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過酷な人頭税 | 大川布晒節/唄から文化を学ぶ 5 | 東京から唄う八重山民謡

大川布晒節[おおかわぬのさらしぶすぃ]
天加那志 御用ぬスリ はたゆみぬ御用布

玉代勢長傳編『八重山歌声楽譜付工工四全巻』(1989)pp.102-104
※引用は2006年版から

 琉球王へ納めるための極上の布は、と唄い出す「大川布晒節」は、第2句以降、織りあがった布を海水や真水で洗い清めて色出しし、干し、貢納して喜ぶさまを詠う。情景を想像すると、清々しさや解放感が湧き立ってくる。

 八重山の人々には琉球王府から人頭税が課せられていた。1637年に始まり、1659年には定額人頭税(八重山全体での上納高を、人口の増減や気象に関わらず一定に課す)になった。

 対象者は15歳から50歳までの男女。米納が基本であり、麦や粟などの他の穀物や、布、海や山の産物、労働などで代納することもあった。女性たちが織り、貢納された布は、琉球王家が使用したのはもちろん、琉球王府から薩摩への献上品でもあったのだという。

 宮城文氏の『八重山生活誌』によると、貢納布のうち、士族の女性に課せられたものが「定納布(ジョーノーヌヌ)」、平民の女性には「御用布(グイフ)」が課せられた。「大川布晒節」では「御用布」の漢字が当てられているが、文献によって他の当て字も見られるので、この歌詞だけで平民女性が織ったものと判断するのは早計だろう。

 だが、何にせよ、衣料を作るのはたいへんな作業である。ファストファッション全盛のいま、ブランドにこだわらなければ、服は高価なものではなくなり、むしろクローゼットに溢れる服をいかに「断捨離」するかが話題になるほどだ。

 原料の苧麻を育て、収穫し、繊維を取り出し、績んで繊維をつなぎ、撚りをかけてと、糸を作るまでに膨大な時間がかかり、さらに経糸を整え、緯糸を通しながら機を織る。これでやっと布になる。晒して色良い布にするのは、終わり間近の工程だ。これらすべてを人の手で行うのである。いまでも八重山上布の反物は非常に高価だが、さもありなん。むしろファストファッションがどうしてあそこまで安いのか、経済格差を背景とした搾取があればこそである。

 貢納布は、役人の監視の下、ちょっとおしゃべりしたりサボったりなんてできようもない環境で織られていて、それでも1日に15〜20センチメートル織るのがやっとだったようだ。服1着を作るのに必要な長さ1反は11尋(1尋=4尺として。ちなみに幅は1尺4寸)。1尋が5尺だったり、尺の長さが変わったり時代によって変遷はあるのだが、尺貫法の通りに1尺を30.3センチメートルと仮定すると、1反は13.332メートル。単純計算でも、1反を織るのに要する時間は、66〜88日である。

 1反を織り上げると精魂尽き果てて、ときには亡くなる女性もいたのだとか。そこまでしても検査で不合格になったら、穀物で代納しなければならない。過酷も過酷、極まっている。それが各個人、35年間も続くのだ。

 人頭税の苦労は、貢納布だけではない。水や耕地に恵まれない村に暮らす人々の場合、村外・島外に通って耕作することもあった。

 「鳩間節」は、冒頭では鳩間島の美しい景色を詠っているが、途中から西表島への通耕を描写する。鳩間島の対岸、西表島の小浦で熱心に耕作していたが、西表島の人々に言いがかりをつけられて小浦を返還することになり、かといって人頭税が減らされるわけではないので、西表島の別の場所を新たに開墾した。水の豊かな西表島の、とくに未開拓地は、当時はマラリアの有病地帯だった(1961年を最後に八重山ではマラリアの患者は発生していない)。開墾や稲作などのために通った人々が罹患して、鳩間島の人口が減ったこともあったようだ。

 また、人頭税の一家あたりの負担を減らすために、間引きや堕胎をしたとも伝えられる。与那国島の久部良集落にある幅3メートル、長さ10メートル、深さ7メートルの岩の割れ目であるクブラバリには、悲惨な伝承がある。ここを妊婦に飛ばせたのだという。飛び損なったら転落し、飛び越えられても流産しかねない。どれだけの妊婦が実際にそんな目にあったのかはわからないが、人頭税の過酷さを物語る。

 統治者が変わっても、すぐに新制度に切り替えられるものではく、しばらく古い統治システムが温存されるのはよくある話だ。ただ、沖縄ではそれが長期間に及んだ。明治時代に入り、1871(明治4)年の廃藩置県後に琉球王国が琉球藩となり、1879(明治12)年に武力で強制的に日本へと統合され沖縄県が置かれた「琉球処分」を経てもなお人頭税は続き、廃止されて地租へと切り替えられたのは1903(明治36)年である。

 宮城氏は『八重山生活誌』のなかで、3歳年上の姉が1年、課税されたところで人頭税が廃止され、「筆者はバラ算を持ってまわった経験はあるが課税されるまでにいたらなかったことをしあわせだったと思っている」(同書、76頁)と振り返る。「しあわせ」のひと言が、庶民にとっての人頭税を逆照射している。ちなみにバラ算とは、長さ、量、重さなどの数を藁の結び目で表したもの。文字のない生活をしていた庶民には、租税の数量を示すものだった。

 人頭税の課税対象者にならなかった宮城氏は、沖縄本島に出て高等教育を受け、石垣島に戻って女性初の教員や市議会議員として活躍した。詳細な生活誌を書き残せたのも、人頭税が廃止されたからこそだろう。

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