180623 粘性
歯磨きの後に吐き出した唾が、ぬるっとした動きで排水口へと吸い込まれていった。世の中がせわしなく動いていても、物質の動きは世の中のIT化とは全く関係なく、変わらない。そのぬるっとした動きは、言わば、粘性とでも言い表すことが出来る。自らを押しやる水量が少なければ、粘り、絡み、排水口へと流されていくことに必死に抵抗を示すかのようないじらしさに、その意志さえも浮かんで見えてくるようである。
仮に、その粘り、絡み、抵抗の意志があるとしたらなんだろう。物質が示す抵抗値。果たして抗うことの目的とは何か。本来あるべき環境の変化に対して、物性の限りを尽くして抵抗するという作用。それに意志を見出すのはこちら側の勝手な見解だけれど、物性としての抵抗については、考えれば多く思いあたる。
フライパンにこびりついた焦げ、ネジ山が切れてしまって逆回転できないネジ、湿気を帯びて反り返ってしまった木板、交換しようと思って開けたら泡を吹いた後のようになっていた古い乾電池、などなど。物が物として存在することに、最後まで必死になっているようなさまを見るたびに、そこに物の意志を感じることも然り。
飛躍して、完全に比喩の世界なのだが、精神的な粘りとは何であろうか。日々の生活における出来事をそこはかとなくこなしていく力、もしくは、起こりくる出来事を積極的に乗り越えていくようなモチベーションにしても、精神的な粘りのある方がきっと上手くやっていける。生命としての生存の問題に還元しても良い話なのだけれど、あくまでも日常のモチベーションの話として、精神的な粘りがどこから来るのかを考察してみたい。
いわゆる、トラウマに相当するような精神的にも辛い体験を乗り越えてきたとすれば、その値よりも低い経験については、その人はトラウマの経験による粘りを持って対処可能な状況にあるといえる。経験値が物事に対する粘りを生み出すのかもしれない。
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