私の新作長編小説「切望ブルー、ピンクフォトグラフ、イエローラブ」、本日発売です
私の新作長編小説「切望ブルー、ピンクフォトグラフ、イエローラブ」、本日発売です。
リアル書店では、中野ブロードウェイ3F、タコシェさんに、入荷しています。
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めがね書林にて、サイン本を発売しています。
どうぞ、よろしくお願いします<(_ _)>
スマホの充電が完了すると、透き通った満腹感が胃にわき起こる。きみは、そんな奇妙な感覚を持っている。
電池の残量と自分が浅く深くつながっている。
ある日、スマホの電池がぷつんと切れたことがあった。自分の息の根が止まったような気がした。あ。自分が死んだ、ときみは思った。
外出しているとき、きみはたいていスマホで、音楽を聴き続けている。
音楽を聴きながら、スマホに収められた、ある写真を定期的にのぞく。
ふっと、息がもれる。ミントに似た香りがする。いや、香りなんてしない。プールで泳いでいるとき、苦しくなって、顔を上げる。息切れ。ごぼごぼ。大きく口をあけて、息を吸う。息継ぎ。そう、あの感じ。
深く、苦しい。
インスタグラムをやっていると、スマホの電池の減りが早い、と聞いたことがある。インスタをやっていないきみに事実はわからないが、それならぼくには、インスタはできないな、ときみは思う。
きみは女がいない男である。背丈は百六十八センチで、体重は五十キロ。スポーツマンとは正反対の体型である。基本的に、秀才タイプで、学生時代、成績は常によかった。顔面の彫りは深く、瞳が大きい。じつはイケメンと呼んでもいいくらいのマスクをしていたのだが、女にもてない。
このままでは妖精になるな、ときみはときどき考える。三十歳までに童貞を捨てないと、妖精になるという都市伝説があるのだ。特別なちから。すなわち魔法が使えるようになるということで、ネットの一部では神聖視されているが、世間一般では、とくに男たちのあいだでは、たいていは侮蔑、あるいは揶揄の対象でしかなかった。きみは二十五歳になったばかりだった。
きみは童貞だが、女のリアルを知っている。思い出したくもない、ときみは思う。多くの妖精男子はそれを知らない。女の妄想だけを食べて生きている。女を知った瞬間、得るものがあるかわりに、おそらく失うものもあるだろう。
それは、妄想力である。
妖精化していくことに対して、きみは、恐怖や恥ずかしい感覚、苦しい感情を持っていなかった。むしろ、清々しく心地のよい、爽快感があった。
きみは音楽が好きだった。とくに、ネオアコースティック(ネオアコ)と呼ばれるギターメインのインディーポップが。ギターをじゃかじゃかかき鳴らす。美しいメロディー、清新なリズム。他人の耳に媚びない、ひねくれた音楽的な姿勢。そこには、普遍的な青春の輝きがあった。自分が持っていない、自分には決してない輝きだ。
内的な変化があって、きみはますますアナログ・レコードを聴き、ひとりぼっちで時間を過ごすことを好むようになった。
中古レコード店の、レコードが陳列されている箱、俗称エサ箱のなかを黙々とディグった。世界には、自分とレコードしか存在しない。自分とレコードのあいだに、何もない。
きみは孤独を愛した。きみにとって、孤独を愛するとはそういう意味だった。
ザ・ブリリアント・コーナーズの「Delilah Sands」の7インチと12インチシングル。
中古レコード店で、偶然、二枚いっしょにこのレコードを手に入れたとき、きみは心のなかで、快哉を叫んだ。ガッツポーズを取った。ネオアコフリークのあいだでは、有名な一枚だが、レコードでは持っていなかった。ネオアコは三十年前にピークを迎えた音楽である。多くは、メジャーではなく、インディーズのレーベルから発売されている。また、リリースの枚数が多くない上、発売後、すぐに廃盤になり、入手困難になってしまったレコードも少なくない。遅れてきたネオアコフリークには、なかなか手に入らなかったのである。
ネオアコは、当時、洋楽好きの日本の若者が洋楽の文脈で音楽を作り、日本人でも洋楽が作れるのだということを証明して見せた最初のジャンルである。
日本人でも、かっこいい洋楽が作れる。
洋楽と邦楽の壁が崩れ去った瞬間だった。
レコード店で、ザ・ブリリアント・コーナーズのシングルをレジに差し出しながら、こういう小さな感動をどんどん積み重ねていけば、そうすれば、女がいなくても、意外に美しく、豊潤な人生を送れる、ときみは思う。
その後、音楽好きの仲間をネットで見つけ、一緒に音楽を聴く楽しみを発見した。
(「切望ブルー、ピンクフォトグラフ、イエローラブ」冒頭)