頼朝の佐竹討伐は、上総広常の、上総広常による、上総広常のための戦いだった?(その2)
https://note.com/itohirosy2023/n/n466d16f355b7
高速道路常磐道石岡小美玉スマートICのほど近い大矢橋。
現在では新大矢橋という橋が架かっているが、その側に佐竹義政の首塚がある。
説明板には、治承四年十一月、上総広常による帰順勧告に応じた佐竹義政は、頼朝との会見に向かったが、この園部川にかかる大矢橋で上総広常に謀殺されたとある。
つまり、広常の一計とは騙まし討ちであった。
太田城に着いた広常は佐竹義政を説得した。
「佐殿は常陸介殿(佐竹)とは戦いたくはないのだ。源氏同士話し合えば分かり合えるのではないか」
義政は広常の言を疑うことなく信じた。というより信じたかったのだろう。
頼朝の大軍は国府まで来ている。
とりあえずは戦を避け、父帰国まで時間を稼ぐことができるのならと頼朝の許に参上することに合意した。
しかし、広常によっておびき出された形となり、大矢橋で惨殺されてしまったのである。
卑怯だろうがなんだろうが、目的ためだったら手段を選ばないという広常の策。
当時の価値観としては当然考えられる策ではあったが、まさかいきなり、白昼堂々と実行するとは…。
卑怯な策は源氏、頼朝の名を汚してしまう恐れがある。
なかなか思い切って出来ることではない。
鎌倉御家人たちにとって広常の行動は、どのように映ったのだろう。
兄・義政を討たれた、弟の佐竹秀義は、太田城では頼朝の大軍を迎え打つには不向きと考え、太田城を放棄。
奥地の山岳・西金砂山に籠ることを決めて、頼朝軍との徹底抗戦の構えを取った。
早速、頼朝は、西金砂山に下河辺行平、土肥実平、和田義盛など数千の精鋭を派遣し、佐竹掃討を命じた。
西金砂山は要害険阻であった。
秀義は数千の頼朝軍を相手に山岳ゲリラ戦を展開し、一歩も引かない。
逆に攻め手の頼朝軍は、山頂から雨あられと降りそそぐ矢・石に打たれ苦戦を強いられ、狭小絶壁の道なき道に進退ままならず、放つ矢も高所の敵には届かず、空しく矢をつがえて機を待つばかりであったという。
「佐竹が構える砦は一人で千人分の働きを持っている」とは、土肥実平の頼朝への戦況報告である。
「佐竹をいかが攻略すべきか?」
早速軍議が開かれた。
重々しい雰囲気に包まれていたが、その空気を打ち破ったのは、またもや上総広常の進言であった。
広常の新たな一手とは?
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