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㉔N.Yに「住む」と「観る」の違い   

 私は3月からニューヨークに来ている。この記事を書いている6月の時点で100日近くニューヨークにいることになる。この間にタイムズスクエアを訪れたのは2度のみ。一度目は乗り換えのついでに地上に空気を吸いたくなって外に出たのと、ヘアーカットに行くためにこの駅で降りたのとの計2回である。エンパイヤステートビルも、セントラルパークも、五番街のお洒落ショップ街も、ワールドトレードセンターも、自由の女神のあるリバティ島も、今回は一度も訪れていない。もちろんマジソンスクエアガーデンもメトロポリタン美術館もMOMAも、今回はない。

 私はこれまでニューヨークには仕事や家族旅行で、計13~18回は訪れている(何回かはわからない。たぶん20回はいっていないと思う)。その時は、必ず、セントラルパークの南端から、五番街を通り、タイムズスクエアまで歩いていた。しかし、今回はまったく行く気にならないのだ。「どうして?」と聞かれても「???」としか答えられない。特段の理由もなく、行こうと思う気持ちになれない、としか言いようがない。自分でも不思議!?なぜ?どうして?そして、思い当たった。「いつでも行ける」と思うと、ついつい後回しになるのだろうと。それはちょうど、生まれも育ちも東京の人に、未だに東京タワーに登ったことがない人が多いのと似ている。そんな観光スポットに行くよりも、日々の生活の場所が優先される。タイムズスクエアよりも、安くて新鮮なスーパーに行く方が大事なのだ。有名レストランよりも、コストパーのいいベトナム料理の店の方が大事で、そこに行く方が優先される。ティファニーに行くよりも、日常使える商品が安く並んでいる店の方が行きたくなる。私の場合、まだ3カ月だし、一年もニューヨークにはいない。ましてや永住する訳ではないのだから「住む」というほどでもない。しかし、それでも観光できているという感じは全くなく、専門学校に学びに来ている生徒という感じが近い。だから観光目的というという意識はまるでない。予定はたかが半年だけど、住んでいるという感覚が近い。だからなのか、有名な観光地に興味がわかない自分に自分で驚く。

当初、私は遊び目的でニューヨークに来た。ブラブラ、ほっつき歩こうと思っていた。しかし、しばらくすると飽きてきた。何かをしないで日々を過ごすことに気が引け始めたというか、自堕落な自分を見るのが嫌になってきたというか、手持無沙汰で困り出した。説明が難しい心理状況になった。これは日本人の感覚なのだろうか?FIREを目指す欧米人には全くない感覚かもしれない。とにかく、何かをしていないと落ち着かないのだ。それで私はとある専門学校の生徒となった。何十年ぶりかで味わう生徒の感覚。教える側から、教えられる側へ。しかし、これが新鮮で実に楽しい!自分の知らないことや出来ないことをやれる感覚。この感覚を支えに、今、私はニューヨークで頑張っている(?)。

(写真は借り物:https://www.nta.co.jp/media/tripa/articles/PJzlK)

話を戻そう。正直、観光目的で来ているときと、そうでないときに、こんなに感覚の違いがあるとは思わなかった。だから、知人から有名観光スポットを挙げて「〇〇はどう?」と聞かれても、「まだ行っていない」としか答えられない。「どのミュージカルを見た?」と聞かれても、「まだ何も」としか言えない。私が昔、ニューヨークに観光目的で来るときは、いつも土産話を探していた気がする。土産話を見つけるために観光をしていたのかもしれない。ブロードウェイのどこそこの店に〇〇があった、とか、五番街の角に〇〇な店ができた!とか、日本に帰って、友達に教えてあげるためのネタ探し。友人も知っている箇所を媒介にしての話のネタ探し。今はそんな感覚はまるでない。観光目的ではないので、みんなが知っているであろうものを対象に、話を展開させる気がない。日常の何でもないものの気付きのほうが楽しい。だから私が日本に戻っても、私の土産話はまるで面白くないと思う。誰も知らないような場所や店の話をしても盛り上がらないだろう。共感を生まないからだ。土産話は双方が共感できる共通の対象物でないと盛り上がれないと思う。だから私の話は面白くないだろうし、声高に話すこともしないだろう。私に土産話は期待しないでほしい。日常生活はしょせん、その人の生活そのもの。他人が面白がる余地は少ないと思う。だから私はひっそりと日本に帰り、ひっそりと何事もなかったかのように以前の生活に戻るだろう。土産話は観光客に聞く方が楽しいだろう。「観る」と「住む」の違いは大きい。わずかの期間ではあるが(まだ秋まで続くが)私の感じた日々の私が経験した感覚の違いである。


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