旅と観光(後編)
後編では、主に観光はどうあるべきかについて述べる。
見所主義は現代にしか存在しないのか
見所は江戸時代にもあった。しかし見所主義と言えるほどのものはなかったのではないか。例えばお伊勢参りは、伊勢という見所を目指しているようで、その実態は情報収集だった。江戸時代の交通手段は徒歩だったので、道中で色々な人と出会うことができたのだ。伊勢に参る者は、帰ったときに見聞きしたものを共有する役割を担った。
山にならう
山は山頂の大展望という見所はあるが、大展望のない山も登るのは楽しいものである。なぜか。たとえば標高や地形によって植生が変わるのを楽しむことができる。単純に山の中の雰囲気というのは心が癒されるものである。なので事前に見所を下調べして行かなくても、必ず山は自分を楽しませてくれるという安心感があるし、さらに行った先に何かがあるという高揚感がある。このように、見所というピンポイントでなく、エリアとして楽しい地域を作るのがよい。こういう地域は有名な観光地ならばある程度自然に成り立っている。しかし、観光客を増やそうとしているところはやたらピンポイントの際立ったものを強調しがちであるように見受けられる。
その点、横瀬町という町は、「日本一歩きたくなる町」を標榜して、エリアとしての観光開発に力を入れる意志が感じられる。今は点々と見所が作られている段階のようだが、これから横瀬という地域がどうなっていくのか興味深い。
また、山は常に流転し、常に違う姿を見せてくれる。地域も常に移り替わり多様性をもって、一度行って終わりにならないようにするのが理想だ。そのキーワードは「文化創造」である。文化の生まれやすいまちづくりが鍵だ。
リトリートという旅の形
旅行が作業になっていることに気づいた現代人は、新しい旅の形を開発したと考えられる。それがリトリートだ。せかせかと観光地を回るのではなく、心身をゆったりと落ち着かせるのである。だが、これは本来は自分の住んでいる場所で行うべきことであって、これが旅の形の一つになっているのは、ひとえに自分の住んでいる土地にゆったり休める場所がない!ということなのだ。そこに問題があるのであって、自分の住んでいる土地にゆったり休める場所があるのであれば、これが旅になる必要はない。だからリトリートは本質的な旅ではないといえる。
ざつ旅という旅の形
最近、私が注目しているのは「ざつ旅」という漫画だ。この漫画はご存じないかもしれないが、密かに人気を集め、TVアニメ化の計画も進んでいるくらいである。では「ざつ旅」とはなにか。とりあえず旅行に出かけ、失敗も楽しもうという、雑な旅だ。行く先々で「休業中」に当たっていて面白いのだが、その分何かを見つけたときの感動は増す。
異文化交流
旅の「ただ楽しい」以外の意味づけとしては、新しく何かを知るというのがあると思う。その土地でしか知れないものとしたら、その地域をとりまく雰囲気といった抽象的なものとともに、「ひと」ではないか(見所は具体的な物なのでネットでみればそれで十分だ。迫力は現地でしか感じられないかもしれないがせいぜいその程度だし、最近はVRとかもある)。私は市民ひとりひとりが文化の発信拠点になるようなまちを作りたいと思っているが、そこに観光客も巻き込みたい。観光客も地方文化の創造に関わるのだ。交流ならネットでいいじゃないかと思われるかもしれないが、わざわざその土地へ足を運ぶことによってできる繋がりには価値があると思う。それに、考えて欲しいのだが、殺風景な会議室で出会うのと、雰囲気のいい場所で出会うのと、どちらがより親密になれるだろうか。自明だ。抽象的な雰囲気というものは、VRでは再現できない。だから価値がある。どうやって異文化交流が生まれる仕組みを作るかについては、構想があるので後々このnoteで投稿すると思う。乞うご期待。
じゃあ地方はどうやって金を稼ぐか
観光は長らく地方が金を稼ぐ手段だった。そして、見所主義がなくなれば(減れば)地方は観光で金を稼ぐのが難しくなるかもしれない。しかし、必ずしも観光客をたくさん呼び込んでその場で金を落としてもらおうとする必要はないのではないか。というのは、観光を、地域と深くかかわる関係人口を増やす手段とみてもいいのではないか、ということだ。その場で金を落としてもらうのではなく、継続的に地域の特産物を買ってくれたり、地域の文化創造に関わってくれたりする人を増やすという方法もある。見所を開発して観覧料をとる観光業はもう時代遅れだ。
サステナブルツーリズムとの一致?
私の考えは、「地域自体が観光資源である」という理念は一致していると思うが、問題意識と具体策が異なると思う。
サステナブルツーリズムの問題意識は、「マスツーリズムの過度な集客による、自然環境やそこで暮らす人々の生活に与える負の影響」である。それに対して、私の問題意識は、(見所主義によって)観光客が意味のない旅行をさせられていること、中身のない見所開発で風土その他が削られていることである。
また、マスツーリズムの具体策として、農村に注目して、文化的なものを見せて、その場でお金を取ることを目的とすることが多いと思う。ここでの文化的なものというのは、文化そのものではなく伝統行事などであって、形式が固定されていて(=プログラムが最初から決まっていて)一方行的な情報の流し込みに終わるケースが多い。これではほとんど見所主義と同じではないか。それに対し、私が提案する観光は、どこでもできる、双方向の文化交流がある、その場で金をとって終わりにならない観光である。
ただし、サステナブルツーリズムの具体策に少し問題点があるのであって、サステナブルツーリズムというもの自体はすすめるべきだ。私の提案する観光とサステナブルツーリズムが必ずしも一致するものではないと言いたかった。一致するものとして、たとえば、サステナブルツーリズムの一例として、農泊というものがあって、これについては私は推したい。