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病的な恋のロンド〈16話〉

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

 16 爽、天秤にかける。


「そうちゃん」
 ニットに大きく白と紺のストライプが入ったフレアスカートをあわせた日魚子は、いつも使っているキャリーケースを前に置いて、ぽかんとした顔で爽を見ている。爽も爽で、予想外の場所で日魚子に鉢合わせたので、とっさに反応が遅れた。日魚子は旅行に出かけるなんて言っていたか? べつに日魚子の予定すべてを把握しているわけではないけれど、知らなかった。
「あれ、深木?」
 チェックインの手続きを終えてきたらしい大地が、日魚子と爽にきづいて声をかける。
「あと、ええと……土屋さんだっけ。もしかしてつきあってたの、ふたり?」
 土屋美波と大地は一度だけ合コンで会ったことがある。
 爽が設定し、大地と日魚子が出会ったあの合コンだ。
「大地さんと芹澤さんも? すごーい、奇遇ですね!」
 美波が小鳥が囀るような声で、「びっくりしたー」とわらう。さっきまでテンションだだ下がりで、車内でさきイカをあてにビールを煽っていたくせにえらい切り替えである。
 今日の美波は、クラシカルなキャメルのワンピースにカーディガンをあわせて、ウェーブがかった髪は後ろで編み込んでいる。この日に向けてブラウンに染めていた髪は黒に戻したらしい。清楚なお嬢さん、という美波像をしっかり作り込んでいる。
 美波に乞われて、爽ははるばる奥飛騨温泉郷までやってきた。
 無論、美波と遊びにきたのではない。この温泉郷で旅館を営む美波の両親に、彼氏のふりをして挨拶するためである。
 美波はもともと、奥飛騨温泉郷の老舗旅館のひとり娘として生まれたらしい。今は社会勉強もかねて東京で働いているが、あと数年もしたら、婿をとって旅館に戻らなくてはならない。美波曰く、親に婿を取れと言われたことはないが、周囲のプレッシャーというものがあるらしい。爽は親からそういった期待や重圧を受けたことはなかったので、そういうものか、と若干新鮮に思った。
 爽は美波に貸しがある。日魚子と気まずかった頃、美波の部屋に入り浸っていたためだ。ひと月で美波との関係は解消して、そのあとはまたいつものように女をとっかえひっかえしていたが、ちょうど前の女と縁が切れた頃、美波から連絡があった。いわく、ひと月分の宿泊料はこれでチャラにしてあげる、という。べつに無視してもよかったのだが、ちょうどつきあっている女もいなかったし、他人に貸しを作っている状況がわずらわしいので、乗ってやった。一泊二日なら、きなこを家に置いていっても平気だし。――と思ったらこれである。爽が甘さを見せるとろくなことがない。
「へえ、じゃあ土屋さんのご両親は旅館をやってるんだ?」
 すぐに別れたかったのに、部屋の清掃が遅れているとかで、四人ともラウンジに通された。自然、四人でしゃべるはめになる。大地は旅行先で偶然、同僚に会ったくらいのテンションである。日魚子のほうはなんだか口数が少ない。爽にはわかるが、これはむくれているときの日魚子の表情だ。旅先で大嫌いな土屋美波に出くわしたので、不機嫌になったのか。
「そうなんです、ここからちょっと先のところにある古い旅館なんですけど」
「せっかくなら、ご両親の旅館に泊まればいいのに」
「んー、それだとお互い気を遣うじゃないですかあ」
 などと美波は気を利かした娘を装っているが、そうではない。親が経営する旅館に泊まるのが嫌なのだ。少しでも離れていたいのである。
 今日は夜から、美波の両親がやってきて会食をする。爽としては取引先の担当者を接待するくらいの気分である。べつにひととしゃべるのは苦手ではないし、どうせ美波とはこれを限りに縁を切るので気が楽だ。
「深木といつからつきあってたの?」
「合コンのあとからかな。わたしたち、気が合って」
 ね?という顔を美波がする。
「……まあそんなかんじ」
 確かに気は合っていると思う。後腐れないところとか。
 と大地相手に言うのはどうかと思ったので、出されたお茶を飲んで適当に流した。
 旅館の従業員がお茶菓子を運んでくる。生の林檎をすり潰した寒天だ。爽はちらりと日魚子を見た。
「でも意外だった」
 それまで黙りこくっていた日魚子がいきなり会話に加わる。
 手にしていた湯呑みを抱き直しつつ、爽に目を向けた。
「深木くん、ご両親にちゃんと挨拶とかするひとだったんだ?」
 爽の恋愛遍歴をにおわせて、ちくりと刺す。
 やっぱり今日の日魚子は機嫌がわるい。最悪の部類。
「土屋さんと、……け、結婚とか考えてるの?」
「さあ」
「さあは失礼!」
 美波が茶化した笑い声を上げる。
「そっちは?」
 自分のところにあった会話のボールを爽は大地に投げた。
 なんとなく見慣れないと思ったのは、大地がスーツじゃなくベージュのニットにジーパンを着ているからだ。左手首につけた年季物の時計だけがいつもと同じ。美波がカワイイを装っている人工物女子なのに対して、大地はどこで何をしていても天然物なので、そろっていると妙なかんじがする。
「ふつうに旅行。温泉いいなあって思って。街道らへん、もう行った?」
「まだ」
「馬刺し、おいしかったよ。ちょっと高かったけど」
 大地の話を聞きながら、日魚子の手が茶菓子に伸びたので、思わず爽は「あ」と声を上げた。
「え?」
 日魚子と大地がふしぎそうな顔で瞬きをする。
「あー、それ林檎入ってる。……芹澤さん、前に林檎アレルギーって言ってなかったっけ」
 なんで日魚子の体質まで爽が知っているのかと大地に疑問を持たれそうだったけれど、口にしてしまった以上は偶然聞いたていで通すしかない。今日の日魚子は不機嫌で、なんだか気もそぞろだ。林檎くらい自分できづきそうなものなのに。
「あっ、ごめん。きづかなかった……」
「大地に食ってもらったら」
「う、うん」
 日魚子がもたもたしていると、大地が横から皿を取った。
「日魚子、林檎だめだったの?」
「うん。じつは」
 ちいさな林檎の寒天を大地は一口で食べきってしまった。

「はあー、肩凝るー」
 予約した部屋に通されると、美波は畳のうえに大の字になった。
 かぶっていた猫をポイと投げ捨て、さっそくくつろいでいる。時計を見ると午後五時。美波の両親がやってくるのは七時だからまだ時間がある。美波はしばらく畳のうえに手足を投げ出していたが、そのうちぱっと身を起こした。
「温泉行ってくる」
「せわしないな」
「ここの温泉、美肌成分たっぷりなんだもん。爽くんも好きにしてていいよ」
 美波は編み込んだ髪をほどいてまとめだす。
 いちおう有名な温泉らしいので、入ってみたくはあったが、今だと大地と鉢合わせしそうな予感がする。あと、できれば、美波の両親との会食という名の接待を終えてから、のんびりしたい。
「俺は適当にそのへんぶらついてる。美波も鍵持っていって」
「わかったー。ね、爽くん」
 部屋番号が入った木彫りの鍵を取った美波が、肩越しにこちらに目をやった。
「爽くんと芹澤さんって、もしかしてつきあってるの?」
「は?」
 爽は眉根を寄せた。
「芹澤さんがつきあってるのは大地だろ」
「じゃあ、昔つきあってたとか? 結構ばればれだよ」
「適当な……」
「適当じゃない」
 逃げを打とうとした爽をぴしゃりと美波が遮った。
「そりゃあ、会社で世間話するくらいのひとにはわかんないよ。でも、ふだんの爽くんと芹澤さんを知っているひとなら、すぐにわかる。爽くん、ひとを舐めたらだめだよ。わたしは鋭い。でも大地くんだって、いまにきづく」
 かわいらしい顔をして、とんでもない予言をしてくれる。
「大地に何か言うわけ?」
「やだな。わたしをなんだと思ってるの」
 美波はくりっとした目を細めて、くすくすと笑いだした。
「わたしは自分から火を投げたりしない。そんなにひとに興味とかないし、面倒なの。炎上してるのを隣の島から見てるほうが手軽」
「……ああ、そういうやつだよな」
「無害でしょ。じゃああとでね」
 ひらりと手を振り、美波はドアを閉めた。
 残された爽はひらいたキャリーケースのまえで息をつく。
 ――大地くんだって、いまにきづく。
 ほんとうか?と思う。
 爽と日魚子に共通の友人はいない。会社では部署がちがうこともあってほとんど関わりがないから、そもそも誰かに突っ込まれる機会がなかった。そんなにわかりやすいのか? ……わからない。爽と日魚子は美波が言う恋人ではないけれど、ただの会社の同僚でもない。大地に勘繰られると面倒だ。台風の日だって、大地が日魚子の部屋に突然やってきたせいで、あやうく鉢合わせしかけたわけだし。
 大地と日魚子が親密になるにつれ、ああいう機会は増える。
 そろそろ潮時だろうと台風の夜以来、爽は思っている。マンションを解約して、別の部屋に移ればいい。それで日魚子とはご近所さんですらない、ただの他人になる。早くそうしろ。それが正しい。わかっているならさっさと正しいことをしろよ。この期に及んで何をためらっている?
 考えているうちにこめかみが痛くなってきた。
 美波が戻ってくるまで、まだ時間がかかるだろう。スマホを充電器に挿すと、財布をチノパンのポケットに突っ込み、部屋を出る。
 自販機を探していると、点灯する自販機のそばで、なぜか腰をかがめて徘徊している日魚子のすがたが見えた。湯上がりなのか、髪を下ろしていて、若草色の浴衣を着ている。
 放っておこうと思った。
 けれど、日魚子がそのままひとりで自販機の隣にある薄暗い物置に入っていくので、さすがに足が止まった。しかめ面で数秒迷ってから、結局物置のほうへきびすを返す。
「なにやってんだよ」
「あ、そうちゃん」
 這いつくばって床に顔をくっつけていた日魚子が目だけを上げた。
 シーツや布団がしまってある物置らしく、思ったよりも広い。ふつうなら空いていないと思うが、旅館の従業員が鍵を開けたまま、一時的に離れているようだ。
「そうちゃんに前に選んでもらったピアスあったじゃない? あれ落としちゃったみたいで」
「なんでこんなところに落とすんだ……」
「温泉入るあいだ、外してて。アクセサリーケースを置いてきたから、小銭入れにしまってたんだけど、さっき自販機でジュース買うとき落としてしまった」
 こっちのほうに転がっていったはずなんだけどなあ、と言いながら、日魚子は物置のさらに奥に入り込む。
「危ないから、電気つけろよ」
「ん……」
 ピアスを探すのに夢中なようすの日魚子を追って、爽も中に入る。先に電気をつけるべきだったが、日魚子がどこかに頭をぶつけそうでひやりとしたのだ。――それが失敗だった。
 ばたん、と背後でドアが閉まる気配がして、爽はぱっと振り返る。
 ご丁寧に鍵をかける音までした。
「おい!」
 ドアにすがりつく頃には、相手はその場から離れたようで、何度叩いてもちっとも反応を返さない。従業員にしても、中にひとがいないか確認せずにドアを閉めるとかうかつすぎるだろう。と思ってから、いやふつう中にふたりもひとが入っているとは思わないか、と舌打ちする。
「マジかよ……」
「まさか閉じ込められた?」
「あー、うん。そうっぽい」
 通気口から射し込む微かな明かりを頼りに、電気のスイッチを探す。
 すぐに指が当たったので、スイッチを押したが反応しない。逆を試したが同様だ。
「電気切れてるな」
「そうちゃん、スマホ持ってる?」
「いや、部屋に置いてきた」
「わたしも……」
 日魚子から離れようと思っていたら、とたんにこれである。大地か美波が異変にきづいて、旅館に問い合わせてくれれば、見つけてもらえるだろうか。
「まあ、さすがにそのうち誰かきづくだろ」
「いい歳してなにやっているんだろうね、わたしたち……」
「ほんとにな」
 日魚子はどのあたりにいるのだろう。薄闇のせいで、よく見えない。
 声を頼りにちかづくと、真正面からぶつかった。
「ひゃっ」
 飛びすさった日魚子が大きな転倒音を立てる。
「あ、わるい。平気か?」
「う、うん」
 次はもうすこし気をつけて、日魚子のとなりに腰掛ける。
 日魚子は立てた膝を引き寄せたようだった。
 会話が途切れる。薄闇のなかで日魚子の微かな息遣いだけが聞こえる。
「なあ」
「……なに」
「大地と最近うまくやれてない?」
「なんで?」
「おまえ、なんか最近おかしいから」
 となりから細く息をのむ気配がした。
「そんなことないよ……」
 表情がよく見えない。
 けれど、嘘だとわかる。声と雰囲気でそれくらいわかる。
「うまくいってるよ。だから、温泉にも来たんじゃない」
 自分に言い聞かせるように日魚子が言った。
「そうちゃんこそ、なにあれ。女の敵やめて、急に土屋さんと結婚する気になったの?」
「なるわけないだろ」
「じゃあなに?」
「あいつの部屋に入り浸ってた時期があったから、対価を要求されただけ」
「ふうん……」
 日魚子はなぜか不満そうに相槌を打った。
 また会話が途切れる。薄闇に目が慣れて、すこし視界が戻ってくる。
 となりに座る日魚子が身をこごめるようにして自分の腕を擦った。そういえば浴衣一枚だったか、と思い出して、脱いだコーディガンを日魚子に押しつける。
「え、いいよ」
「風邪ひかれて移されても面倒くさい」
「いいよ、ほんとに」
 思った以上に引かない。押し問答を繰り返すのに苛立って、爽は日魚子の肩をつかむと、ひらいたコーディガンをかけてしまう。つかんだ手の下で日魚子の肩がびくりと跳ねた。
「さ……」
「なに?」
「さわんないでよ……」
 日魚子は最近おかしい。
 前からおかしくはあったけれど、最近はおかしいの方向がおかしい。
 ときどき思春期の女子みたいな態度をとるのである。そしてふいに女の顔をする。
 なんなんだ、と思う。なんなんだ、いまさら。
 ずっと爽を見ようともしなかったくせに。
 つい肩から頬に手を滑らせそうになって、すんででこらえる。日魚子につられてどうする。外には大地も美波もいるのに。考えてから、べつに俺はどうだっていいけど、と思う。大地も美波も、べつにどうだっていい。どうだってよくないのは日魚子のほうだ。なんだか馬鹿らしくなってくる。日魚子に乱されて、なのに日魚子に遠慮して、俺は日魚子のいったい、なに。
「ひな」
 下ろした手で、爽は日魚子の手首をつかむ。
 軽く手を回せてしまうほど細い。そして、たわいのない。こわいくらいに。
「ひな、こっち見て」
 ――魔が差したっていう。
 皆、不倫とか浮気のとき。そういうつもりじゃなかった。でも、つい魔が差してしまったと。
 爽はちがうと思っている。天秤にかけている。ちゃんと脳の片隅で、失うものと欲しいもの、天秤にかけて、選んでる。おまえはその瞬間、一方を切り捨てている。そういう自分が頭おかしくて、認められなくて、あしたから続きの自分とはとても生きていけなくて、魔が差したっていうだけだ。
 爽の天秤はいつだって日魚子を指している。ほかは軽い。ぜんぶ、ぜんぶ軽い。
「日魚子」
 引き寄せられるように日魚子が爽を見つめた。
 見つめた、とわかった。視線が熱い。
「三秒」
 と爽は言った。
 下がった天秤を認めると、急に心が軽くなる。
「三秒待つから。……嫌ならどっか行け」
「なにを……待つの?」
「わからない?」
 爽は薄くわらった。
「おまえはいつもわかってるくせにわからないって言うよな」
「だから、なにを」
「熱出した晩も、俺まちがえてない。日魚子が欲しかったからキスした。いつきづいた? もうわかってるだろ、おまえ」
 ほんの十分前まで、爽はマンションの部屋は解約するつもりで、日魚子のまえから去って赤の他人に戻るつもりで、引っ越し物件を見てた。日魚子のために、きれいに幕を引くつもりだった。台風の夜、大地と日魚子を部屋の外から見ていて、そうするべきだと思った。……嘘だ。欺瞞。それこそ「魔が差している」。
 正しくありたいという誘惑。すきな女の子のまえではまともでいたいという欲求。
 爽は日魚子のしあわせを正しく願える自分になりたかっただけだ。大地だったらそうする。そうすると思ったから。でもそれなら、最初から日魚子に恋なんかしていないし、二十年もずるずる引きずっていたりしない。みっともなくて引き際を心得ていない。きれいに幕は引かない。
 失うものと欲しいもの。
 ――日魚子が欲しい。日魚子のしあわせなんか願ってない。
 はじめからそう。日魚子とはちがう。爽はそうだった。菫とおやじを見て、わかるよ、と思っていたから。どうしようもなく他人はどうでもいいし自分のことがいちばんかわいくて、ときどきまともなふりして大事にしてみるけど、心の底ではずっと、めちゃくちゃになってしまえばいいって願ってた。
 なぜか日魚子はその場から動かなかった。このまま三秒経ったら。
 三秒経ったら、どうなる?

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