「極北」あとがき 私がいなくても、あなたがいれば
下記の文章は、私の書籍「極北」(櫻門書房)のあとがきです。私の小説に対する考え方がよく出ていると思うので、再録しました。もし読んでお気に召すようでしたら、ぜひ手に取ってみてください。
ネット書店のamazon、めがね書林、中野ブロードウエイ3Fのタコシェで取り扱っています。
小説は依頼があって書く、ということを大沢在昌さんのエッセイで読んだことがある。職業作家は、当然、そうだろう。雑誌の編集者から、あらかじめ、短編か、長編か、あるいは単発か、連載か、原稿の枚数、時にはテーマさえ決められて、話がきてから初めて書き始める。それがプロだ。
しかしながら、この世には依頼などないのに、小説を書き始めるひとたちがいる。ネットに書いて発表しているひとたちの多くはそういう書き手だ。これはもう、かぞえることが不可能なくらいの書き手がいる。
ネットの場合は、作者が自発的に削除しない限り、消えない。残りつづける。そして、毎日、更新されつづける。
この作品数の膨大さを想像すると、私は、途方に暮れたような気分になる。
多くの書き手は真剣だ。自分の考えを、あるいは内に秘めた思いを伝えたくて、書く。
だが、この思いのすべてを受け止めるひと、つまり隅から隅までネットに掲載されたすべての小説を読んでいるひとは、おそらくこの世に一人もいないだろう。
観客のいない舞台。聴衆のいないライブ。読者のいない小説。
私は、自発的に小説を書きつづけている一人だ。
自発的、ということは、もはや他者が存在しない、ということだ。私が小説を書かなくても、誰も困らないということだ。いや。私が小説を書かなくなった、ということに、気がつくひとさえいないということだ。
ひっそりと、いつの間にか消える。
それでも私は、書きつづけている。金銭的な利益がないのだから、生活のためではない。仕事ではないが、仕事に近い何か。あるいは、仕事以上の何か。 その答えはない。いまだに、見つからない。
私がいなくても、あなたがいればといつも思う。私などいる必要はないのだ。書く必要がないのだ。あなたがいれば。
私がいなくても、あなたがいればとは、響が環先生にいったせりふだが、それは、私の悲鳴、私の気持そのものなのかもしれない。
この小説は、初めはネットに書いた。タイトルは「LOVE SICK」だった。その後、「lOVe sICk」と改めて、書きすすめた。小説のなかで、位置がいっているが、大文字、小文字をイレギュラーに含んだアルファベットのごつごつしたその表記そのものが、「恋の病気」ぶりを主張しているような気がしたからである。
決定稿とはいったいなんなのだろうか。
どれだけ書いても、訂正したい文章が出てくる。推敲が終わらない。そんな気さえ、してくる。
創作とは、U2の曲のタイトルではないが(あるいはミスチルの)、終りなき旅のようなものではないかと、つくづくそんな思いがしている。
小説をいったんネットから引き下げ、全面的に改稿した。特に冒頭部分は原稿用紙にして、十枚分くらい追加した。
その結果、タイトルは「極北」へと変った。
数年後、この作品を読み返すと、また推敲したくなるのかもしれない。
私の作品に関しては、決定稿など、ないのではないか。そんな気がしている。
ネットで連載中に、毎回読みにきては、好意的なコメントを書き残してくれたひとがいた。ある日、ネットをやめます、と突然、書き残して、消えていった。それ以来、消息はつかめない。あなたが応援してくれたおかげで、いまも私は、こうやって小説を書きつづけている。ありがとうございました。
なお、絶対音感についての記述は、ネットに掲載された文章を参考にさせていただきました。関係者各位に感謝いたします。
緒 真坂