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病的な恋のロンド〈17話〉

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

17 日魚子、再び嘘をつく。


「日魚子」
 爽に呼ばれたとたん、とっちらかっていた思考が急にクリアになるのがわかった。
 あ、爽に触れたい、と思った。
 あんなにも厳重にくびきにかけていた理性がほどけて、大地に見られたらとか、今この瞬間に従業員がドアを開けたらとか、うずまいていた雑念がぜんぶどこかにいってしまう。クリアになった思考の隅で、べつの日魚子が言う。――でも、そうなったら爽は日魚子を捨てるよ? この一度きりで捨てられるよ? ほかの女たちとおなじように。
「いやだ」
 すっとあふれた涙が頬を伝い落ちた。爽が震えるように日魚子を見る。
 つまびらかになった欲とうらはらに、九歳のひなが心のなかで泣いている。いやだ。愛したひとはみんな、みんないなくなってしまった。そうちゃんも、いなくなっちゃうのは嫌。ひながしゃくりあげて駄々をこねる。どうしたらよいのか、どちらがほんとうの日魚子なのかわからなくなってくる。
 嗚咽をこぼしてしゃくりあげていると、ふいに手首をつかむ手がゆるんで、爽がそっと日魚子を抱きしめてきた。髪に手を差し入れて撫でるようにされる。幼い頃、ナナカマドの下で泣いている日魚子を抱きしめてくれたのとおなじように。
 その仕草で、ああ爽は日魚子ではなくてひなのほうを取り上げて抱きしめてくれたのだとわかった。うれしかった。でも、かなしかった。爽は二十五歳の日魚子を選んで、一緒にまちがえてはくれなかった。きっとこのままキスしてたら日魚子は後悔するのに、後悔して死にたくなるのに、選んでもらえなかったほうの日魚子が声を上げて泣きだした。

 結局、爽と日魚子が従業員に発見してもらえたのは、ゆうに数時間が経ってからのことだった。幼子でもあるまいし、二十五歳の男女が突然消えても、なかなか旅館中を探してはくれないらしい。見つかったのも、シーツと布団をしまいにきた従業員が偶然、扉をあけたからだ。
「日魚子!」
 女将さんにたくさん謝られて、ちょっと擦りむいただけの腕の傷に病院に行きますかと申し出られたのを丁重に断っていると、大地が息を弾ませて救護室に飛び込んできた。
「あっ、はじめさん」
 パイプ椅子に浅く腰掛けたまま、日魚子は大地を見上げる。
「ごめん。なんか物置に閉じ込められちゃったみたいで……」
「聞いた。けがはない?」
「うん」
 爽はすでに救護室を出ていた。
 パイプ椅子の前にかがんだ大地が日魚子の頬に手をあてる。
「深木と閉じ込められたんだって?」
「ええと、うん……」
 嘘を言ってもしかたがない。素直に顎を引くと、大地は「そう」とつぶやいた。
 それで爽のコーディガンを肩にかけたままだったことにきづく。脱いだほうがよかっただろうか? でも、それもへんに意識しているようで、いたたまれない。
「とりあえず、部屋に戻るか」
 差し出された大地の大きな手に自分の手を重ねる。
 大地の腕時計は午後九時を指していた。確か温泉に行ったときは夕方だったから、三時間くらい経っていたのか。大地に手を引かれ、部屋に戻る。
「ずっと探してくれてたんだよね?」
「うん。――って言いたいけど、実は土屋さんにちょっと引っ張られてた」
「土屋さん?」
「深木がいなくなったから、急遽彼氏役やってくれないかって言われて」
「彼氏役?」
「うーん、よくわからない。日魚子いないし、それどころじゃなかったんだけど、土屋さんすごい剣幕で、強引にご両親のまえに引きずりだされてた」
 美波と結婚するのか訊いたとき、するわけないだろ、と爽は切り捨てていたが、美波のほうは両親にどうしても「彼氏」を引き合わせる必要があったらしい。
 和室は座卓が置かれた畳敷きの部屋と、もう一部屋、二組の布団が敷かれた寝室がある。大地は湯沸かし器のスイッチを入れ、煎茶のティーバッグをあけた。沸かした湯を注ぐと、ふわりと茶葉の香りがひろがる。寝かせたティーバッグを引き上げ、「俺さ」と大地が口をひらいた。
「日魚子と深木がそろっていなくなったってわかったとき、もしかして俺、日魚子にふられたのかなって思った」
「そんなわけないじゃん……」
「うん。日魚子戻ってきたしな。――俺、この旅で日魚子にずっと訊きたかったことがあるんだ」
 茶器を日魚子のまえに置くと、座卓の向かいに大地が座る。
 唐突に、あっ逃げられないと思った。大地の双眸が日魚子をとらえている。
「前に俺が日魚子の部屋に泊まった夜さ、深木もあそこにいたよね」
 心臓がどくっと大きく鼓動を打つ。
 ちいさく息をのみ、日魚子は跳ねるように大地を見た。
「なんで……」
「あのとき、時計を日魚子の部屋に忘れただろ、俺。翌日返してもらったけど……ほんとうはすぐにきづいて、マンションに引き返したんだ。そうしたらエントランスに深木と……あと知らないおっさんがいた」
 おそらく森也だ。爽は森也を引きずって日魚子の部屋を出た。たぶんエントランスの外まで連れて行ったのだろう。まさか大地が目撃していたなんて。
「はじめ見間違いかと思った。でも、確かに深木だった。おっさんと別れて、深木はまたマンションに戻っていった。深木は日魚子の部屋に戻ったの?」
「……ちがう」
「じゃあ偶然? 偶然、おなじマンションに住んでた?」
 そう、ただの偶然。
 びっくりしたよね、わたしも知らなかった。
 大地が投げてくれるゆるやかなボールに乗っかりたくなる。でも、だめだ、とも思っている。大地はいつだって真正面から日魚子を見つめてくれる。当たり前にそれができるのは、大地に後ろ暗いところがないからだ。嘘がないから。日魚子とはちがう。だからこそ、日魚子のすこしの不誠実さにも大地はきづくだろう。
「日魚子」
 俯きがちになった日魚子を大地は静かに呼んだ。
「深木と日魚子はどういう関係なの?」
「――おさななじみ」
 口にしてみると、それは霧のように得体の知れない言葉だった。
「そうちゃんとは、同じ街で生まれた幼馴染なの」
「そう」
 大地は軽く顎を引いた。
「それは俺に言えないようなことなの?」
 咎めるわけでもなく、ただふしぎそうに訊く。
 どうして言えないの?
 隠すような後ろめたいことなの?
 ちがう、と日魚子は否定できない。
「日魚子。夏休みに俺におみやげ買ってきてくれたよな。新潟の実家に帰ったって。深木も確か実家は新潟だった。あれは日魚子、ひとりで帰ったの?」
 ちがう。新潟には爽と帰った。
 日魚子の車で、交互に運転してふたりで帰った。
 でも誰にも言えなかった。住んでいる街の名前も嘘をついた。
「もうひとつ。前に日魚子の友だちが風邪ひいて、出かけた途中で帰ったことがあっただろ。そういえば、深木もその週明けに風邪で一日休んでた。あのときは、夏風邪が流行ってるのかなくらいにしか思わなかったけど……。日魚子が心配して向かったのは、深木の部屋?」
 ちがわない。
 どれもちがわない。爽だ。日魚子が向かったのは爽の部屋だ。
 そして爽とキスをした。さっきだって、爽が抱きしめてくれなかったら、日魚子は爽とキスしてた。もしかしたらそれ以上のこともしていたかもしれない。大地とつきあっているのに、あの一瞬、じりじりと熱で脳が焼かれて、ぜんぶどうでもいいって思った。うっかりじゃない。流されたわけでもない。日魚子が自分の意志で爽に飛び込もうとしたのだ。……なんだこれ。なんだこれは。おかあさんとおなじ。おなじだ。わたしは自らの手で大地との愛を壊した。
 黙りこくってしまった日魚子に、大地は息をつく。
「日魚子は深木ともつきあってるの?」
「ちがう」
「じゃあ、深木がすき?」
「ちがう……」
 泣きだしそうになって日魚子は声をしぼりだす。
「すきじゃない。なんとも思ってない」
 噓、ぜんぶ嘘。
「そうちゃんはただ、家同士がとなりだっただけ」
「……嘘」
 かなしそうに大地が言った。
「日魚子、俺は話がしたいんだ。嘘ついてほしいわけじゃない」
「うそじゃない、うそじゃないもん!」
 こわい。みとめたくない。
 こんな、おかあさんと爽のおとうさんとおなじこと。
「うそじゃない……」
「やめよう、日魚子」
 繰り言を連ねる日魚子に首を振り、大地は立ち上がった。
 話を打ち切られたのだとわかった。

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