病的な恋のロンド〈22話・最終話〉
22 爽、愛を捧ぐ。
結局、菫は勝ち逃げできなかった。
つまり、なんと蘇生した。あの状態からひとが蘇生するように見えなかったので、心電図が通常の波形を描き始めたときは、逆に何かのまちがいかと思った。ぽかんとする爽の横で、おなじようにぽかんとした日魚子が床にしゃがみこんで泣きだした。
――あれからひと月。
菫が入院する病院にひとり向かっていると、澄んだ花の香りが鼻をくすぐった。白梅だ。外気はまだつめたかったが、もう少しすれば立春である。ほどけたマフラーを巻き直して、爽は坂道をのぼる。
蘇生したといっても、菫はもともと余命いくばくもない身体である。病棟は移ったが、入院を続けている。退院することはたぶんないだろうと本人から聞いた。
ナースセンターで面会の手続きを取り、爽は菫の病室を訪ねる。
菫はちょうどベッドから半身を起こして、雑誌をめくっていた。爽にきづくと、「そうちゃん」と明るい笑みを咲かせる。菫の眸がなにかを探すように動いたのにめざとくきづき、「ひなは来ないぞ」と先に言った。
「あなたとはもう会いたくないって」
「そっか。だよね」
肩をすくめ、菫は爽に椅子をすすめた。
パジャマに萌黄色のカーディガンを着ている。化粧はしていないし、だいぶ痩せていたが、顔色は前に見たときよりもマシになっていた。爽は手に提げていた紙袋を菫に差し出す。
「ゼリー。食える?」
「食べる。気が利くじゃん」
ここに来る途中、洋菓子店で適当に見繕ったカップゼリーだ。
さくらんぼが入っているゼリーを手に取って、菫が蓋をひらく。スプーンでゼリーをすくおうとしてから、急に口元を押さえてわらいだした。
「なんだよ」
「いや、あのときはわたしもう死ぬなーって思ってたのに、今、そうちゃんとゼリーを食べてるとはね」
「俺もびっくりだよ。ひとって簡単に生き返るんだな」
「次は生き返らないよ」
くすっとわらった菫に、爽は瞬きをしたのち苦笑を返した。
「そう言ってまた生き返りそう。菫は」
「そのたびにひなの罵倒が聞けるなら、まんざらではないかな」
「それをひなに言うなよ。殺されるぞ」
「そうちゃんはわたしとひな、どっちの味方なの?」
小首を傾げつつ問いかけられ、「……ひな」とすこし考えたのち答える。
いつものように茶化してくるかと思ったが、菫は弓なりに目を細めただけだった。
「わたしさ、昔一度死のうとしたことがあるの」
菫の深みのあるかすれた声が、ぽつりと漏らした。
半身を起こした菫の向こうには、冬の青空がひろがっている。雲はなく、どこまでも澄みわたった青色だ。
「清文さんは世界でひとり、わたしの味方になってくれた。死んでどうするんだってなじって泣いたんだよ」
それはいつのことだろう。
育児であてどなく小舟で揺られている気分だったときのことなのか。あるいは不倫がバレて、ふたりで逃げ出したあの夜のことを言っているのか。深くは追求しなかったけれど、きれいごとだ、と今日の爽は思わなかった。
「そうちゃんはひなと一緒に生きてくれるんだね」
半分以上残したゼリーをサイドボードに置いて、菫が言った。視線を感じて振り返ったものの、菫は爽をもう見てはおらず、手元の雑誌をめくっていた。
「君らはね、わたしたちとぜんぜん似てない」
「……菫?」
「誰ともちがう道を、生きていくんだよ」
ページの角を折りたたみながら、「そうちゃんの持ってきたゼリー、まずかった」と菫は悪びれもせずに言った。もう絶対買ってこない、と爽は思った。
◇◆
――キスして。だきしめて。こわれない愛をちょうだい。
あのときなんでひとつも迷わなかったのか、実は爽もよくわかっていない。
いつもの爽だったらもっときづいていないふりをしたりとか、別の言い回しで断ったりとか、小細工を弄していた気がする。日魚子が大地と別れていて、別によいとでも思ったのか? 別れたといっても、ほんの数日前だ。いいのか、それで?
でもキスしたときは、そんなことをごちゃごちゃ考えてはいない。
乞われるような目で見つめられて、苛立った。わからせたかった。
おまえをずっとあいしているばかがここにいるのだということ。
「ひな」
最寄りのバス停がちかづいてきたので、爽は降車ボタンを押し、うとうとと眠っていた女の肩を揺すった。乗客がまばらなバスの車窓からは、凍てつくような青灰色の海が見える。
故郷の街に、爽と日魚子は戻ってきていた。このまえは半ば無理やり日魚子を連れ帰ったので、あらためて新幹線のチケットを取ったのだ。この時期はスタットレスタイヤに替えないと車道は走れないから、日魚子の軽自動車は置いてきた。
「もう着いたの?」
目をこすり、日魚子がわずかにかすれた声でつぶやく。ちょうどバスが止まったので、ふたりで車外に出る。
バス停は海沿いの県道にあり、爽と日魚子の実家はここからまっすぐ歩いたあと、横道に入るとたどりつける。白いダウンコートを着た日魚子が堤防のうえをブーツを鳴らしながら歩く。風はなく、めずらしく海は凪いでいた。空はやっぱり薄曇りで、今にも雪が降りだしそうだ。
「おかあさんとまた隠れてこそこそ会ってたでしょ」
日魚子が不機嫌そうにつぶやいた。
「隠れてはいないだろ」と日魚子のボストンバッグをのせたキャリーケースを引いて爽はこたえる。堤防の下を歩いている爽と日魚子は目の高さがちがう。
「なに話したの?」
「べつになにも」
「じゃあ、なに言われたの?」
日魚子の追求が面倒くさくて、爽は息を逃す。
そんなに気になるなら見舞いについてくればよいのに、日魚子は絶対にそうしない。でも、また菫が死にかけたら、臨終の際までなじり続けるのかもしれない。看護師と医者は出禁にしそうだが。
「――あのとき、言ったよな」
歩調にあわせて揺れる日魚子の毛先を眺めつつ、爽は口をひらいた。
「“キスして。だきしめて。こわれない愛をちょうだい”」
言葉に引かれたように日魚子が振り返る。
なかったことにもできたけれど、なかったことに爽はしなかった。
「あれ、どういう意味?」
顔をしかめ、日魚子は沈黙した。
「それを聞くかな」
「だって、おまえは逃げるから」
「逃げないよ」
ふいにまっすぐ返った言葉に爽は目をみはらせる。
潮風に髪を乱されながら、日魚子が爽を見つめていた。青灰色の海を背に、日魚子のダウンコートの裾が揺れている。
「だから、そうちゃんもわたしから逃げないで。わたしがすきなら、もうほかの誰ともキスはしないで。とくに土屋美波は絶対。約束してくれなきゃ、そちらにはいかない」
「……なんで土屋美波?」
「そうちゃんの彼女がいっぱいいすぎて、土屋さんしかわからないの」
日魚子が唇を尖らせるので、爽はばつがわるくなって口をつぐんだ。
日魚子の歴代彼氏なら、爽はだいたい知っている。クズとかクズとかクズで、ひとりだけまともだ。
「一生わたしだけをあいして。ぜんぶわたしとしかしないで」
「うん」
「嘘ついたらゆるさないから。裏切ったら殺すから」
「うん。日魚子」
堤防に波が打ち寄せている。くりかえし、くりかえし。
砕けて白い飛沫が海にかえる。
コンクリのふちにかがんだ日魚子に、爽は手を伸ばした。
「だから、こっちへ降りてこい」
瞬きをして、日魚子は足元を見た。
「ここ、結構高いんだけど」
「落とさないから」
「ほんとうに?」
「ほんとうだって」
爽が苦笑すると、日魚子はすこしわらった。
「――はい」
引かれるように互いを見つめ合う。
一秒。
芹澤日魚子は三秒で恋に落ちる。
二秒。
深木爽は三秒で恋に落とす。
さあ、目を閉じて、目をあけて。
堤防のふちを勢いよく足が蹴る。そして――
そして、三秒後に恋がはじまる。
Fin/【病的な恋のロンド】
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