歴史に立ち会うということ | 桃里節/唄い継いでいく 7 | 東京から唄う八重山民謡
村自慢を詰め込んだ唄だ。果報(かふ)の村である、稲も粟も見事なほど実っている、若い娘がかわいい、と自慢話を陽気に繰り出していく。
そんな桃里村は、石垣島の東海岸、カラ岳の北側に本村が1732年に建てられ、農業のほか、航海する船の監視を担っていた。明和の大津波(1771年)で本村に被害はなかったが、その3年前に建てられた新村が流出し、283人が溺死。本村も人頭税に苦しみ、以降、衰微しつつも村は維持されたが、1914(大正3)年に廃村になった。現在の大里がその場所であり、戦後、琉球政府の移民計画による沖縄本島からの移住者によって再建されている。
桃里村の歴史から考えると、この唄は1732年から1771年までの間につくられたと想像される。もちろん、衰微してから振り返ってつくることもあり得なくはないが、それにしてはあまりにもメロディも歌詞も陽気である。かつての村の賑やかだった様子は、歴史書にも記録があるようだが、唄として留められると、より立体感を持って迫ってくる。衰微や廃村の憂き目にもかかわらず、唄が遺されていてありがたい。
カラ岳のカラは、空っぽのカラ。樹木が育たないハゲ山だったことが名前の由来なのだそうだ。このカラ岳に遠見番が設けられ、異国船などの見張りをしていたのだという。
わたしが、八重山からしばらく足が遠のいたのちに、民謡を始めて、コンクール新人賞を受験すべく2016年に久しぶりに石垣島に降り立ったときには、いまの新しい空港だった。以前の空港は、飛行機のタラップを降りながら外気に包まれたので、熱中症になりやすいわたしは、飛行機を出る瞬間に覚悟をしたものだった。いまはすいすいと涼しい空港に吸い込まれていき、一息つくことができる。空港の出口から出て亜熱帯らしい太陽光や暑さに覆われ、観光客から歓声が上がる。
この新しい空港で飛行機が安全に離発着できるように、カラ岳の一部が削られたと知ったのは、入門から数年経ち、「桃里節」を習ったあとだった。その日のレッスンで師匠は、カラ岳の名前の由来と、桃里村がもうないことしか説明しなかったのだが、それでは飽き足らずにあれこれ調べているうちに、そのことに行きついた。
空港移転までの紆余曲折は折々に耳にしていたけれど、詳らかには知らないので、ここでは触れないでおく。「空港からカラ岳を見られるよ」と師匠に聞いて、展望したときに、以前のカラ岳の記憶はないのだが(たぶん関心を持って見たことがなかった)、わたしはたしかに、カラ岳の前の姿のころの石垣島を知っていて、いまの姿になったために新空港を利用できるのだと、カラ岳のビフォー・アフターが自分の傍らで起きたことだと感じた。
わたしが八重山に初めて訪れたのは1999年。それ以前の八重山の歴史は、わたしとほぼかかわりなく動いてきたのであり、八重山民謡もそのなかにあり、八重山の人だけのものとして、長らくアンタッチャブルなものとして眺めていた。7年前、エイッと思い切って民謡の世界に飛び込んでみたものの、八重山の人のものであるという感覚はずっとあり続けている。
だが、八重山民謡で詠われた景色が変化するところに、わたしは立ち会ってしまった。
いま、東京で八重山民謡を楽しんでいる人は多く、毎年、コンクールにたくさんの東京人が挑んでいる。カラ岳を削ってできた航路を通って新空港に降り、受験会場に向かう。ついでに観光もする。八重山の人も新空港から島外に出かけていく。
この高速でグローバルな時代に、人の往来の規模がますます大きくなるなかで、八重山民謡だけが隔絶されて存在し続けることはない。そもそも八重山民謡が、時代時代の交流の足跡が見られる唄の集合体である。いい唄がたくさんあるから、東京にいながら唄わせてもらおうということではなく、わたし自身も八重山民謡史に入り込んだのだと自覚しながら、唄い続けていきたい。