病的な恋のロンド〈20話〉
20 爽、ダメ出しされる。
その街を選んだのは、できるだけ旧居から離れていて、かつ会社まで電車で三十分圏内の街のなかで、商店街にいちばん活気があったからだ。爽は可能なら八百屋で野菜を買いたいし、肉屋で肉を買いたい派である。安くておいしいからだ。
クリスマスを過ぎて年の瀬が近くなった最後の土曜日。
雑煮用の食材を買い終え、爽は近くの駅に向かう。
去年までは雑煮に加え、おせちも作って日魚子と食べていたが、さすがにひとりだと消費しきれない。あとおせちの各品は意外に手間がかかるので、自分のためだけに作るのは面倒くさかった。食材が入ったビニール袋をさげて、しばらく改札口で待っていると、
「爽!」
と女性にしては低めの声がすこし離れた場所から飛んだ。
改札からキャリーケースを引いて出てきたのは、冬用のダウンコートを着た透子《とおこ》と息子の翔太《しょうた》だ。東京ではいささか重装備のふたりは若干周りから浮いて見える。
「よー。元気にしてた?」
「変わんない。透子は?」
「元気、まじ元気」
「だろうな」
暴君な姉はあいかわらず明るい。
透子は翔太を連れて、年末から正月にかけて東京旅行に来ていた。高校のスクールカウンセラーをしている透子はこの時期、まとまった休みがとりやすく、また、母親が入居している施設が外向きには年末年始の休館に入って面会を受け付けなくなるためだ。母親への配慮なのか、普段は長い休みをとらない透子は、毎年冬休みには翔太を連れて長期旅行に出る。去年は沖縄だった。今年は東京にしたらしい。
「ほら、せっかくだし、あんたの新しい部屋に案内してよ」
「見て楽しむようなもんじゃないと思うけど」
「ぜんぜん期待してないから平気! あしたは遊園地だしね」
「そうちゃんも行く?」
尋ねた翔太に「行かない」と即答する。何が楽しくて、こんなクソ寒い時期に三十歳の姉と小学二年生の甥と遊園地に行かなくてはならないのか。
「ひなちゃんだったら、行くって言ってくれるのになー」
日魚子に懐いていた翔太は不満げである。
爽はキャリーケースを引き受ける代わりに、雑煮用の食材が入ったビニール袋を透子に渡す。
「ねー、ひなちゃんはこっちに引っ越さないの?」
爽のとなりに並ぶと、翔太はそわそわした風に訊いた。
翔太は父親似なのか、鋭利な美貌を持つ姉に比べると、目がくりっとしていて人懐っこそうな顔をしている。性格も自分たちと血がつながっているとは思えないほど屈託がない。
「なんで俺が引っ越すと、ひなまでついてくるんだよ」
「だって、ひなちゃんとそうちゃんはそういうものでしょ?」
そういうものってなんだ。
小学二年生の会話についていけず、爽は顔をしかめる。透子は数歩後ろからなんだか楽しそうに爽と翔太のやり取りを聞いている。親なんだからすこしは助け船を出せ。
大学進学と同時に七年間借りていたマンションの部屋を引き払って、三週間が経つ。
家具や電化製品はそのまま持っていけたし、さほど持ちものが多い人間でもなかったから、引っ越しして一週間ほどで生活は落ち着いた。
マンションを引っ越すこと自体はもともと、ずっと考えてはいた。日魚子が大地とつきあうようになってから、あるいは台風の晩のあとから、何度もそうしなくちゃと思っていた。それでもなんとなく踏ん切りがつかないままずるずる引き伸ばして――結局、年の終わりにようやくだ。
爽は日魚子に自分の気持ちを言ってしまったし、そうすれば元通りのふりなんてできるわけがない。日魚子と大地がよりを戻すかどうかはわからないけれど、日魚子のとなりにもう「幼馴染の爽」の居場所はない。
「そういえば、かあさんね、このあいだ、爽の話をしてたわよ」
部屋に着いた透子の感想は一言、「代わり映えしないわね」で、さっそくホットコーヒーを要求した。豆挽タイプのコーヒーメーカーも持っていたが、まだダンボールにしまったままだったので、インスタントで出す。翔太のぶんには牛乳を足した。翔太は猫じゃらし型のおもちゃで、きなこと遊んでいる。
「どうせ、ろくなこと言ってないだろ」
爽の女遊びがひどくなった高校生の頃から、爽と母親の折り合いは最悪になった。母親からすれば、父親にどんどん似てくる息子が、その顔で女をたぶらかしているのだから、我慢ならなかったのだろう。爽は次第に家によりつかなくなり、大学進学と同時に家を出た。
「んーん。爽はひなちゃんとお祭りにいってるから夕飯はいらないわよとか、そんな話。そういえばあんた、下駄の鼻緒が切れたひなちゃんをおんぶして帰ってきたことあったなあって懐かしくなっちゃった」
「よく覚えてるな、そんなこと」
「あんた、あの頃は今の翔太と変わらないくらい小さかったからさあ。ひなちゃんおんぶし続けるの大変だったろうに、平気だって、やせ我慢しちゃってかわいかったな」
透子はおみやげに持ってきたクッキーを自分で破いた。新潟らしくコシヒカリの米粉が入っているやつだ。勝手に爽のぶんと翔太のぶんを取り分けて、爽が出したコーヒーを飲む。
「あーインスタントだー」
「透子なんて、豆だろうがインスタントだろうがわからないだろ」
爽とちがって、透子は万事おおざっぱで、料理は食べられればいいかんじだし、掃除しても四隅は掃き残すし、待ち合わせ時間はいつも「だいたい」だ。とはいえ、こういう姉だから過去にあったあれこれも受け入れて、したたかに生きられるのだとも思う。爽と母親はそれがうまくなかった。なんでだろう。同じ家族なのに、爽と母親はうまくできなかったのだ。
「爽は、ひなちゃんとはもうこれでいいの?」
まずーい、とけちをつけながらコーヒーを飲んでいた姉がおもむろに訊いた。切れ長の眸を苦笑で細めている。
「うん」と爽は顎を引いた。
「あいつとはこれでおしまい」
「甘い」
間髪入れずに透子が言った。
「甘いなあ、我が弟は。二十年レベルのこじらせが、ちょっと引っ越したくらいで幕を引けると思っているとは。あんた、結構ばかだね?」
「どういう言い草だよ」
「やるなら、国外逃亡くらいやれって話」
「こっちにも仕事とかあるんだよ」
「そういうところがぬるいっつうの」
まああんたがばかなのは昔からか、と透子はわらう。
久々に会っても、まるで手加減がない。閉口して爽はすこし冷めたコーヒーを飲んだ。あんまりおいしくない。やっぱりコーヒー豆を買っておくんだった、透子ではなく自分のために。
「ひなちゃんのことなんだけどさ」
マグカップを置き、透子はふいに声のトーンを変えた。
めずらしく神妙そうな顔をしている。さっきまでの冷やかすような空気はない。
「なに?」と爽は尋ねた。
「ひなちゃんのおかあさんの――菫さん、覚えているでしょ? 知り合いに訊いたんだけど、菫さん、今、東京の病院に入院してるんだって。爽は聞いてた?」
「……いや」
知らない。
知らないが、そんな予感はしていた。
菫とは半年ほど前に一度だけ会った。そのとき、菫は病を患っているらしいことをほのめかしていた。あれから菫とは連絡を取っていない。ときどき思い出すことはあったけれど、爽から連絡を取るのもちがう気がして、放っておいていた。
「菫さん、かなり悪いらしいんだよね。ひなちゃんとはもうずっと連絡を取ってないのよね?」
「そう聞いてる」
そっかあ、と透子は複雑そうな面持ちで息をつく。
爽と透子からすれば、菫は父親が不倫した相手の女だ。憎いと思うほどの気持ちはないけれど、かといってわだかまりなく話せる相手でもない。
日魚子はずっと母親を憎んでいた。
幼い日魚子を裏切り、彼女が信じていた世界を壊した元凶ともいえる母親をずっと。
おかあさん、と日魚子は興奮してくると、時折舌足らずに母親を持ち出す。
――わたしの顔、おかあさんに似てる。それがこわくて、認めたくなくて、わたしはおかあさんみたいにはならないって……
このまま死に別れてあいつはいいのか?
「あの子と菫さんのことって、外野からはなかなかつつけないからさ。どう伝えるべきか悩んでたんだけど――」
「姉さん」
爽はかたわらに置いていたスマホを取った。
「菫が入院している病院ってどこ?」
◇◆
スマホ使用可能な病院の休憩室から、爽は日魚子の端末に電話をかける。
呼び出し音が何度か続いたあと、留守番サービスに接続した。きのうからそんなことを何度も繰り返している。すぐに着信を取る日魚子にはめずらしいことだ。
「あいつ、なにしてるんだよ……」
舌打ちをして、爽は電話を切った。
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