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被支配の歴史 | 蔵ぬぱな節/唄から文化を学ぶ 2 | 東京から唄う八重山民謡

蔵ぬぱな節[うらぬぱなぶすぃ]
うらぬぱな道から ハリゾウシ 嘉利吉ぬ道から ハリゾウシ

玉代勢長傳編『八重山歌声楽譜付工工四全巻』(1989)pp.4-6
※引用は2006年版から

 わたしと同世代の人たちは、おそらく、沖縄県で教育を受けた人以外は、沖縄史について学校で学んだことはかなり少ないだろう。高校で日本史を選択していた人なら少しは知っていたのかもしれないが、世界史選択だったわたしは、漠然と琉球王国であったことを知っているぐらいで、かなり乱暴な言い方になってしまうが、沖縄戦で初めてわたしの日本史年表に沖縄が出てきた。ひょんなことでミンサー織の研究を始めた20年前、ゼロから沖縄史を学ばなければならず、あまりにも知らないことだらけで愕然とした。

 ましてや八重山である。専門書を紐解くまでもなく、まずはさらっと概略をつかみたいだけと思っても、手頃な本がなかなか手に入らず、八重山に行くたびに1冊、1冊と買い集めていった。

 民謡の主な舞台となる近世以降を見ていくことにしよう。片や江戸幕府が治める日本に対して、沖縄は琉球王国の時代である。しかし、1609年に琉球は島津氏に攻め入られ、琉球王国は独立しつつも、島津氏の支配下に置かれた。島津氏は琉球に役人を派遣し、年貢米などを上納することを強要した。

 そのあおりを受けて、八重山でも琉球王府による支配が苛烈になっていく。その支配の様子は、八重山民謡の一大テーマになっていると言って差し支えない。ただし、あからさまに描かれているのではない。

 琉球王府から八重山へは、在番(ざいばん)、在番筆者(ひっしゃ)という常駐の役人と、臨時に任命される検使(けんし)らが派遣されていた。王府からの命令に沿った八重山全体の施策は行政官庁にあたる蔵元(くらもと)で行われ、蔵元から村々へは村の長として与人(ゆんちゅ)や首里大屋子(しゅりうふやぐ)が、その補佐役として目差(めざし)といった士族の役人が派遣されて、村番所で執務が行われていた。

 「蔵ぬぱな節」の「蔵」は蔵元を指し(石垣市立八重山博物館の並びに跡地であることを示す石碑が建っている)、第1句の意味は〈蔵元へ続く花道を、縁起の良い道を〉となる。第2句は「誰々どぅつぃかいす ぢりぢりどぅうはらす〈どなたをご案内するのですか、どなたをお通しするのですか〉」、第3句は「沖縄主どぅつぃかいす 主ぬ前どぅうはらす〈琉球王府のお役人をご案内します、お役人様をお通しします〉」、第4句は「我ん女頭うとぅむす くり女童あとぅから〈女頭(平民の女性の役目)がお供をします、乙女たちも後からついていきます〉」と続いていく。

 蔵元へ通じる道を花道として讃え、つまりは王府が派遣する役人をたいそう敬っている。後に述べるように、八重山の民は重税に苦しめられていたにもかかわらず、「蔵ぬぱな節」は王府への敬服一色であり、苦しみは微塵も表れていない。苦しさを口にできないほど支配が強固だったのか、あるいは本心から王府を讃えていたのか、王府に対峙する単なる一例に過ぎないのか、どう読み解いたらいいのか戸惑うところだ。こうした唄は八重山民謡にはたくさんある。

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