病的な恋のロンド〈21話〉
21 日魚子、愛を乞う。
トンネルを抜けると、一段空の色が重く変わった。
冬の新潟の空の色はいつもこうだ。灰色がかっていて、きづけば、ちらほらと雪が降ったりやんだりする。日魚子が生まれ育った街は海沿いにある。潮のにおいと雪のにおい。灰色の空とおなじ色の海と、まっしろな雪。子どもの頃を思い出すと、いつもその景色が脳裏にひろがる。
日魚子は新潟行の夜行バスに乗っていた。
時期柄、周囲には帰省客が多い。カラフルな大小のキャリーケースがバスのトランクルームにしまわれている中、日魚子はひとりショルダーバッグの軽装だ。勢いで乗ってしまったので、宿泊するホテルは押さえていなかった。透子のほかに故郷に家に泊めてくれるような親しい知り合いはいない。この時期は透子も翔太と長期旅行で家を空けることを知っていた。
クリスマスを過ぎ、会社が仕事納めに入る前の日に日魚子は大地と別れ話をした。
呼び出したのは日魚子だ。大地の仕事が終わるのを待って、近くのカフェテリアに入った。日魚子はホットレモンティーで大地はカフェオレ。ミルクをたっぷり入れたカフェオレが大地がすきなことを日魚子は知っている。
「カフェオレ、砂糖もたっぷり?」
「うん」
シュガーポットを差し出した日魚子に「ありがとう」と言って、大地は角砂糖をカップに放り込む。白と茶の角砂糖がカフェオレに沈んでいく。
「俺たち、別れる?」
会話の延長のように訊かれて、日魚子は顔を上げた。
「……うん」
「後悔はありませんか」
砂糖を溶かしたカフェオレを手に持ち、大地が尋ねる。
口をひらきかけて、日魚子は首を振った。
「ありまくりだよ……」
「ありまくりなんだ?」
「あなたを傷つけた」
泥を吐くようにつぶやくと、大地は瞬きをした。
砂糖はまだ溶けきっていなかったらしい。スプーンでくるくるとかき回し、俯いた日魚子に目を向ける。もっと責めるような目をしていると思ったのに、存外眼差しはやさしい。
「もう一度訊くけど。日魚子は深木がすきなの?」
「わからない……」
この期に及んでまだわからない。大地と別れて、爽と恋人になりたいのかと言われると、そんな単純なものではない気がしてしまう。問題はもっと根深く、日魚子の内側にある。目をそむけてきたこと、なかったことにしてきたこと。
「俺、日魚子が男のヒキがわるい理由、わかるよ」
おもむろに大地がつぶやいた。
「え?」と尋ねた日魚子に、はじめて意地わるくわらう。
「はじめから決まってるのに、別のところをぐるぐる回っているから、ちがうものばかりを引いちゃうんだよ」
いつの間にか窓に頭を預けて、すこし眠っていた。
終点が近い。カーテンを開けると、見慣れた曇天と灰色の海がひろがっていた。朝なのに、なんのすがすがしさもなく昏い。
大地と別れたあと、ひとり電飾が灯る街を歩きながら、家に帰ろう、と思い立った。家というのは東京で七年間暮らしたマンションの一室ではない。新潟にある、日魚子が生まれ育った家のことだ。
ずっと気になっていた。爽が引っ越した晩、美波と言い合っていて思い出した、九歳のひなのこと。あの子は今も、ナナカマドの下で身体を丸めて誰かを待っているんじゃないか。わたしはあの子が訴える言葉を聞かなくてはならないのではないか。
終着駅でバスを降りると、タクシーを呼んで昔住んでいた家の住所を告げる。
東京から一転、雪深くなった道を三十分ほど走ると、深木家の見慣れた屋根が見えてきた。車を止めて、料金を支払う。車外に出ると、雪がまたちらほらと降りはじめた。深木家は昼から雨戸が閉められていて人気がない。やはり透子と翔太は旅行に出ているのだろう。
固い根雪のうえに積もった新雪を踏み、日魚子はかつて芹澤家があった空き地を見つめた。高校卒業後、日魚子が家を出てから、菫は家を取り壊して、職場が近い別の街に移り住んだ。もう七年も前のことになる。ただ、土地の権利は手放してなかったらしい。がらんとした空き地はまだ芹澤家の持ちものだ。
敷地内に生えていたナナカマドの樹は、抜かれずに残っていた。
あの頃は、頭上を覆うように大きく見えたのに、大人になってあらためて見ると、ひょろりとして頼りない。細い枝に雪がのっている。日魚子は木の根元にかがんで、天蓋のように伸びた枝越しに空を仰いだ。
すこしおかしくなってくる。何しているんだろう、わたし。ここに来たら九歳のひなに会える気がしていたのに、七年ぶりに訪れた芹澤家はただまっさらなだけの空き地で、なにも感じない。はじめはコートが濡れるのをおそれてかがんでいたけれど、どうせ安物のダウンだし、とどうでもよくなって雪のうえに寝転がる。
雪に接した背中がつめたい。疲れたなって思う。なんだかすごく疲れた。
爽が去り、大地とは別れた。みんないろんなことを言っていた。うるさい。でも大事なことも言っていたと思う。考えたい。考えるのが面倒くさい。死にたい。でも、たぶん死ねない。
ひなは嫌なことがあると、よくこのナナカマドの下で泣いていた。
父親は生まれてすぐに事故で死んだ。母親は安月給の事務員や内職をいくつか掛け持ちして日魚子を育ててくれた。からりと明るい母親は、データ入力と掃除は得意だけど、料理は苦手で、朝ごはんのトーストはよく焦げた。焦げた部分を隠すようにバターとジャムをたっぷり塗って出してくる。適当なのだ。あの適当さを、幼い日魚子はゆるし、あいした。ほかにもたくさんのことを。母もまた日魚子をゆるし、あいしたように、ふたりきりの世界でゆるしあいながら生きてきた。
でも唯一、あのことだけはゆるせなかったのだ。
目を閉じて、日魚子はこの場所でぐすぐす泣いているひなのことを思い出す。
日魚子の母親と爽の父親の不倫は、そう長いことは続かず、日魚子たちにも露見した。きっかけは、爽が日魚子を探して芹澤家の寝室のドアを開けたことだった。情事はそこで行われていたらしい。偶然、日魚子は友だちと遊んでいていなかったから、細かいことはよくわからない。
何も知らずに帰宅すると、あろうことか菫と清文は連れ立って消えていた。爽の母親が狂乱気味に何かを叫んで、中学生の透子が「落ち着いて」と母親の背をさすっている。爽はふたりからは離れた場所にぽつねんと立っていた。
――不倫。失踪。警察に届け出。
爽の母親と透子が口早に聞き慣れない言葉を言い合っている。わかる言葉とわからない言葉があった。「不倫」はわかった。ドラマに出てきたことがあるから。
でもなによりも、日魚子はあのとき母親に捨てられた、と思った。
捨てられた。わたし、おかあさんに捨てられた。
おかあさんはそうちゃんのおとうさんとどこかに行ってしまった。
蒼白になり、膝ががくがくと震えだす。
戸口で震えている日魚子にきづいた透子が「ひなちゃん」と呼んだ。
――大丈夫だから、こっちにおいで。
ふるりと首を振り、日魚子はその場から逃げ出した。
こわかった、あのとき。世界が壊れて、自分がばらばらになってしまうんじゃないかっていうくらい不安だった。
物心ついた頃から、日魚子と菫はふたりきりの家族だった。幼い日魚子にとって、菫は世界のほとんどすべてだったのだ。その母が日魚子を置いて爽の父親とどこかへ逃げたという。このまま、おかあさんが帰ってこなかったら。帰ってこなかったら、わたしどうなってしまうんだろう。頭がじんと痛んで、こわくて、なにも考えられなくなる。
菫と清文は結局、朝には帰ってきた。どこかに逃げようとしたのかもしれないけれど、途中で我に返ったのか、あるいは逃げる場所自体が見つからなかったのか、とぼとぼと死人のような足取りで帰ってきた。でも、どうしてゆるすことができるだろう? 日魚子の世界を壊し、これほどの恐怖を与えた相手を。
――ひな。ひなこ。
深木家から飛び出したあと、ナナカマドの下に隠れて震えていると、探しにきたらしい男の子が顔を出した。膝を抱えて泣いている日魚子にきづいて、何も言わずにとなりにくっつくように座る。爽の頬は透明で、涙の痕はなかった。伸ばした手が爽の頬にあたる。どちらもつめたい。さむい、とつぶやくと、爽は驚いた風に瞬きをしたあと、ふいに泣きだしそうな表情をして、日魚子を抱きしめた。慰めるような言葉を爽は口にしなかった。きっと自分も傷ついているのに、ただ黙って、日魚子を守ろうとしてくれたあの細い両腕。
あの子のことが日魚子はすきだった。
きづいたときには当たり前のようにそばにいて、何をするでも一緒で、おかあさん以外でいちばん、日魚子はあの子のことがすきだった。だからこそ、こわい。おかあさんに捨てられて、爽に捨てられたら、日魚子はもうあとがない。爽をあいして、爽に裏切られたら、今度こそ死んでしまう。だから、あの子のことだけはとくべつにしてはいけない。これ以上、すきになってはいけないの。
あの日、爽が抱きしめてくれるあいだ、日魚子はまだちゃんとかたちになっていなかった恋を埋めていった。雪のなかに。ずっとずっと深く、根雪で固めて見えなくなるところまで。
そうしなければ、とても生きられないと思ったのだ。
さらさらと雪が落ちる音がして、日魚子は目をひらく。
記憶のなかの男の子が、十七年ぶんを経たすがたで目の前に立っていた。見覚えのあるチャコールグレーのチェスターコートに黒のニット。肩で息をついた爽は、寝転がっている日魚子の腕をつかんで引きずり起こし、「何をやってるんだよ!」と怒声を浴びせた。髪に雪をくっつけたまま、日魚子は瞬きを繰り返す。
「あれ、そうちゃ……。え?」
「家にもいない。携帯もつながらない。現代人かよおまえは。大地に訊いたら、数日前に別れたっていうから、またおかしなことをするんじゃないかって――」
「おかしなこと?」
訊き返した日魚子に、爽がばつが悪そうに視線をそらす。
もしかして日魚子がやけを起こして死ぬとでも思ったのだろうか。
死にたいとはちょっと思っていたけれど、べつに死なない。ロープも練炭もカッターも持ってきていない。これまでも何度か死にたいと思ったことはあるけど、死んでないし、そういう自分を知っている。そのたびに爽がたすけるからかもしれないけれど。
腕をつかんだまま息をつく爽を、日魚子はぼんやりと見つめる。
「東京からわたしを探しにきたの?」
「そうだよ」
「よくここだってわかったね……」
「おまえが行く場所なんか、あとはここくらいだろ」
当たり前のように言い、爽は日魚子をつかむ手をゆるめた。
爽の表情がなんだかいつもとちがう。日魚子を心配して探しにきたのかもしれないけど、でもそれだけじゃない。どうして爽はまだそんなに張り詰めた顔をしているのだろう。
「日魚子」と爽が目を上げた。
「落ち着いて聞けよ」
「……なに?」
「菫が死にそう。すぐ東京に帰るぞ」
日魚子はきょとんと目を瞬かせた。
え、とつぶやいたあと、口から乾いた笑いがこぼれる。
「なに……おかあさん? え、死にそうって、なに?」
「菫、ずっと身体を壊してたんだ。ひなには言わなかったけど」
「は?」
驚くよりもまえに、なにそれ、と思った。
なにそれ。身体を壊して、いま危篤?
なんだそれ。なんだそれは。
「わたし、帰らない」
身をよじり、日魚子は首を振った。
「おかあさんには会わない」
「日魚子」
「会わない。そうちゃんだっておとうさんと最後まで会わなかったでしょ!?」
なんで爽が母親と会っているのかずっとふしぎだった。
女なんかいくらでもとっかえひっかえして捨てるくせに、どうして菫は見限れずにいるのか。わかってしまった。爽の、どうしようもない弱さ。病身の人間を突き放せるほど、この男は非情になれない。
「それとも、おかあさんがわたしに会いたいって言ったの?」
「言ってないよ」
爽は静かに言った。
「言ってない。菫はなにも言ってない」
「じゃあ、会わない」
「……どうしても?」
「会わない、会いたくないよ。……なんなの? いまさら、家族がどうとか、死に目くらいとか言うの? そうちゃんがわたしにそれを言うの?」
心臓がどくどくと激しく打ち鳴っている。
手が震えている。ああわたし、動揺している、と悟る。
わたし、動揺して、そうちゃんに八つ当たりしている。
――こわい。
さっきまで思い返していた感情が雪崩のようにぶり返す。
こわい。おかあさんが、いなくなる。
いなくなる。わたしが憎んだひとが、だいきらいなひとが。
去っていく。
「日魚子」
震える指先を握り込んだ日魚子と目を合わせるように爽がかがんだ。
「生きているうちに話したほうがいいとか俺はぜんぜん思わなかったし、言わない。でもおまえ、菫の顔をちゃんと一度、見ろ。じゃないと、この先もずっと――」
「いやだ」
子どものように日魚子はかぶりを振る。
「いやだ。帰りたくない。そうちゃんの言っていることがむずかしくてよくわからない。もっと簡単な言い方をして。何を言っているのかわかんないよ」
「わかってるだろ。ばかなふりするな」
「帰りたくない。いやなの!」
こわい。
おかあさんがいなくなるなんて思ってなかった。
あのひと、もっとずっとしぶとく長生きするんだと思ってた。ずっと憎んでいられると。そういう風にわたしの胸を黒く焦がして存在し続けるんだと。
いつしか両目からあふれた涙が頬を伝っていた。
爽の手が日魚子の頬に触れる。冷えきっているのにあたたかい。
むずがるように日魚子はまた一度かぶりを振った。
「いやだって言ってるでしょ……!」
爽の手を振り払って逃げようとする。ずるりと慣れていない足が雪で滑った。日魚子の腕をつかもうとした爽も巻き込んで雪上に転がる。それでももがいて逃げようとする日魚子を爽が後ろから抱きとめる。
「わかったから」
「いや! はなして! いや!!」
「離したらおまえ逃げるだろ」
身体に回された爽の腕を引きはがそうとして、できなくて、やだやだともがく。
おかあさんの手下みたいなふるまいをする爽に腹が立っていた。どうしてわたしがいやがることをするの。聞きたくないことを言うの。子どもの癇癪みたいな気持ちが押し寄せる。
「日魚子」
いつの間にかぎゅっと瞑っていた目をひらく。
爽と視線がかちあった。
吸い込まれそうにまっすぐ見つめられて、きづけば口をひらいている。
「じゃあキスして」
せきららな言葉で愛を乞う。
「だきしめて」
みなまで言えずに日魚子は泣きだした。
「こわれない愛をちょうだい」
爽はひとつも迷わなかった。
息を吐くまえに唇を塞がれていた。ずっと外にいたせいで、爽の唇がつめたい。擦るように触れ合わせて唇を食まれ、微かにひらくと舌が絡む。熱源に触れたように肩が跳ねる。腰に回された腕が身体を離してくれない。涙がぽろぽろとこぼれる。しゃくり上げ、日魚子は爽の背に手を回した。
「こわい」
それは身体が痛いとか、キスをするのがいやだとか、そういう意味ではなかった。
こわい。こわいのだ。
愛を乞うて、愛を返されるのが。
日魚子がまた泣きだすと、爽はふいに丁寧にくちづけてきた。
灰色の雲のあいまからひかりが射している。雪に反射したひかりが目のなかに飛び込んでくる。はかなく、けれど思いのほかまぶしい。焼かれそうだ、と思って泣き濡れた目を閉じた。
◇◆
東京へは新幹線で戻った。
東京駅に着くなり、タクシーを飛ばして直接病院に向かう。
新潟とちがって、東京は快晴だった。病院がちかづくにつれ、決めたはずの心がぐらついて逃げ出したくなってくる。わかっているのか、爽はずっと日魚子の手を握っていた。爽の手は大きくて、一度つかまれると日魚子は逃げられなくなってしまう。
「……やっぱり嫌」
タクシーから降りたとたん、我慢しきれなくなって日魚子はつぶやいた。
「期待しても無駄だよ。わたし、おかあさんのことゆるしたりしないよ」
「いいよなんでも。俺には関係ないし」
関係ないし、というわりに爽ははるばる新潟まで日魚子を探しにやってきたわけである。黙りこくった日魚子の手を引き、爽は病院の入館手続きを済ませた。看護師らしき女性が足早にこちらにちかづき、「芹澤日魚子さんですか?」と尋ねる。
そうです、と答える日魚子の声は消え入りそうだった。
薬臭が鼻をかすめる。ほとんど爽に引きずられるようにして廊下を進み、病室の扉をひらくと、寝台にチューブにつながれて横たわるひとりの女性が見えた。一瞬、だれ?と思った。
「菫さん、お嬢さんがいらっしゃいましたよ」
看護師の呼びかけで、そこに横たわるのが母だときづく。
痩せている。顔色がわるいを通り越して白っぽくて、ださいパジャマを着ていて、ぜんぜん日魚子が知る母親じゃない。呼吸器はつけていないが、脈拍の測定器が横に置いてあった。薄く目をあけた母に心臓がどくんと脈打ち、「来てないです」と日魚子は思わず言っていた。
「おかあさんのために来たわけじゃない。そうちゃんが行けっていうから、いやなのに、行けってうるさいから来ただけで、わたしが来たくて来たわけじゃない」
いきなり子どものような駄々をこねはじめた日魚子に、たぶん日魚子とそう歳が変わらない看護師は困惑気味の顔をした。「ええと」と口ごもった看護師に、「大丈夫なんで」と爽が先回りして言う。何が大丈夫なのか。ぜんぜん大丈夫じゃない。こんな――会いたくなかった。会いたくなかった、母になんて。
「おかあさん、いつも逃げるよね」
低い声で吐き捨て、日魚子は菫を見下ろした。
「死んで勝ち逃げできると思わないで」
薄くあいた眸がうっすらうるんでいる。眸にのった感情はわからない。あおじろい唇がわずかに動くが、言葉は出てこない。それくらい弱っているのか。どうだっていいし、かわいそうだとも思わない。あの日、清文と逃げようとしたあとも――このひとは一度だって日魚子に謝らなかった。心を閉ざした日魚子の顔色をおどおどとうかがい、あいまいに微笑んだり、目を伏せたりしていただけ。後ろめたかったから? ちがう、自分を守っていつも日魚子から逃げていただけ!
「あなたがしたこと、わたしぜったいゆるさない。ずっとあなたがきらいだし、この先もそれは変わらないから。気持ちよく、さよならとかしないから」
一度口を開くと、泥のような感情が止まらなくなった。看護師が戸惑った顔で、なじり続ける日魚子を見ている。頬を伝った涙を乱雑に拭って、「勝手に寝るなよ、ばか」と眸を閉じかけた母を罵る。そばにあった機械がけたたましく鳴りはじめた。なんなの、うるさい。看護師が足早に病室から去っていく。先生を呼ぶ声が聞こえる。
「こっちはもっと言いたいことあるんだよ。いくらだってあなたのことなじれるんだよ。ねえ」
ねえ、おかあさん。ねえ。
「もっとわたしのはなしを聞いて!!」
肩を揺らそうと伸ばした手を爽がつかむ。
なんで邪魔するの。文句を言おうとした日魚子を爽が引きずって、代わりに医師が母の処置をはじめる。寝台のうえで母は力なく目を瞑っている。じゃあ途中から聞いてなかったのか。なんなの。いったいなんなの。唇を噛んで、「ずるい!」と日魚子は叫んだ。
「ずるい! おかあさんずるい! ずるいよ!」
並んだ機械が甲高いアラーム音を発している。なに。なにが鳴っているの。これが鳴り終わったら、おかあさん死ぬの? もう死んだの? 息。息が切れる音がする。やめて。音止まらないで。けたたましいアラーム音に負けじと日魚子は叫んだ。
「ずるいよう……っ!!」
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