賄い女の人生 | 仲筋ぬぬべま節/唄から文化を学ぶ 4 | 東京から唄う八重山民謡
八重山民謡に描かれる女性として「賄い女」を無視することはできないだろう。離島や、石垣島のなかでも中心地から離れた場所に置かれた村番所に蔵元から派遣された役人は、妻子がいても単身で任地に赴いた。3年間の任期中に身の回りの世話をするという名目の現地妻が賄い女である。
村中の少女たちから、器量良しが選ばれていたのは言うまでもない。当時の役人の権威を考えれば、指名されれば断りようがない。
「仲筋ぬぬべま節」では、新城島の役人の賄い女となって竹富島を去ったヌベマを思って、竹富島に残る母が切なさを募らせている。賄い女が、自分の島に赴任してきた役人にあてがわれるだけでなく、別の島に送り出されるケースもあったことは、この唄で知った。竹富島の役人が、貢納布の原料である苧麻や、新城島の名産品であった「パナリ焼き」という焼物の甕の提供を新城島の役人に頼んだところ、交換条件として賄い女を差し出すことが求められたのだという。
賄い女を迎える役人本人が見初めていたり、評判を聞きつけて我がものにしようとしたりという主体的な選別があれば、そんな時代だったのかもしれないと想像することはできる(まったく共感はできないけれど、いまでも同様の女性への虐待は、世界中で散見される)。だが「仲筋ぬぬべま節」の場合、ヌベマに賄い女の任を押し付けるのは、差し出す側の竹富島の役人なのである。新城島の役人は、竹富島の役人の選択眼に任せているというわけだ。
容姿の好みやら気立の良さやら、少なくとも相性などから賄い女とする女性を自ら選ぶのではなく、上等の女として差し出された女性であれば個性は問わないという新城島の役人の価値観に閉口する。女性をどのようにランク付けするのか、その方法が役人社会で共有されていたということだろう。
そもそも、いかに当時、苧麻や甕が貴重であったとしても、それが1人の女性と等価であったというのは、あまりにも人権がどこ吹く風である。
一方で、賄い女になるのは名誉なことであり、女性たちの憧れであった、とも伝えられている。たしかに役人と生活を共にすることで税や生活苦から逃れられ、さらに賄い女の親も役人との間にできた子も名誉に浴することができたようなので、賄い女になりたいと願う女性もいたかもしれない。ただそれは、琉球王国のヒエラルキーにおける八重山の位置と、さらに女性たちは持って生まれた容姿で価値が決まった社会であったことを勘案しなければいけないだろう。
「なかなん節」では、ある女性が役人の目に留まり、将来を誓い合っていた恋人から引き離されて、役人との恋に染まる。「きやいそう節」では、大勢のなかから賄い女として選ばれた少女が、役人と恋仲になる。これらのエピソードを、わたしはそのままに受け取ることはできない。「恋」は女性たちの境遇の対極にある、幸せを象徴する観念である。恋を持ち出すことによって無惨さを覆い隠し、不幸なことなどなかったかのようにしてしまおうという意図が感じられる。賄い女を名誉だとする言説も、利点を針小棒大に語ってはいないだろうか。
後述する「崎山節」の舞台となった西表島の崎山村について、その村に暮らしていた川平永美氏による回想録『崎山節のふるさと 西表島の歌と昔話』が刊行されているのだが、じつは1903(明治36)年生まれの川平氏の父親は石垣島から派遣されていた最後の役人で、母親は賄い女だった。父の任期後、川平氏の兄は父とともに石垣島に渡り、母と川平氏は崎山村に残され、のちに母は別の男性と「再婚」する。
明治時代に至ってもなお賄い女の風習が残っていたことに驚くが、子持ちの元賄い女が結婚したことに、わたしは少なからず安堵した。少女が賄い女にされ、役人が去った後の長い人生をどのように生きたのか、その一端を見たからだ。
ヌベマはどんな人生を送ったのだろう。竹富島に戻ってこられたのだろうか。母娘は再び会えたのだろうか。