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「仕方ない」というやさしさ
私には今年、95歳になるおばあちゃんがいる。
少し離れた実家に住むおばあちゃんには
なかなか頻繁には会えないのだけれど、
なぜかふと、おばあちゃんのあの言葉はやさしかったな…と
思い出すことがあった。
「おばあちゃんの言葉がやさしかった」なんて言うと、
まん丸した背中でいつもニコニコしながら孫の帰りを待っている
そんな、いかにもやさしそうなおばあちゃんを想像するかもしれないが
うちのおばあちゃんは、そんなもんではない。
昔の田舎の人特有の健康的なデリカシーのなさでもって、
こちらが傷つくことをズバズバ言ってくる。
(太ったね、その服変だね、もう1人子どもを産めばいいのに、
なんで帰ってきたの? などなどなど)
しゃんとしていて、家の中にいるより外で動いているのが
好き。
94歳になってやっと動きがスローになってきたものの、
90歳頃まではずっと家でも外でも
きびきびくるくる動きまわっていた記憶がある。
そんなおばあちゃんに私が持っていた印象は、決して
「あたたかかくこちらを見守ってくれるやさしいおばあちゃん」じゃなく
「耳が痛いことを言ってくる、きつめのおばあちゃん」だった。
そんなきついおばあちゃんが言ってくれた言葉で、
やさしいなぁと思えたのが「仕方ねえ」って言葉だった。
その言葉をおばあちゃんからかけられたのは、
実家に帰省していたときのことだった。
酔っぱらった私は、実家まで一緒に帰ってきてくれた彼氏に酒癖の悪さを
注意されたことから大喧嘩に。
その喧嘩を諫められた母ともバトルに発展。
両者と喧嘩する最中、気持ちがぐしゃぐしゃになった私は
家のふすまにグーパンチをし、どでかい穴を開けた。
パンチによって彼氏はひいたが、親子バトルは余計にヒートアップ。
私は母に向かって暴れ続け、暴言を吐き続けた。
そんな様子を妹に隠し撮りされていて、
その動画が制裁の意味を込めてなのか、単におもしろかったからなのか、
親戚一同のLINEに流される という
なかなかハードな一晩を過ごした翌朝だった。
「昨日はやっちまったな~」という気持ちと
私はなんてダメな人間なのだろうという気持ちを抱え
灰のようになって、ひとりでベッドの上に座っていたら、
おばあちゃんが部屋に入ってきた。
昨晩の醜態を責められる、怒られる…?
もっと傷つくことを言われる…?
と身構えていたらおばあちゃんは、一言
「ああゆうことも、あるさ。仕方ねえ」
と、だけ言ってスタスタ部屋を出ていった。
それが、すごくやさしかったのだ。
なんで酔っぱらっちゃったんだろう、
どうしてあんなこと言ったんだろう、
なんでまともにできないんだろう、
自分はなんてダメなんだろう、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい という自分責めの真っただ中にいた私に
「仕方ない」という言葉は、
「人間だからああゆう風な展開にもなるときもあるよ
仕方ない」
と、聞こえて、すごく救われた気がするのだ。
今は昔よりだんぜん自由になったり、
物理的に個人の努力でできることも増えたぶん、
自己責任の圧も、自己実現の圧も強い気がする。
「自分の機嫌は、自分でとろう」
「自分の人生の舵は、自分で握らないと」
「そうなったのは、あなたのせいでしょ?」
「自分次第で、人生は思い通りにつくれる」
すごくわかる。そうだと思うところもある。
自分の人生に責任は持ちたいし、舵を握って
コントロールもしたい。
人生思い通りになったら最高だ。
だけど、頑張っていてもどうにもできないこともあって
懸命にやった結果「仕方ねえ」という結果になることもある。
心のどこかに「仕方ねえ」という選択肢がないと
うまくいかなかったときに、徹底的に自分を責めてしまう気がする。
思えば、90年近く生きてきたおばあちゃんは
仕方ねえを何回も乗り越えてきた人だった。
親が決めた結婚、
子どもの死産(今の技術なら生きていたかもしれない)、
やるしかない仕事、
逃げられない舅と姑の世話、
そういった仕方ないことに耐え抜いて頑張ったからえらいんじゃなくて
それらに対して、きっと「仕方ねえ」と言いながら
淡々と向き合ってきたであろうおばあちゃん。
そんなおばあちゃんだから、あのときの私に
「仕方ねえ」と言ってくれたのかもしれない。
おばあちゃん、ありがとう。
まだ、何か起きたときに
「仕方ねえ」と思うよりは、
「自分のせい!」
と、自分を責めてしまうことのほうが多いけれど、
あのときのおばあちゃんの言葉のおかげで、
自分の心の奥底に「仕方ないよね」という小さな星もできたよ。
自己責任も自己実現も、きっと大事だ。
でも、「仕方ねえ」も、大事にしながら生きていきたい。