【大河ドラマ「どうする家康」雑感】~経済闘争としての三河一向一揆~
ドラマでも描かれたように、三河一向一揆のの発端は、家康が一向宗の寺内特権である不入の権を破って、強引に兵糧米の徴収を行ったことに始まった。
石川数正ら重臣たちの懸念を無視して行われた家康の行為は、家康の民の声を無視した軽率、考えの甘さ、しくじりとして描かれ、多くの悲劇があった。
確かに一揆勢との対決は、家臣の離反を招き、大きな混乱を招いたが、実は、家康は、寺から税を取り立てるというレベルでなく、一向宗勢力の壊滅、三河からの一掃を狙っており、そのタイミングを計っていた。そして、三河統一の佳境に入ったこの時期がベストと考え、やるべくして排除に動いたでは?と個人的には思っている。
一連の寺内特権を巡るトラブルは家康の挑発、言い掛かりであるが、使者を殺害されたことで戦の名分を得ることができた。
家康にとって一向宗をどうしても排除しなければならない理由は何であったか?
三河平定にあたり、家康に敵対する勢力を掃討したとしても、不入の権のある寺内町に逃げ込まれてしまえば家康は手が出せない。
結果、寺内町が敵の隠れ蓑となり、策源地となってしまう。
これではいつまで経っても三河平定は不可能であるどころか三河の懐に敵を抱え続けることになる。
三河一向一揆の拠点となった三カ寺(本證寺、上宮寺、勝鬘寺)。
それらは矢作川の中流域にあり、その一帯に一向一揆のネットワークが築かれていた。
矢作川の水上交通を掌握し、三河の物資輸送を支配することは、矢作川の上流に位置する、松平の本拠岡崎の経済に大きな影響を及ぼす。
則ち、矢作川の河川輸送路を止めることで岡崎の経済封鎖が可能であるということだ。
このことは、家康は兵糧、鉄砲、武具資材などの戦略物資が手に入れることが出来ず、軍事的にも干上がってしまうということを意味する。
膨張する一向宗勢力の脅威と経済封鎖、このままでは最悪、加賀の二の舞である。
家康の三河の領国支配を確固とするため経済安全保障のリスク管理から、三河一向一揆は避けられない戦いと判断し、早めに手を打ったに過ぎないのではないか。
ドラマのような迷い、葛藤は、家康には無かったと妄想している。
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