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短編小説 ピエロ #1

※残酷な描写が含まれます(グロテスク/ネガティブ)

 1

 彼はとても綺麗な人だった。
 人形のような青少年だった。
 肌は雪のように白く、髪は黒檀のように黒く……といっては白雪姫になってしまうが、かわいいというよりは"美しい"という表現が似合う、中性的で端麗な顔立ちをしていた。髪同様に黒い瞳は恐ろしくなるほど静謐な暗闇で、ポスターやデッサン用の石膏像、デジタルの0と1みたいに端正で無機質で、生物らしくない人だった。
 時代が時代なら金持ちに買われてそうだ。絶世というほどではないから、それなりな額で。そんな彼は今、進路調査票を前にあくびを必死に噛み殺していた。

 それはよく晴れた、夏の日だった。
 紙は入道雲の様に白く、空は青い。

「あなたたちも今から将来のことを――」
 進路担当の声をかき消す蝉の大合唱。まるで机に貼りついているのかと錯覚するようなギザついた音が、聞き飽きたセリフを聞こえにくくする。
 ……いや、確かに高二の夏なら、進路は大事な話題のひとつかもしれないが。
 だが平均十七歳の少年少女が興味ある話題かと言えば、多くの場合「ノー」だ。
 少なくとも教室の隅でイケメンに視線を送る少女達は聞いていない。視線の先、憂い気に微睡んでいるその男子生徒は、それでも薄ピンクの桜貝みたいな爪先を揃え、すらっとした良い姿勢を頑固なまでに保持し続けていた。彼の耳は確かに教師の言葉を聞いていた。だが、抗えない生理的欲求と、教室の隅の扇風機が吐く薄ら寒いそよ風がいけなかった。
 進路の話というのは不思議なものだ。自分のことなのに興味がわかない。考えたくもない。若々しく希望に満ちているはずの未来から目を背けたいという妙な気持ちにさせてくれる。そんなことより教員の声に被さって鳴り響いた下校のチャイムが、はっ、と彼の目に光を戻す。まどろんでいた生徒たちが途端に元気を取り戻す。
「帰ろうぜ」
「あぁ」
 隣の席の男子に誘われ、筆箱をしまった彼は席を立った。
 夏休み前は授業が早く終わるから万々歳だと、二人はその喜びを噛みしめ、互いに照らし合わせるように控えめなサムズアップをしてみせた。
「アイツらは部活?」
「だってさ。大変だな」
 窓の外はまだ青く、炎天下のグラウンドで野球部が練習を行っているのを彼らはどこか未確認生物を眺めるような目で見ながら階段を降りた。カキーン、とヒットの音がした。隣の茶髪の彼が会話を続ける。
「でもお前んちは家継ぐって選択肢もあるじゃん」
「長男が家業継ぐっていつ時代……まぁ、いざとなったらそれもいいかも」

 な、と通路を出た彼らは昇降口で靴を履き替え、高校の校舎からグラウンドへ出た。どこまでも日に焼けた砂のにおいが鼻をかすめる。
「よっ、二代目!」
「変なあだ名付けないで」
「二代目! 野球しようぜ!」
 突然ぬっと割り込み黒髪の彼に肩を組んできたのは野球部の三年だった。ヘッドハンティングのターゲットはアイドルのように細身な身体を前のめりにしながらも足元のバランスを崩すことはなく、顔を上げた。
「いや継がないし野球はしませんから、俺もう帰宅部所属してるので……」
「それ所属するものじゃないだろ」
 野球部の腕力を彼はスマイルでいなしつつ、彼は校門の方へと歩き出そうとした。だが背後から刺さる視線に、足を止め、砂を踏む。塗装の剥がれて錆びた校門はすぐそこだった。
「……」
 目を逸らす。
「頼むよー、お前絶対向いてるし、運動は健康にいいぞ」
「……」
「……」
 沈黙は続く。にこにこ笑顔の野球部三年に、彼は目を細めた。

「……じゃ……じゃあ、一回だけですよ。次の練習試あ」
「そうこなくっちゃ! いやぁ、うれしいよ!」
 バシバシとグローブで背中を叩かれ、彼は「いたい……」と小さく抑揚のない声を漏らした。そうして本日の野球部vs帰宅部の勧誘戦争は、野球部の優勢に終わったのだった。
 彼の投げた真っ白な球は誰よりも早く的を撃ちぬいた。類まれなる動体視力と、発達した肩や手の筋肉、正しい軌道を狙う先天的才能がなせるものなのだろうというのが野球部コーチの見立てだった。
 スコーン、と小麦粉を焼いた菓子みたいな音で彼にボールが直撃する。
「デッドボーォル!!」
「二代目ーーぇっ!!」
 審判と友人の声がグラウンドに響く。
 彼は白線の上に倒れ、白いチョークの粉が青空に舞った。

 ♦

 結論から言うと彼は大変丈夫だった。
 というか、石頭だった。たんこぶひとつできていない。
 夏晴れの空の下、網のフェンスで仕切られたグラウンド沿いのスクールゾーンを歩く。容赦ない日差しが若者たちを照らし、町中の緑に激しいコントラストを作っていた。
 校門の陰で出待ちしていた女子から友人は目を逸らしつつ……なにせ目的の、隣の当の本人は「お前は鈍感系主人公か」と言いたくなるほど帰宅部の活動に忠実なのだから……先ほど被った粉を払い落としていた彼が、ふと思い出したように口を開く。猛暑日にしたって頬が少し赤いことに隣の茶髪の彼は気づかなかった。不自然なまでに鈍感を装った、その向こうの青空に飛行機雲が平行に伸びていた。
「コンビニ寄って、新発売のゲテモノアイス食おうぜ」
「ゲテモノって言ってんじゃねーか。何味?」
「……深海魚?」
「絶対嘘だろ」
 あ、バレた? と黒目黒髪の彼は嘘みたいに綺麗な顔で爽やかに笑いとばした。普段人形のように神妙な顔つきをしている彼も、笑えばありふれた好青年であった。
「食べ物だったのは覚えてるんだけどな」
「逆に無機物入ってたら大事件だろ」
 コンビニは通学路の途中にあったから、彼らがルートを変える必要はなかった。
 老朽化した店舗の蛍光灯には黒ずんだヒビが入り、室外機の排熱が伸びきった雑草を揺らしている。草の振動に比例して店中は外の暑さが嘘のように冷房が効きすぎていた。雑誌棚には『UMAの正体は集団発狂?人類vs怪奇現象』『×度目のバラバラ殺人 犯人は同一人物か?』『特集グラビア ×森×美』なんてある種ありきたりなタイトルが並んでいる。寒いので二人はアイスだけ買ってさっさと店を出た。
 水色のソーダアイスは夏日に照らされ、てらてらと滑らかに霜が光る。
 外に出れば、やっぱり暑かったし、夏だった。
 アイスバーを伝って指に垂れる水滴が痛いほど冷たかった。白シャツの袖から無防備に伸びて晒された腕は、指先とは隔たれたように現在進行形で日に焼かれて灼熱を感じていた。
「お前いつもそれ買ってるな」
「お互い様だろ」
 友のミルクソフトクリームを指さす。夏における全ての白は白熱灯の様に眩しくて、真っ黒な瞳のわりに眩しがりな彼は、まるでビームを打たれた怪獣のようにうっすらと二重瞼の双眸を細めた。
 うだるような暑さの中ではアイスもたちまち不愉快な砂糖水になってしまう。真っ白なシャツにシミができてしまっては母親の機嫌的にマズいので、二人はひとまずアイスを食べることに集中することにした。四角く固められたアイスバーはソーダと名打っていても炭酸が入っているわけではなく、ただ爽やかに喉を抜ける水色の砂糖氷の味がした。特段これが好きというわけでもなかったが、なにせ一番安い、そしておいしい。馴染み深い「定番の味」だ。カレー、プリン、焼きそばパン……定番はやっぱりおいしい。
 それから学校帰りの少年たちは雑談やくだらない冗談を言い合った。
 今週の漫画の内容とか。
 夏休みは皆で遊べたらいいな、とか。
 黒髪少年の家の妹がかわいかったとか。そこからその時彼の家で見たゾンビ映画の演出評論会が始まった。安っぽいB級ホラー映画だったがギャグとしては面白かった……という点において、二人は意見が合致し、ひとしきり爆笑したところで「俺たちなにやってんだろうな」とふいに冷静になった。
 そんな風に時間が許す限りだらだらとだべっていたから、気づけば空にはカラスが飛び交い、夕方の香りが辺りにたちこめていた。赤くなっていく空にせかされたように彼らは「じゃあ」「またな」と分かれ道で手を振り合い、カーブミラーで仕切られたそれぞれの帰路についた。走り出す。

 夏は常に蝉が声色を変えて鳴いている。
 朝も昼も夜もうるさいことに変わりはなく、猛暑と手を組み森羅万象から吸いあげたような生命力を持って、青々とした木々やコンクリの間で声を響かせている。

「――つき君。あの、樹くん」
 窓際の席で眠りかけていた彼は、女子に呼ばれて顔を上げた。
「面談。呼ばれてるよ」
「あ、うん」
 前の席の女子だった。黒髪の彼は椅子から立ち、教室を出た。
 薄暗い教室で担任に面向かって「将来の予定は?」と聞かれたとき、彼は特に答えることがなかった。言葉に詰まっていればやがて担任の方から「まぁ、そろそろ考えておくように」と一言言われたっきり、彼の番の面談は終わった。
 進路調査票は相変わらず白紙だった。
 空は青く、鮮やかな黄色のヒマワリがビルにさえぎられた太陽に向かって懸命に首を伸ばしている。飛行機がごうごうと音を立てていた。

 蝉の声がミンミンと頭蓋の裏にこびりついている。

 今日は友人たちは皆部活に勤しんでいた。うだるような暑さの中、彼はグラウンドのフェンスを横切りながらひとりぼっちの家路についていた。
 せっかく早く帰れるのだ、休めるなら休むべきだろう。少なくとも彼はそういう主義だった。帰って畳で寝っ転がりたい。勿論、その前に宿題はやるけれど。
 数十年前に両親が建てた彼の家は縁側にふすまにと時代遅れに古いが、キッチンやトイレは現代的にリフォームされていたし、何故か大きなテレビもあって、友人たちの間ではゲームや映画鑑賞は彼の家で、というのがいつの間に定着していた。
 電柱の根元、猫除けのペットボトルの前を猫がニャーとすり抜け、アスファルトを縫うカタバミや細長い青草に混ざってアサガオがアルカリ性の花をつけている。地球温暖化の影響か、七月の終わりに向かって近頃暑さは毎日ピークを更新していた。
 レトロな商店街に入ったところで、あら、と竹箒を持った女性が声をかける。
「いっくん、おかえりなさい。学校帰り?」
 "いっくん"と呼ばれた彼は立ち止まり、こんにちは、と笑顔で挨拶を返した。早いわね、と女性がしとやかな手つきで竹箒に手を置く。
「あの子は?」
「学校だと思います。アイツは多分……一学期までは部活があるので」
「あら。じゃあお兄さんの方が早いのね」
「まぁ、俺は部活やってないので」
「やればいいのに、そんなにハンサムならきっとモテるわよ」
「ありがとうございます。でも俺、体力もなければセンスもないし……」
「何言ってんの! まだ若いんだから」
 肩を叩く彼女の手からは香水のにおいがして、銀の指輪がはめられていた。そんな会話を数言交わして、おばさんと別れる。通りで働く商店街の住人に声を掛けられる。
「あれ、樹くん。おかえり。ミカン食べるかい?」
「こんにちは。あー、今日は遠慮しておきます」
「おっ坊主。えらく早いな、サボりか?」
「ちっ、違いますよ!」
 和菓子屋のおばあさんと肉屋のおじさんにも笑顔で挨拶をして、店沿いを歩く。
 今時にしては珍しく活気の残る商店街の、入ってしばらくのところに構えた雑多な商店へ彼は入っていった。店先でメタリックカラーの風車が回っている。父は奥で在庫管理でもしてるのか今はカウンターにいないようで、代金の受け皿だけがぽつんと寂しく店番をしていた。その横を通り、奥のふすまに手をかける。
 ふすまをガラリと開ける。
 そういえば、今日は漫画の発売日だったっけ。
「ただい」

「え」

 よく晴れた、夏の日だった。

 黒い両の目に赤が映る。赤黒い鉄の臭いがする暗赤色だった。
 あきらかに異常な光景だった。
 猛暑日だったために、クーラーが止まった部屋は血液で蒸されてひどい異臭が充満していた。一面真っ赤に染まった畳の居間には手や、脚や、踏みつけられてどこの内臓かもわからないような肉片が散らかされている――今時、初心者が作ったB級スプラッタでもこんな杜撰で無暗矢鱈にぐちゃぐちゃな、インパクトを与えるためだけのような演出はきっとしないだろう。それほど異様な殺人現場だった。頭は二つで、飛び出した目玉が計四つ。父と母と目が合った。
 室内はひどく暑くて、外にいるよりも熱中症になりそうで、吸っても吐いても鼻からも口からも赤い鉄の味がする。彼は入り口で立ち尽くしたまま、そのあどけなく人形みたいに綺麗な目でじっと居間の惨状を見おろした。
 眩しい青空が遺族ひとり分の影を、この上なく凄惨な殺人現場に落とした。
「あ……」
 急速に心拍数と息があがる。瞳孔が黒い瞳の中でカメラのレンズのように開く。逆光で暗い室内から光を取り込もうとしていた。脳が勝手にシャッターを切って、その真っ赤な光景をいつでも思い出せるように思い出の表紙に大きく貼りつけた。むせかえるような湿度の高い血のにおいや、正常性バイアスが幼い正気のために殺した途方もない恐怖や絶望と一緒に。
 
 それだけ純朴で暴力的なグロテスクだった。

 いったいどれだけ、そこに立ち尽くしていただろう。
 命の危険を感じるような状況に晒されたとき、人は思考よりも先に体が動くらしい。不意に彼は弾かれたように携帯を取り出すと、震える指で110番にかけた。
「もしもし、警察ですか」
 その時、何と言ったのかはよく覚えていない。
 けれど中学校にいる妹にこの惨状を見せてはいけないと思った。気づけば家の前までパトカーが駆け付けていて、店先には黄色いテープが貼られていて、彼は警察官や野次馬の中心で泣いている妹を抱きかかえていた。
 空はすっかり茜色に染まっていたのに、いつまでも昼のままだった。

(#2に続く)

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