ショナール

#バングラデッシュ の #NGO の #スペシャリスト。長年の経験でみなさんの #NGO活動 の支援を行います。noteで何ができるかチャレンジしてみます。よろしくお願いします。

ショナール

#バングラデッシュ の #NGO の #スペシャリスト。長年の経験でみなさんの #NGO活動 の支援を行います。noteで何ができるかチャレンジしてみます。よろしくお願いします。

マガジン

  • 「哲学」を語りたい私はカールヤスパースファンです。

    私なりに哲学したいと思います。カールヤスパースのファンですが哲学を身近に感じていただこうとシリーズ化しています。

  • 本 飢餓の村で考えたこと

    1976年から77年に私はNGO駐在員としてバングラデシュの飢餓の村で活動しました。その時の経験を書いた本です。人類史の大部分は飢餓に近い状況の中で生きてきた人間、歴史を考える時「飢餓とは何か」は必要だと思う。そこで私の経験を本にすることにしたのです。

  • 健康につながる食事

    九州と東京で自然食の宅配を行っている「九州産直クラブ」の機関紙に毎月執筆しています。その内容を集めたものです。40数年間自然食の仕事をしてきました。その長い期間学習、生産者の交流、講演会などを経験し、今私なりに健康になる食事とは何かを語ってもいいと判断しこのマガジンを作ります。

  • いとバイ通信

    ストリートチルドレンの支援、海外協力フォーラム、ユースフォーラム、自然食について、哲学、世界の状況などを深く考えていく予定です。世界一面白く読み応えのあるマガジンにしたいと思います。どうぞ読んでください。

  • コロナをめぐって世界各国を社会学的に観察したいと思います。

    新型コロナが世界中で脅威をふるっています。コロナを考えるとすべての人に平等の脅威である性質をもっています。日頃わかりにくい社会状況もこの対処を見ていると明らかになる部分があるのではないでしょうか。また将来の社迂回の展望をすることにおいても社会学的に考えてみませんか。

最近の記事

哲学 ヤスパース同好会1

一ヤスパースファンとしての哲学考 記: 伊東弘 私は日常の出来事や社会情勢などを「自分自身で考える」ことが最も大切だと思っています。哲学とは「真理の追究」ではないかと考えます。哲学者を学ぶ際、この「真理の追究」という出発点が最も重要になるのではないでしょうか。教壇哲学ではこの原点とは違う方向へ行っていることも多いのではと思います。哲学は専門家がどう評価しているかを学ぶことが大切ではなく、自分の中にストンと入っていく最も重要ではないでしょうか。 カールヤスパースは私の心の師

    • ヤスパース哲学の同好会の呼びかけ

      ヤスパース同好会を作りたい 「哲学」とは真理をもとめることだと思います。哲学の専門家とは教壇で教えている人々のことを言うのでしょう。この人々が真に哲学の歴史を理解した人々なのかは私は大変疑問に思っています。なぜなら、ヤスパース哲学が正当に評価されているとは思えないからです。私は不当に社会的な評価が小さいと考えています。なぜかと考えると大学教授になる人々は論文を書くわけですがヤスパースについてはヤスパース自身が多くを述べているため、狭い視野で独特の主張を論文化しようとする題材

      • Q@G943Y

        ウクライナ戦争の妥協案を考えてみました。 世界全体で解決できないか。妥協案を考える 『できるだけ現在の世界の状況を心に描き出してみる。』 『プーチンとは』  現代のヒットラーである。狂人ではなくロシアを世界の大強国にしたいと願うスパイ出身の独裁者である。彼のこれまでの経歴は全てにおいて万民の想像を超えた演出を成功させ、ロシアでの独裁者の地位を確立してきた。その手法はスパイ的であった。スパイ的とは表も裏も駆使して相手の弱的を見つけ、その弱点からロシアを大国にする手法を見つ

        • 飢餓の村で考えたこと 65.66

          注意:ここに書いている体験は76年77年のことです。日本でいうと戦後すぐの時代を書いたようなもので現在のバングラデシュとは全く状況が違います。 交渉した人から買うべし   日本では値札があるので値段と品物の必要を考えて購入していた。しかしバングラではどのようにしたらいいのか分からない。そこで初めの頃は例えばきゅうりを買うんだったら4~5人から値段を聞いて回って、一番安い人に最後の値段交渉をして購入するという手順で買っていた。 しかしただ安く売ってくれる人を探して購入す

        マガジン

        • 「哲学」を語りたい私はカールヤスパースファンです。
          13本
        • 本 飢餓の村で考えたこと
          28本
        • 健康につながる食事
          3本
        • コロナをめぐって世界各国を社会学的に観察したいと思います。
          20本
        • いとバイ通信
          20本
        • いとバイ通信  自然食シリーズ
          22本

        記事

          飢餓の村で考えたこと63.64

          買い物 買い物はどうするのか。日々の食材はアハモッド君が近くのバザーで買ってきていた。それ以外の買い物は週1回のギオールのバザーで購入する。買い物で日本と決定的に違うところは、どの品物にも定価が付いていないことだ。 だから全て交渉で値段を決めることになる。相場を知らないと不当に高く売りつけられるかもしれない緊張感がある。それを防ぐルールがある。例えばゴザを買いたい場合、ギオールに着くまでにゴザを買って帰る人に「それいくらだった」と聞く。 見知らぬ人でも必ず答えてくれる。

          飢餓の村で考えたこと63.64

          鍵の村で考えたこと60.61.62

          モノづくりの原点   私たちはシャプラ村事務所の書類を保管するための木製キャビネットを作ることにした。日本ではキャビネットはどこに行っても簡単に買えるがポイラ村ではそうはいかない。ポイラ村での一か月もかけた木製キャビネット作りをレポートしよう。 私たちはキャビネットを作れる村の大工さんを探し、どんな大きさの木が必要なのかを聞くところから始めた。そして両腕を回してぎりぎり手の届く位の大きさの立ち木を売りたい人を探して、訪ねていって購入した。次にその立ち木を伐採して板にして

          鍵の村で考えたこと60.61.62

          飢餓の村で考えたこと 57.58.59

          切り方を変えて   私はアハモッド君に一度だけ料理についてリクエストしたことがある。その頃は雨期だったので村で買える食材はごく限られていた。いつもなすびカレーしか出てこない。毎回調理法も同じのなすびカレーが出てくる。 私はこの村では食えるだけでも贅沢なのにと思いながら、思い切って料理方法の要望を言った。「輪切りのなすびカレーばかりではなく、たまにはなすびを縦切りにしてくれないかな」と。心でこの村でこんな贅沢を言ってごめんという気持ちでいっぱいだった。   ポイラ村の

          飢餓の村で考えたこと 57.58.59

          飢餓の村で考えたこと 55.56

          料理人アハモッド君   村には私ともう一人の日本人駐在員が生活していたが料理作りは村の人を雇っていた。その料理人アハモッド君の年齢は十代前半で、小児麻痺が原因で彼の足は片足が10㎝位短くそして細い。サムスール君が彼を紹介してくれた。 料理人の採用面接ではサムスール君たちも加わってくれた。料理人は毎日近くのバザーで買い出しをし、料理をする。週1回隣町ギオールの大きなバザーに買い出しに我々について行って、買った荷物を運ばなければならない。隣町のギオールは歩いて30分ほどかか

          飢餓の村で考えたこと 55.56

          飢餓の村で考えたこと  53.54

          サムスール・ホック君   私がポイラ村に入る前から、シャプラは活動を進めるために村の青年たち(男性2名女性1名)を雇用していた。その中の一人が私よりも一才年上のサムスール君だ。 自分のNGO活動を振り返ってみると、自分がやれたことよりもNGO活動から私が得たものの方が圧倒的に大きいと感じる。特に人との出会いについては、もしNGOの活動をやっていなかったら出会うことがなかったであろう素晴らしい人たちと出会えたのである。この素晴らしいという意味は社会的な立場のことではなく、

          飢餓の村で考えたこと  53.54

          飢餓の村で考えたこと 51.52

          1976~77 まるで江戸時代?   ポイラ村で米を脱穀しているところを見た。庭の土は牛のふんと土を混ぜたもので塗ってある。表面は固くなり埃もしないできれいだ。お米の脱穀はまず刈り取ってきた稲穂を相撲の土俵のように円形に積む。 牛を2頭連れてきて稲穂の部分をぐるぐる回らせながら牛に踏みつけさせる。人はその牛を操って一緒にその土俵型の周りを回っていた。牛が踏みつけることによって脱穀するという。 この様子を見て私はまるで江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えた。ポ

          飢餓の村で考えたこと 51.52

          飢餓の村で考えたこと 49.50

          学校に行ってないこと   バスの行先を訊ねて嘘をつかれたことで大変な目にあったことがある。当時いた日本人の殆どはこの経験をしていた。バングラでは見かけによって社会的地位を瞬時に判断する人が殆どだった。 男たちは自分が下に見られて不利益を被ることを恐れる。多くの貧しい人たちは家庭が貧しかったために学校に行けていなかった。それでバスの前に表示されている行先が読めない。しかし読めないことを知られたくない。 そこでさも読めるふりをしてこのバスが○○方面にいくバスだよと自信たっ

          飢餓の村で考えたこと 49.50

          飢餓の村で考えたこと 47.48

          植民地の言語政策   イギリスのインドを含めた植民地の言語政策は次のようなものであった。官吏は英語試験に合格したものに限られた。したがって官吏を養成するために英語で教育を行う大学が作られた。イギリスが支配した地域は広大であったため、実際には数十種類の言語が使われていた。 200年弱も続いたイギリス植民地支配によりこの地域に住む高等教育を受けた人々の共通語は英語となった。支配されていたこの長い期間、世界は激変した時期でもあった。この地域ではその間に生まれた新しい用語は英語

          飢餓の村で考えたこと 47.48

          飢餓の村で考えたこと 45.46

          劇的効果の抗生物質軟膏とサルファ剤   私たちは病気の時に備えて抗生物質の軟膏とサルファ剤の錠剤をポイラ村に持って行っていた。ある時近所のお母さんが幼い娘の顔が大やけどしたと言ってきた。 事情を聴くと料理をしている時、つまずいた娘が煮えたぎった鍋の中に顔が入ってしまったとのことだった。娘は顔全体が焼けただれ、映画に出てくる四谷怪談のおゆわのような顔になっていた。 私たちは抗生物質の軟膏を患部に塗った後、サルファ剤の錠剤をつぶして粉にしてその軟膏にふりかけた。それを何回

          飢餓の村で考えたこと 45.46

          飢餓の村で考えたこと 43.44

          「ありがとう」の言葉 私たちがポイラ村にいた時期の村人は「ありがとう」(ベンガル語でドンノバットという)という言葉を使わなかった。初期の日本人駐在員はポイラ村で村人にドンノバットを連発したので、日本人駐在員のあだ名が「ドンノバット」となってしまっていた。 村の子供たちは私たちをよく「ドンノバット」と呼んだ。ポイラ村での1年以上の滞在中に「ありがとう」の意味でドンノバットを私に使った村人は一人もいなかった。 ありがとうの意味を持ってはいるが遠回しな言い方がある。それは直訳

          飢餓の村で考えたこと 43.44

          飢餓の村で考えたこと 41.42

          植民地とは? 私たちの住まいから200m位の近くにイギリス植民地時代の徴税請負人(ベンガル語でザミンダールという)の家がある。村の建物としては異様に見える煉瓦造りの大きく強固な建物だ。そして私たちの住まいの前には道幅4m位の農道があった。この農道は約2㎞先にあるイギリス人の住まい跡と徴税請負人の家をつないでいた。植民地時代はイギリス人が馬でこの道を通って徴税請負人の所へ行っていたとのことだ。 私は時々イギリス人が馬に乗って徴税請負人の所へ行く様子を想像しながら、その農道を

          飢餓の村で考えたこと 41.42

          飢餓の村で考えたこと 39.40

          全ての栄養をご飯から 村人はどんな食生活をしていたのか。村で一番金がかからない食事とはどんなものか。満腹感が味わえて一番安い食事とは極力おかずを少なくしてごはんばかりを食べることだった。 お米に比べるとカレースパイス(スパイスは単品で買って各家で調合して使っていた)、ジャガイモ、玉ねぎ、しょうがなどはすべて割高だ。だからお金がない時は極限まで米の割合を増やす。 おかずがない場合はごはんと塩や唐辛子だけで食べることもある。食べ物がごはんだけに偏ってしまうので身体の方がごは

          飢餓の村で考えたこと 39.40