頼朝、安房で再起を図る(前編)
治承四年八月伊豆で挙兵した源頼朝は、二十三日、平家方の大庭景親との石橋山の戦いで敗れ、真鶴岬より海路小舟で脱出、安房国へと向かいました。
昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に一場面として出てきました。
なぜ安房を目指したのか?
当時、房総半島南部は、対岸三浦半島の三浦氏の影響が強く、房総の情勢に詳しかった。
安房の有力豪族・安西景益は頼朝の郎党であった人物で現時点で数少ない頼朝の味方であった。
安房は陸の孤島であり、平家方の追撃を一時的にでも防ぐ上で都合がよかった。
と諸説あるようです。
「吾妻鏡」によれば、「二十九日、武衛(頼朝)、(土肥)実平を合具し、扁舟に棹さし安房国平北郡猟島(現千葉県鋸南町竜島)に着かしめ給う。北条殿以下人々これを拝迎す」とあります。
頼朝が安房に上陸した時には、もう既に北条氏をはじめとする御家人たちがお出迎えしていたようです。
つまり、石橋山で負けた場合、安房に向かい再起を図ることはプランBとして頼朝配下に事前に示し合わせていたのかもしれません。
頼朝到着前に、北条時政・義時、三浦義澄・義村ら頼朝配下の御家人、則ち『鎌倉殿の13人』のメンバーは既に安房入りしており、頼朝上陸の安全確保、滞在中の準備を行った上で、頼朝を出迎え合流したと考えられます。
決して行き当たりばったりではないでしょう。
安房滞在中の頼朝は地元の村人たちに熱烈に歓迎されました。
その歓迎っぷりに感激した頼朝は、こう言います。
「わしが平家打倒を果たしたなら、おまえたちには安房一国を与えよう。」
それを聞いた村人は、安房一国を穀物の粟一石と勘違い。
「粟なら畑で取れます。それより私たちに苗字をください。」と言いました。
頼朝は村人の欲のなさを笑い、「そうか、ばかだなぁ」と言うと、それを村人は苗字をくれたものとまた勘違いし「左右加」「馬賀」と名のるようになったと言います。
実は、今でもこの辺りにその苗字を名乗っている家があるそうです。
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