【はち切れそうな若さと虚しさ】
思い上がって舞い上がった少女が立っていたその地は、先人たちの苦労が造り上げたものだったということ。
彼らの偉大な努力の上に、このちっぽけな私が生かされていたのだということ。
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私の家のすぐ近くに、こんもりと杉の木々が茂る公園があった。遊具はほんの少しだけで、それよりも大きなお墓が2つあった。そこで散歩をしたり遊んだりして育ったので、気味悪いと思ったことも無かった。
物心ついた頃には、それは当たり前の景色としてあったので、誰の墓なのかも気にしたことがなかった。
その墓からすぐの場所に、新渡戸稲造記念館という、とても小さな建物があった。
古かったが、夏はクーラーが効いていて、入り口の帳簿に自分の名前を書くだけで無料で入館できたので、よく友達同士で遊びに行った。
到底解読できそうにない、ウネウネとした文字ばかりの手紙や文書が、ガラスケースの中に保管されていたり、
位の高い人を乗せて、担いで運ぶ駕籠(かご)という乗り物も展示されていた。
どんな人が乗っていたんだろうね、お姫様かな、と私達はヒソヒソ話した。
その横には、ガッシリとした鎧が展示されていて、兜からは、白髪混じりの長髪が垂れ下がっていた。あれは本物の髪の毛なのかな、怖いね、怖いね、と私達はソロソロ歩いた。
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現在、緑豊かなその町は、その昔、荒れ果てた荒野で、人間は住めないと言われていたそうだ。
そこを耕し、水を引き、豊かな大地へと開拓したのが新渡戸傳・十次郎親子だった。
十次郎の三男が、五千円札の顔にもなった新渡戸稲造である。
『太平洋の架け橋になりたい』とアメリカに目を向けながら、日本の武士道を英語で説いた。
憧れじゃない、夢じゃない。
彼にとって、アメリカ大陸への橋は、国際社会への道のりはハッキリと見えていて、現実だったのだろうと思った。
諦めない、叶うまでやる、という粘り強さは、代々受け継がれたものだろうか。
それは単なる血筋とかDNAとかの話ではなく、きっと、思想の継承なのかもしれないと、ボンヤリ思った。
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数年前だろうか、新渡戸稲造記念館が閉館すると知った。
大人になった今なら、数々の貴重な文献や展示品などの価値を理解できたかもしれないが、
私の中では暑い夏の避暑の場としての思い出しかないことが悔やまれる。
あんなにきれいに手入れされ、秋には公園の管理スタッフが落ち葉で焼き芋を焼いてくれたあの公園は、久々に帰省すると歩くのも困難なほど草が生い茂っていた。
時は無情に過ぎていく。
その虚しさは、図書館で、新渡戸稲造の言葉をノートに書き写していた14歳の私自身を思い返す時の虚しさに似ている。
未来や可能性に何の疑いも持たずにいた、はち切れそうな若さと、
20年後の現在、成し得なかったことや諦めたことを知ってしまった私自身とのギャップに感じる虚しさにとてもよく似ている。