解釈を引き寄せる | 目出度節/唄から文化を学ぶ 8 | 東京から唄う八重山民謡
たまたま石垣島滞在中に舞踊の発表会があると聞いて、石垣市民会館に行ったときのこと。「五福の舞」という豪華なタイトルの演目が始まり、1人目の踊り手が登場するや否や、目が離せなくなった。頭上に、頭より大きな松の飾りを載せて現れたのである。続いて竹、梅、鶴、亀。遠目にも燦然と輝く1人1福の頭飾りが5つ集まって、五福だったのだ。
ちなみに五福の意味を辞書に従って示すと、人としての5つの幸福であり、長寿、富裕、健康、徳を好むこと、天命を全うすること、である。
松・竹・梅・鶴・亀も、辞書的な五福と重ならなくもないが、日本語標準語の感覚では「松竹梅」と「鶴亀」は別の吉祥アイテムである。鶴亀は長寿のめでたさの象徴であり、松竹梅は現在ではほぼ鰻重やお弁当の3等級で目にするぐらいだ。
五福の5人が金の扇を両手に踊る様子は絢爛豪華であり、その舞台そのものも豪華だった。踊り手の背景に下がる紺地の紅型の垂れ幕にも、松竹梅鶴亀が描かれていたのだ。五福の前で五福。ありがたいことこの上ない。
市民会館の垂れ幕に限らず、松竹梅や鶴亀が描かれた紅型は、八重山のみならず沖縄一帯でわりとよく目にする。松竹梅は中国由来であるし、豪華なものはみんな好きだよね、とも思うのだが、長らく引っかかるものがあった。風雪や厳寒に耐える常緑の松や竹と、ほかに先駆けて咲く梅、だからめでたいはずである。でも、沖縄はだいたい暖かいし、常緑の植物として松や竹が特段目立つわけではなく、沖縄でよく見られる寒緋桜は梅とほぼ同時期に咲く。また、石垣島の川平湾で乗ったグラスボートからゆったりと泳ぐ海亀を見たときには、神々しさを感じたものだが、鶴はというと、世界には15種類が生息しているそうだが、沖縄に飛来するとは特に聞いたことがない。
川平には「鶴亀節」があることだし、鶴と何らかの縁があるのかなぁなどと考えるともなく過ごしていたある日、紅型で描かれる松竹梅や鶴亀は、友禅染を参考にして取り入れられたモチーフであると知り、大和由来であったかと俄然納得した。ある土地で好まれるモチーフであっても、必ずしもその土地にあるものとは限らない。麒麟や鳳凰、ユニコーンといった架空のモチーフが尊重される土地もあることを思えば、沖縄や八重山にとっての松竹梅・鶴亀はまだリアルなほうだ。
「目出度節」は冒頭に引用した歌詞だけなく、もともと石垣島の宮良村で唄われていた歌詞がある。
この歌詞も、冒頭に引用した歌詞も、どちらも字面だけでだいたい意味がわかるのは、成立したのが1843年と比較的新しいからかもしれない。この2種類の歌詞で、なにより違うのは囃子である。教本には明記されていないのだが、元歌ではミディタイと言い、「松は~」のほうはメデタイと言わなければいけない。
「松は~」を先に習ったので、この歌詞はわかりやすいし、メデタイメデタイと連呼して賑やかでいいなと思っていたのだが、後から元歌を習ってミディタイと唄ってみると、こちらはこちらでいかにも八重山風の発音なので違和感がない。
「松は~」のほうは、第1句の松に続いて、第2句で竹、第3句で梅を詠い、教本はここまでだが、第4句として鶴亀が登場する(囃子の「サンサ」「メデタイメデタイ」は省略した)。
まさに大和由来の五福が勢揃いである。
囃子がメデタイという日本語標準語の発音になることに加えて、もう1つわたしには気になるところがある。第2句の「君が万代の」である。文献によってはキミガユルズユヌと八重山風に読ませるものもあるのだが、少なくともわたしが習ったのはここは明らかに日本語標準語風に読む。「君」が君子の意味だったとして琉球王を指しているのか前後からははっきりしないし、「万代」が長く続く世という意味だけでなく、幸福な世の中という含意もあるのであれば、他の唄から考えると「昔世」「神ぬ世」「弥勒世」などを用いるのがスタンダードではなかろうか。
元歌が1843年に成立したことから考えると、五福の歌詞は明治以降(1868年~)にできたのかもしれない。そう仮定すると、「君」は「君が代」と同じように天皇を指すのかもしれない。「君」にかかわる言葉だから、ここだけは日本語標準語で言っているのかもしれない。という仮説は立てられるが、いまのところわたしには証明する術がない。
ただ仮説の通りだったとしても、なにもこれだけを根拠に天皇制を称揚する歌詞だと言う気はない。この歌詞ができたころには、日本語標準語風のことばや発音を織り交ぜることが当世風だった、という可能性もあるだろう。現代のポップスで、日本語の歌詞に英語の歌詞が混ざるのが、格好いいとされているように。文化やことばのマンチャー(混ざり合う)を見るのも、八重山民謡の面白さではないかと、五福から考えさせられた。
「五福の舞」が興味深かったことを師匠に報告したところ、「五福に、長寿を象徴するじいさんとばあさんが加わわると、七福神になるよ」と師匠は得意げに語り始めた。え、七福神ですか? 七福神ってたしか、恵比寿とか大黒天とか……と自問する間もなく、師匠は指折り数えながら「松、竹、梅に、鶴、亀、じいさん、ばあさん、で7でしょ。だから七福神」。わたしが知っているのと違うラインナップでも「七福神」と呼ぶことに瞬時にはピンとこなかったが、たしかに福が7つである。師匠の父は踊りの名手で、この七福神が登場する「高砂の舞」の踊りを伝えたのだという。
五福も、七福神も、なんて豪胆で、エキサイティングな解釈だろう。ことばを定義づけられた範囲内に押しとどめるのではなく、自分たちに引き寄せながら意味を生き生きと変えていく。名称も由来も構成もマンチャーだが、五つの福、七つの福を足し算した以上の福福しさをことばが放っている。メデタイメデタイ。