、船を奪ったに違いない。ならば、この謎の救済者達の正確な身元を確認して、大いに誉めてやらねばなるまい。

 この使いの為に、総督代理として――スティード総督の容態では自ら足を運ぶ事はできなかった――二人の士官を伴ったビショップ大佐が赴く事となった。

 梯子から帆船のウエスト(中部甲板)に踏み入った時、大佐はメインハッチ(昇降口)の横に置かれた四つの宝箱に気づいた。そのうち一つの中身は、ほぼ全てを彼自身が単独で提供していた。それは実に喜ばしい光景であり、それを眺める彼の目は輝いていた。

 彼が横断する甲板の両側には、胴には鎧、頭上には輝くスペインのモリオン(軍用兜)が顔に影を落とし、脇にはきちんとマスケット銃を携えた二十人の男達が、整然と二列に並んでいた。

 この背筋をぴしりと伸ばして輝く鎧を身に着けた、如何にも凛々しい立ち姿の正体が、つい昨日には彼のプランテーションで酷使されていた野晒しの案山子のような連中であるのを一目で見破れというのは、ビショップ大佐には無理な相談というものであった。そして彼を歓迎する為に進み出た礼儀正しい紳士――痩身の優雅な紳士であり、黒づくめに銀のレースをあしらったスペイン風の衣装のをまとい、金糸で刺繍をほどこされた幅広の剣帯から金柄の剣を下げ、綺麗に櫛を入れ入念にカールされた漆黒の巻き毛の上に羽飾り付きのつば広帽をかぶっていた――が誰であるかを見分けろというのは、輪をかけて無理な相談であった。

「シンコ・ラガス号へようこそ、親愛なる大佐殿」どことなく聞き覚えのある声が大佐に呼びかけた。「御使者をお迎えする栄に預かり、我々はスペイン人達の衣装部屋で体裁を整えました。よもや閣下が直々にお越しくださるとまでは期待しておりませんでしたが。閣下の周りにいるのは、貴方の友人達――なつかしき旧友達ですよ、全員」大佐は麻痺したように凝視した。この、全身を華麗に――本来の嗜好を加味して――飾り立て、入念に髭を剃り、同じく入念に髪を整えたブラッドは、はるかに若返って見えた。実際は彼の実年齢である三十三歳相応に見えたというだけなのだが。

「ピーター・ブラッド!」大佐は驚きのあまり思わず叫んだ。そしてすぐに合点がいった。「では、これはお前の仕業だったのか……?」

「私ですよ――私と、ここにいる我が良き友、そして貴方の友でもある者達です」ブラッドは手首から精巧なレースをひるがえし、直立姿勢で待機している男達の列に向け片手を振って示した。

 大佐は更に目を凝らした。「なんてこった!」彼は間の抜けた歓喜の叫びを上げた。「スペイン人に一泡吹かせて、あの犬どもの勝ち目をひっくり返したのは、お前達か!一発逆転じゃないか!ヒロイック(英雄的)な活躍だ!」

「ヒロイック(英雄詩)、ですか?おお、ビダッド(主よ)[註1]、これはエピック(叙事詩)ですよ!どうやら貴方も、我が非凡なる才の雄大と深遠なるを悟り始めたようですね」

 ビショップ大佐はハッチコーミング(倉口縁材)の上に座り、つば広帽を脱ぐと、額の汚れを拭った。

「まったく驚いたぞ!」彼はあえぐように言った。「まったく、たまげたものだ!宝箱を取り戻した上に、この素晴らしい船を積荷ごと拿捕するとはな!これで我々が被った損失の帳尻合わせができるかもしれん。なんてこった、貴様、大手柄だぞ」

「お説、まったくごもっとも」

「くそっ!お前達みんな大手柄だ。なんて奴等だ、わかるか、この私が恩に着てるんだぞ」

「それはそうでしょうね」ブラッドは言った。「問題は、我々がどれほどの報酬に値するのか、そして我々はどこまで貴方に期待できるのかという事です」

 ビショップ大佐は彼を見つめた。彼の顔には驚きの影が差していた。

「よかろう――総督閣下はお前の功績について、陛下に宛てて書状を送るだろう、そうすれば、恐らくお前に下された判決のいくらかは赦免されるはずだ」

「ジェームズ陛下の御寛容は有名だからな」側に控えていたナザニエル・ハグソープが冷笑し、そして整列していた叛逆流刑囚の中にも笑いだす者がいた。

 ビショップ大佐はぎくりとした。軽い胸騒ぎが、今や全身に広がる不安となっていた。この場にいる者達は皆、見せかけほどには友好的ではないのでは、という認識が彼の心に浮かんだ。

「そして、もう一つ問題がある」ブラッドは再び口を開いた。「私に予定されている鞭打ちの件が。このような事柄について、閣下は有言実行を旨としておられるはずだ。そして確か、このようにおっしゃっていたはずだ、大佐が自ら――さもなくば、他の者の手を借りてでも――私の背中に一寸の皮膚も残らぬようにしてみせると」

 大佐はこの問題を切り捨てた。半ば腹を立てているようであった。

「ええい!この大手柄の後で私がそんな事をすると、お前は本気で思っているのか?」

「そのように感じていただけるとは望外の喜び。しかしながら、私にとってスペイン人の襲来が今日ではなく昨日であったのは並みならぬ幸運であり、それが今日の出来事であったなら、私はジェレミー・ピットと同じ窮状に陥っていたに違いないと考えている。そしてその場合、あの見下げ果てたスペイン人どもに目に物見せてやった天才は、さて、いずこに在り也?」

「何故、今、そんな話をする?」

 ブラッドは話を再開した。「御理解いただきたい、親愛なる大佐殿。長の年月、邪悪で無慈悲な行いに専念してきた貴方にとって、これが教訓に、二度と忘れられぬ教訓になればいいのだが。――我々の後に続くかもしれない人々の為にね。ジェレミーは随分と派手な色の背中になって、今はラウンドハウス(後部船室)に運び込まれている。あの気の毒な若者は、一ヶ月は回復しないだろう。そしてスペイン人の来襲がなければ、恐らく今頃、彼は死んでいただろうし、私自身も彼と運命を共にしていたはずだ」

 ハグソープはゆっくりと前に進み出た。彼はかなり背が高く壮健な男であり、それだけで出自の良さがわかるような端正で魅力的な顔立ちをしていた。

「こんなハム用の去勢豚を相手に、何を言っても無駄なんじゃありませんか?」と、この元ロイヤル・ネイビー(英国海軍)士官は疑問を呈した。「船外に放り捨てて、終りにしてはどうです」

 大佐の目玉は飛び出しそうになった。「何を言っとるんだ?」彼は怒鳴った。

「貴方は実に幸運な人ですよ、大佐、貴方が御自分の幸運の理由を知る事はないでしょうが」

 そして更に、もう一人が口を挟んだ――屈強な隻眼のウォルヴァーストンは、もう一方の紳士的な囚人仲間ほどには慈悲深い性分ではなかった。

「ヤードアーム(桁端)から吊るしちまえ」そう叫んだ低い声は険悪で怒りを含んでおり、そして武器を構えて待機していた奴隷達のうち数名がその声に唱和した。

 ビショップ大佐は震え上がった。ブラッドは振り返った。彼は落ち着き払っていた。

「いいか、ウォルヴァーストン」彼は言った。「私は自分の流儀を通す。そういう約束だ。覚えておきたまえ」彼の視線は隊列の端から端へと動き、それがこの場にいる全員に向けた宣言である事を明確にした。「私はビショップ大佐を生かしたままでおく事を望む。理由の一つは人質として彼が必要であるからだ。もし諸君等が彼の首を吊る事をあくまでも要求するなら、諸君等は彼と一緒に私の首を吊るか、あるいは私が船から降りるかだ」

 彼はひと呼吸おいた。答えはなかった。しかし彼等はブラッドの前で、ばつの悪そうな、半ば反抗的な状態にあり、ハグソープのみが肩をすくめ、やれやれという調子で笑っていた。

 ブラッドは再び語りだした。「一隻の船に、一人のキャプテン(船長)。これを理解したまえ。そして」彼は驚愕している大佐に再び向き直った。「さて、私は貴方に生命の保障をするが、貴方には――お聞きの通り――この船に留まってもらう必要がある。我々が外海に出てしまうまでの間、スティード総督に、そして砦に未だ残っている兵達に、お行儀良くしていてもらう為の人質として」

「外海に……」戦慄のあまり、ビショップ大佐はその信じ難い宣告を最後まで繰り返す事はできなかった。

「如何にも左様」そう言うとピーター・ブラッドは、大佐に同伴していた士官達の方を向いた。「紳士諸君、君達をボートが待っている。私の話は聞いていたね。謹んで総督閣下にお伝えしてくれたまえ」

「しかし……」彼等の一人が反駁しようとした。

「紳士諸君、これ以上言うべき事はない。我が名はブラッド――キャプテン・ブラッド、船内に拘束中の我が捕虜、ドン・ディエゴ・デ・エスピノーサ・イ・バルデスより戦利品として接収した、このシンコ・ラガス号のキャプテンだ。私があのスペイン人達の更に上を行く逆転劇を演じたのは御理解いただけたと思う。ラダー(梯子)はあちらだ。舷側(げんそく)から落ちるよりも梯子を使った方が便利なのは一目瞭然だろう。ぐずぐずしていると、遠慮なく海に放り込むぞ」

 多少の押し合いはあったが、ビショップ大佐の怒声にもかかわらず、彼等は去っていった。大佐の激しい怒りは、このような連中、つまり彼等からは憎悪されてしかるべき理由があると自分でも承知している男達に、生殺与奪の権を握られてしまった恐怖に煽られたものであった。

 当面は身動きのとれないジェレミー・ピットとは別に、半ダースほどの乗組員が操船術に関する浅い知識を持っていた。ハグソープは元海軍士官であり、航法の訓練は受けていないものの操船に関する知識はあり、彼の指導の下で乗組員達は船を動かし始めた。

 要塞から干渉される事なく、彼等は錨を引き上げて、メインスル(大檣帆)を広げ、穏やかな微風をはらませた。

 彼等が湾の東にある岬の近くを航行し始めると、ピーター・ブラッドは監視下に置かれている大佐の許に戻った。狼狽した様子の彼は、再びメインハッチ(昇降口)の縁に力なく座り込んでいた。

「貴方は泳げますか、大佐?」

 ビショップ大佐は顔を上げた。彼の大きな顔は血色が悪く、その瞬間はひどく弛緩しているようであり、小さく丸い目は一層ビーズのように見えた。

「貴方の主治医として、私は貴方の気質に起因する過度の発熱を冷ます為に、水泳をお勧めする」ブラッドは愛想良く説明を始め、大佐の返答を待たずに話し続けた。「私が仲間達の一部と同じように血を欲する本能に動かされてはいないのは、貴方にとって不幸中の幸いだ。彼等には復讐を思いとどまるよう説得しなければならなかったが、それはこの上ない難事業だった。貴方にその骨折りに値するだけの価値があるかどうかは、甚だ疑問だが」

 彼は嘘をついていた。彼は疑問など微塵も抱いていなかった。もしもブラッドが己の願望と欲動に従っていたならば、彼は確実に大佐をロープで吊るし、そしてそれを称賛に値する行為と思ったであろう。アラベラ・ビショップの考え、それが彼に慈悲の実践をうながし、彼に対して反乱を起こされる危機に直面しながらも、他の奴隷達の至極当然な復讐心に抗うように導いたのであった。大佐がアラベラの叔父であるという事実は、当人にしてみれば想像だにしないであろうが、彼がブラッドに情けをかけられた理由の全てなのであった。

「貴方に水泳の機会をさしあげよう」ピーター・ブラッドは続けた。「向こうの岬まで4分の1マイルもない。格別の幸運に恵まれずとも、たどり着けるだろう。大丈夫、それだけ脂肪がついていればよく浮くはずだ。さあ!ぐずぐずするな。それとも我々と長い航海を共にするつもりか。このままでいれば、貴方の身に何が起るかは明白だ。貴方は一片の情けもかけるに値しない存在なのだから」

 ビショップ大佐は我を抑えて立ち上がった。これまでの人生を自制とは無縁に過ごしてきた無慈悲な暴君は、皮肉な運命によって、彼の感情が最も暴力的に激していた、まさにその瞬間に自制を強いられていた。

 ピーター・ブラッドは指示を出した。板がガンネル(舷縁)の上に渡され、固定された。

「では、大佐」そう言うと、彼は優雅な仰々しい身振りと共にうながした。

 大佐は彼を見たが、その視線には憎悪が込められていた。それから心を決めると表情を取り繕い、着替えを手伝う者が誰もいない為に、自分で靴とビスケット色のタフタ製の上等なコートを脱いで、板の上に登った。

 彼は一旦立ち止まり、ラットライン(段索)をきつく握って体を安定させると、約25フィートは下にある逆巻く緑の水を恐怖しつつ見下ろした。

「ちょいとした散歩ですよ、大佐ちゃん」背後から調子良く嘲るような声が聞こえた。

 板上で段索にすがったまま、ビショップ大佐はためらいつつ視線をめぐらせて、ブルワーク(舷牆)にずらりと並んだ浅黒い顔を見た。――昨日ならば、彼の不機嫌に反応して蒼白になっていたであろうその顔が、今は皆が皆、底意地の悪いにやにや笑いを浮かべていた。

 一瞬、激怒が恐怖を凌駕した。彼は毒々しく支離滅裂な呪いの言葉を吐き散らすと、段索を掴んだ手を放して板の上に歩み出た。彼がバランスを失って緑色の深い淵に落ちるまで、三歩だった。

 ビショップ大佐が空気を求めてあえぎながら再び水面に浮上した時、シンコ・ラガス号は既に数ファーロング(1ファーロング=201.168m)風下に移動していた。しかし叛逆流刑囚達が別れを告げる嘲り声の響きは水面を渡って彼まで届き、成す術もない怒りの銛を更に心深くまで打ち込んだ。


[註1]:bedadはby Godに同じ。アイルランドで使われる言い回し。

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Captain Blood本編の全訳に加え、時代背景の解説、ラファエル・サバチニ原作映画の紹介、短編集The Chronicles of Captain Blood より番外編「The lovestory of Jeremy Pitt ジェレミー・ピットの恋」を収録

1685年イングランド。アイルランド人医師ピーター・ブラッドは、叛乱に参加し負傷した患者を治療した責めを負い、自らも謀反の罪でバルバドス島…

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