カオスを愛せよ、カオスに生きる

意図の外にある可能性を秘めたカオスを、もっとまちに取り入れよう!


私は東京に住む大学生である。そんな大学生の日常はこうである。
 寝るためだけにつくられたベッドから起きる。
 部屋を照らすためだけにつくられた照明をつける。
 …
 移動するためだけにつくられた電車に乗る。
 講義を受けるためだけにつくられた教室で講義を受ける。
 食欲を満たすためだけにつくられた学食で食事をする。
 運動するためだけにつくられたジムで運動する。
なんと整然としたことか。目的ひとつひとつにつけて、その一つの目的を果たすためだけにつくられた、べつの目的が排除された、環境が用意されており、人はそこで淡々とその目的を果たすのみである。

 都市に暮らす私たちの暮らしは、意図してつくられたものに囲まれている。意図してつくられたものはえてして意図の外にある目的を排除しがちである。アスファルト舗装の道路は、車を通すという意図によってつくられ、車を通すという目的以外を排除する。子供がそこで穴を掘ったり隠れたりして遊ぶことができない。座って休むことができない。木陰がなくて輻射熱で暑い。動植物が生息できず、生態系を分断する。
 逆に、意図の外にいろいろな意味を持つものも存在する。昔は道路が通路でもあり遊び場でもあった。神社は信仰の場でありながら子供たちの格好の遊び場であり、大人が情報共有したり愚痴を言い合ったりする場でもあった。部活やサークルはもともとは学生のエネルギーを発散させるという意図でつくられたが、学生の居場所にもなっている。
 整然とした人工的な環境は、意図の外に余地を残さないことが多い。(あらゆる目的を排除せずに意図して環境をつくるのは人間には能力的に難しいため、)意図の外にある多様な目的を排除することは、行動の自由を排除することと事実上同義である。では、意図の外に多様な目的を秘めた環境をつくるためにはどうすればよいのか。私はカオスな環境を作ることが重要だと思う。(ここで言うカオスというのは、無駄がある=意図して作られていないという意味であり、いろんなものが乱雑に存在するという意味も含む。)環境のひとつひとつの要素がある程度意図の外を排除する物であったとしても、それが複雑に組み合わさって全体として多様な可能性を秘めるのではないかと思うからだ。
 そして、カオスな環境をつくるカギは自然にあるのではないか、と私は考えている。自然は全知全能の神を除けば誰かが意図してつくったものではない。にもかかわらず、クジラは食べる部位以外も、骨や油やひげなど、余すことなく利用できる。木の可能性は計り知れない。紙にも家具にも建材にも加工でき、遊具にもなり、信仰の対象にもなり、山を守ってくれる。神社のように、自然との関わりの中で長い年月をかけて作られていったものも自然に含められるだろう。
 もちろん人工的に、意図の外の可能性を秘めたカオスが作れるなら、それもいいだろう。自然はカオスの中にもバランスを持っている。そのようなカオスが人間につくれるだろうか。腕のなる課題だ。

(余談その1)
 都市は意図にあふれている。目的意識にあふれている。目的と行為が一対一に対応している。だからすべての行為に目的が求められ、人々は意志を持ってそれを遂行しなければならない。残酷なことに、人間は目的を人生に対しても求める。しかし、生きている意味を見つけるには、あまりに生活が整然としすぎている。毎日忙しくして、充実しているようにみえるが、いちいち「電車に乗っているだけ」「講義を受けているだけ「食事をしているだけ」なのだから、中身がスカスカなのだ。マルチタスクをしてもせいぜい2倍、3倍になるだけ。この都市世界にある重要なカオスは、スマホである。いろいろなアプリがはいり、入れ代わり立ち代わり楽しませてくれる。

(余談その2)
 整然とした環境は、自由を奪うだけでなく、楽しさも奪うだろう。
 私は休みの日に田舎を歩くことがよくある。田舎はカオスな環境だ。その時に私が感じることを書きだしてみる。
 雄大な山や広い空や入道雲を見る。
 風に踊る草木を見る。
 蝉の声を聴く。
 自分の足音を聴く。
 夏草のにおいをかぐ。
 汗をかく。
 額の汗にあたるそよ風の涼しさを感じる。
 足の裏の感覚。
こんなことを同時に感じるのである。このようなことを意図することは難しい。目的にはなり得ないこれらが、実は重要なのである。ここで気づいてほしい。この歩くという行為が、ただ歩くだけをはるかに超えていることに。このカオスな行為をしているとき、私は生きている意味を本能的に感じるのだ。

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