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言葉は吐いて捨てるべきだと思うから、あまり些細な思いつきを記録に残さないようにしています。「メモ、書きなぐり」を「記録」に昇華させることで、本来自然と後ろに過ぎ去って忘れられるべきものを留めてしまうと感じるからです。記憶とメモは同じです。記憶は大事な思い出以外、例えば昨日の買い物メモとか動画の内容は忘れるべきです。私はそう思います。人間には記録することで過去と一貫性を保とうと執着する習性があるので
でもこれは忘れたくないから記録しています。
先の自分がそう思ってなさそうなのが怖いけど、そういう時の流れって笑って受け入れるしかないよね……と怯えて暮らしたいです。

・作品に対する解釈を作者が述べるのは、個人の体験とか感想を打ち消してしまい(正解を示すことで、間違っているとするようなものなので)そこに在っただけの作品に意味を作ってしまう
しかし人はある程度意味のあるものでないと関心を持てないから、タイトルに留めるのが良い

└人間味を感じない作品に惹きつけられることもあるが、私は人間らしいものを描きたい
それで誰か一人を刺せたらいい

・どうしても意味が欲しい日がある
この世は不安定で虚無なので ※
しかし意味のないものを愛する気持ちを忘れないようにしたり、その中でも誰か一人に届けとあがくことができたら 楽しそうだと思う
一人を刺すことが目的なのでなるべく刺しやすいようにキャラ語りを控えたり、知名度への努力を欠かしたくない

※私はこの世の全ては脳の見せる幻影だし広い目で見れば人類史は茶番だと思っている……これは離人症のせいだと思うし、私は18の青二才なのでこんなことを言うのは気恥ずかしく、もっと哲学書を読むべき

└でも猫はかわいい 空はきれい そういうのもある

→でも見せようとかバズとか上達とか 意図 あると楽しくないので これはちがう

・自我を殺したいと感じる時があり(希死念慮とはまた違う)、言及を忌み嫌うあの界隈や無言絵師の匿名性に惹きつけられる ただ愛称みたいなものは欲しいとも思う (江藤の名前を毎回記名するのは)ただそれだけの理由だと思う
ひとつ確かなのは、病みツイするとそういう作者だからこういう作風だと思われてしまいそうで、それが嫌だから病みツイだけは避けるべき 往年の作家の彼はこんな人生を……故にこんな作品を系の話大っ嫌い(国語のアンチ)

誰が見るかわからないから補足すると、私は(対自分に限り)絵師に自我は要らない論者でもあるけど、ごはんのツイートは見たいし人間の生態が好きだからこの表現は主語がでかすぎると思っています まだ言葉が足りない

思考するだけでは感情の非合理的な堂々巡りになってしまうが、言語化する過程で取りこぼされるものは確実にあるの、悔しいと思います
絵でそれを描く 音楽で感じる でもそれは本来表現するようなものじゃなくて、皆が肌で感じていて、何も言わず、心の中で静かに大切にするものだとも思うんです……難しい
誰かがそれを表現することで、心が救われる人がいたり、思い出したり、実態のない感覚を宝物のように飾って置けるのかも

・このような一過性のエモやセンチメンタルは錯覚かもしれないけど、美しいと感じるものはそのようなものであることが多いので 良い

落ち着く好きな音楽↓

(こういうとこにリンク貼るのアレだけど 多分この文章を読みに来た私は疲れてると思うから貼る)

情報量なんて表面上なくて、踏み込んだ時に奥に深く複雑で苦み走ったぐちゃぐちゃがあるくらいがいい
少なくとも今描いてるちゃんとした絵の樹くんはそんな感じの塩梅が実現できてるからいいね 事情を理解したうえで見るにはあの頃の彼はあまりにもきつい……コーヒーとかビターチョコの味


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