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【自分とゲーム】あるマイコン少年の告白

※サムネイルの写真は、HAL研究所公式サイトの「PasocomMini MZ-80C」製品ページより引用しています。

ゲームライターマガジンも、従来の形の記事は今回が最後となります。今後は【基本無料版に移行しますので、引き続きよろしくお願いします。

というわけで今回のテーマは【自分とゲーム】。なかなかに大変なテーマだし、つい先日『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観たこともあり、思いっきり自分語りに特化して、自分とゲームが出会った頃の思い出を回想してみることにしました。まぁ、一区切りということでご容赦を。

ビデオゲームが世の中に登場した記憶

オレは『怪奇大作戦』と同い年の1968年生まれなので、ビデオゲーム産業の勃興をリアルタイムに体験してきた世代だったりします。自分が幼稚園や小学校低学年だった頃のゲームセンター……というか、デパートや遊園地のゲームコーナーには、エレメカやピンボールやエアホッケーしかなくて。そこに『PONG』や『ウエスタンガン』がだんだんと置かれていった、みたいな空気を漠然と覚えています。また地元・徳島の一大イベントである阿波踊りの夜には、『PONG』の露店が出ていた記憶もあります。

そのうちにテーブル筐体のアーケードゲームが出てきて、親類の家の近所にあった喫茶店で、『サーカス』や『スペースインベーダー』をプレイするようになりました。とはいえその頃は、連コインという概念もなければ、金銭的余裕もなかったですが。

ただ、以前にプロフィール的な話をした時にも書いたのですが、オレがビデオゲームと本格的に接するようになったのは、当時は「マイコン」と呼ばれていた黎明期のパーソナルコンピュータを通じてです。

ゲームが遊べる「マイコン」との出会い

オレが小学生の頃には、NHK教育に『みんなの科学』という番組がありまして。この番組がガチで電子工作(……は分かりますよね? ICやトランジスタをハンダ付けして、ラジオとかブザーとかを組み立てるアレです)を取り扱っていたんですよ。どれぐらいガチかというと、番組宛に切手を貼った返信用封筒を送ると、番組内で紹介した電子工作の回路図が送られてくるという(笑)。

『みんなの科学』で電子工作に興味を持った小学生のオレは、『ラジオの製作』『初歩のラジオ』といった電子工作雑誌を買うようになったのですが、その誌面に紹介されていたのが、当時発売されたばかりのマイコン、MZ-80Kでした。

1978年末に発売されたシャープのMZ-80Kは、モノクロモニタやカセットデッキが一体になったオールインワン型で、つまりこれ一台あれば周辺機器を揃えることなくすぐ使えるという、当時としては画期的なコンピュータでした(※ただしMZ-80Kはキーボードをハンダ付けする必要があるセミキットで19万8千円、それに対して完成品モデルのMZ-80Cは26万8千円という、今となってはわりと不思議なシリーズ構成になっていました)。

プログラム次第でいろんなことができる。なにより100円を入れなくてもゲームができる! そんな凄いマシンであるMZ-80K/Cに、徳島で直に触れることができたのは、2カ所しかありませんでした。ひとつは徳島駅前にあった、電子パーツショップの電器店。ただしここは、あくまで店頭のデモ用にMZ-80Cが置かれていただけなので、ちょっと触るだけならともかく、長時間ゲームを遊んだり、ましてやデータをセーブ・ロードしたりするわけにはいきません。

ところが徳島にはもうひとつ、徳島大学の近くに、いわゆるマイコンショップと呼ばれるお店がありました。こちらはMZ-80Kだけでなく、国内外のいろんなコンピュータがズラリと取り揃えられていた上に、これらのマシンが自由に開放されていて、いくら粘っても怒られない! オタクの入口に立った小学生にとっては、まさに夢のような場所だったのです。

そんなわけで、小学5年生ぐらいからの数年間、オレは日曜日になると(※土曜日は学校がまだ休みじゃなかった時代の話です)朝からそのマイコンショップへ出かけていって、開店から夕方の暗くなる時間まで居続けるという、そんな生活を送るようになりました。そうやって入り浸っていても、たまにマイコン雑誌を買ったりデータセーブ用のカセットテープを買ったりしていれば、お店の側も基本的には追い出したりはしないという、今考えるとじつにのんびりした時代でしたね。

マイコン雑誌の「プログラムリスト」

そうやってマイコンショップに入り浸っていたオレが何をやっていたかというと、ゲームを遊ぶ前にまず、マイコン雑誌に掲載されていたゲームのプログラムリストをひたすら手入力していたのです。

この当時はハドソンをはじめとするいくつかのソフトメーカーがカセットテープ入りのゲームソフトを販売していましたが、ソフト流通のメインになっていたのは、マイコン雑誌に掲載されていたプログラムリストでした。それだけに雑誌の側もプログラムリストの掲載には、かなり力が入っていたように思います。

記憶だけを頼りにフワッと語りますが、1970年代末から80年代前半のこの当時、いちばん権威のあったマイコン雑誌は『月刊アスキー』だったと思います。ただし『月刊アスキー』はコンピュータ業界などの硬派な記事が主体で、小学生にとってはチンプンカンプンでした。なのでオレ自身は、雑誌の後半にある青い紙を使ったホビー要素の強いページばかり眺めていた記憶があります。

ちなみに、この『月刊アスキー』の別冊として生まれたのが『ログイン』で、そこからさらに生まれたのが『ファミ通』で。40年経って、今では自分もそこに原稿を執筆したりしているのは、なんだか不思議ですね。

さて、1980年前後でいちばん勢いがあったマイコン雑誌といえば、工学社の『I/O』でしょう。なにしろ、レベルの高いゲームのプログラムリストが毎号掲載されていて、自分にとっては憧れの存在でした。特にカラーで画面を表示できるPC-8001が登場してからは、ゲームセンターのアーケードゲームと比べても決して見劣りしないクオリティのゲームが毎号ズラリと揃っていて、その紹介記事を読んでいるだけでもワクワクしていました。

ただ、そうやってゲームのレベルが高くなればなるほど、誌面に掲載されるプログラムの量は膨大になっていきます。しかもその大半は機械語のダンプリスト、つまり単なる16進数の数値がズラズラと羅列されるだけの状態です。そんなものが十数ページに渡って掲載されているのですから、これをミスなく全部手入力するというのは、とても人間ワザではないレベルです。そのため1982年ぐらいになると、掲載したゲームソフトのデータをカセットテープで販売するサービスも行われるようになり、だんだんと市販ゲームの世界へと近づいていくのを、その頃すでに中学生になっていた自分は感じていいました。

一段高い場所に置かれていた「AppleII」

この時に、雑誌のプログラムリストを入力してただ遊ぶ側から、自分でゲームを作る側に踏み出していれば、ひょっとしたら黎明期のゲーム業界で活躍するクリエイターになっていたのかもしれません。ですが実際は、ゲームやコンピュータ以外のものにも興味が出てきたこともあり、そうはならなかったのですが。

これまで語ったように、自分は小学校高学年から中学1年にかけてマイコンショップに入り浸っていたのですが、リアル中二の頃には映画やアニメにハマっていきます。上でも書いたように、ちょうどその頃には「ゲームはプログラムリストを手で入力するもの」から「お金を払って買うもの」に移り変わるのを感じていたこともあり、ゲームというかマイコンからは、いったん興味が離れていきました。

それが高校2年生になって突然、当時の人気マシンだったPC-8801mkIIFRが自宅にやってきて、ふたたび「パソコン」やゲームに触れるようになるのですが……それはそれで長くなるので、また別の機会に。

今回こうやって、自分がマイコン少年だった頃を思い返してみると、今まで気がつかなかったことが見えてきて。あの頃に入り浸っていたマイコンショップは、徳島大学工学部の学生なんかもいたりして、ある種のサロン状態だったのだと思います。

店内にはMZ-80KやPC-8001だけでなく、PET2001やTRS-80などの海外製マシンも置かれていて、その中でも一段高い位置に鎮座していたのが、AppleIIでした。カセットテープではなくフロッピーディスクドライブという謎の機械が取り付けられたAppleIIは、小学生だった自分にとっては手の届かない未知のマシンで。なんというか、すごく大人な感じだったんです。

それはこのマイコンショップにも言えることで。黎明期のコンピュータ業界らしいサロン的な雰囲気が、小学生の自分にとってすごく大人なものとして魅了されていたのだと思います……というのは、40年経った今になってようやく気がついたことですが。

そういう意味では、この当時の経験が自分の根っこのようなものになって、今でもこうしてゲームライターという仕事をしている理由のひとつになっている……のかもしれません。

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