33. KOBORAの発音
Koboreはアフリカ人。ブルキナ・ファソ共和国の出身だ。彼が私に書いて見せた「burkina faso」の文字を見ても、それが自分の名前なのか、国の名前なのか、或いはレストランの名前なのか全くわからなかった。それが国名だと分かるのには可成りな時間と説明を要した。
ブルキナ・ファソ共和国はネットによると、世界でも最も貧しい国のひとつ。国連によると191カ国中184位だそうだ。トウモロコシとタロイモの輸出で稼ぐ国らしい。そんな最貧国と言ってもいい国からニューヨークに出てくるのだから、Koboreは只者ではない。
彼の年齢は不詳。私の年齢も想像付きにくいらしいが、彼のほうが上回る(と思っている)。私には彼の年齢がまるで読み切れない。おそらく30前後ってところだろうが、これとて、まったく当てにはなる訳ではない。20歳そこそこかもしれないし、或いは40を過ぎているかもしれない。身長は190センチ余りあり、体型的にはスリムで、私が写真などで知るマサイ族に近い。そして顎に短めの髭を蓄えている。それがオシャレのためなのか、無精髭なのか判断が付かない。しかし、ダメージ・ジーンズを履きこなしているとことからみて、それなりにお洒落には関心があると見受けられ、だからこの髭も彼にするとお洒落なのかもしれない。
Koboraの母国語はフランス語。だから「h」の発音が苦手である。と言うか、そもそも「hを音にする!」ということ自体が理解できないでいる。
ある時「her」の発音をする箇所があった。Koboraは発声しようと何度も挑戦するが、舌を丸めて顔を前に突き出すばかりで、声が出てこない。どうして発音したらいいのか困惑している様子。何度も同じ表情を繰り返す。首から前に傾け、口を前に突き出す。でもやはり声は出て来ない。何度も首を前に突き出す動作を繰り返した後に、ようやく「イゥー」とも「エ^ァ―」とも判断つかない声をひねり出す。そう言いながら、自分でもヘンだと思うのか、何度も首をひねる。この音でいいのか、自分でもわからないようだ。「h」を発音すること自体がありえなく、無音の記号である「h」のアルファベットを音にしろ!ということのほうが彼にとっては無茶な話なのだ。音を持たない記号を音にしろ、と言われても困るのは当然だろう。私達だって漢字の「彳」や「辶」を見せられて発音しろと言われても発音できなのと同じだと思う。
「ハー」「ハー」「ハー」と先生が彼の前で大きく何度もため息をついてみせる。肩を落とし、うなだれて「ハー」と大きく息を吐き出してKoboraにみせる。「her」はこのため息の音だと教えている。それも何度も何度も。それでもKoboraはこのため息が出せないのだ。
しばらくは彼のために、ため息をつく練習が始まった。先生も途中から面白がって、なんとかKoboraにため息をつかせようと意地になる。Koboraもそれに応えようとする。しかし、できない。
5分ほど経ったところで双方が疲れ出し、先生もついに諦め、Koboraも諦めた。その瞬間、Koboraが息を大きく吐き出した!
「それだ!!」
教室内は爆笑に包まれた。当のKoboraも笑っている。
なんていう人種だ!?アフリカ人はみんなため息をつくことがないのか!? 落胆することはないのか?ブルキナ・ファソ共和国は最貧国だから、ため息さえも出ることはないと言うのか???
調べてみるとフランス語でため息は「soupir」と言う。単語があるのだからため息はつきそうなものだ。いや、或いはブルキナ・ファソ共和国ではため息そのものがなく、「soupir」は死語なのかもしれない。
授業は続き、「Her husband」が出てくる箇所があった。Koboraは今度も発音できなかった。でも教室内の誰もそのことをもう気にする様子はなかった。
そして翌週、教室にKoboraの姿はなかった。本国へ帰ったと聞いた。