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ノスタルジー

 何でも好き勝手に書いていいと言われれば、自ずと過去に意識が飛ぶ。現在のあれこれよりも、幼少期や学生時代に移ろいでいく。もう失われてしまったものや、二度と手にできない時間などに特別、哀愁を抱きやすい性質なのかもしれない。

 私の生まれ育った場所は青森県のとある市だ。もちろん田舎だが、ライフラインを支える店――スーパーやコンビニ、ドラッグストアなど――だけでなく、生活を豊かにするような店――ライブハウスや古着屋、輸入雑貨店など――もあった。 
 私は小さい頃から、妄想と現実をないまぜにする癖があった。ただそのせいで現実が欠落する訳でも妄想が正気を食い潰す訳でもなく、私の中の世界はそれなりに成り立っていた。 
 輸入雑貨店に入れば、ブリキじょうろの生まれ故郷に思いを馳せ、古着屋のアメコミTシャツを見れば航海するコンテナを思い浮かべた。文化センターでプラネタリウムを観ることもあったし、洋楽CDショップの視聴機から聴こえる歌声に焦がれたりもした。 
 父は単身赴任で家におらず、母は放任主義だったので、私は思う存分自転車を漕いで散策することができた。今思えば、少女は確実に世界を旅していた気がする。東北の田舎町で、制限されることなく自由に世界を飛び回り、想像がふんだんに練り込まれた現実を生きていた。 
 その町には、群を抜いて特別な店があった。商店街の一角。店名などは覚えていない。金物屋や靴屋が並通りにあって、その店だけは異質だった。 
 積み重なった木の樽を横目に引き戸に手をかける。カラカラと開いていく。薄い隙間からコーヒーの香りが漏れ出てくる。足を踏み入れる。コーヒーの香りの中に、明らかに様々な香りが溶け込んでいる。 
 店内は子供の私には広かった。店の中央に何種類ものコーヒー豆が置いてあるのは見えたが、そのさらに奥、ワインやビールの棚まで見に行くことはなかった。いつも、店に入ってすぐの棚の辺りをうろうろしていた。
 その棚には、見たこともない食品が並んでいたのだ。世界各国から青森の小さな町に呼び集められた品が所狭しと置かれていた。 KALDIやCOSTCOに出会う前の話である。ホットココアに小さなマシュマロが浮かんでいるのも、紙パックにマンゴープリンが詰まっているのも初めて目にした。スイスから、台湾から、アメリカから輸入された商品は、その国独特の匂いや色をまとって個性的だった。 
 その店に行くといつも誰かが来ていて――客ではなく店主の友人か商店街仲間といったところだったが――お喋りをしながらコーヒーを飲んでいた。店主は中年女性で、目が大きく肩に届くウェーブヘアをしていた。大きな声は、笑うとさらに大きかった。いつも色の深いワンピースやスカートで、まるでよく笑う魔女といった風だった。 
 深い深いコーヒー豆の匂いに様々な国の匂いと魔女の笑い声が溶けていた。雪深い田舎のDNAが知る由もない匂いが、華奢な体の中を駆け巡る。クラクラした。

 ある時、私は編み籠の中に重ねられたビニールパックに釘付けになった。オレンジや白やベージュの何種類もの粉が小分けパックに入れられた後、さらに大きなパックに詰められていた。店主の字で、『インドカレースパイスセット』と書かれてあった。 
 私の内臓が収縮した。腹が痛くなった。大人になった今でも時々起こるこの現象を、私は『サイン』と呼んでいる。何かを見たり思いついたりした際に、内臓がぎゅうぎゅうと締まることがあるのだ。
 これまでの経験では、留学生募集のポスターを見たとき、世界一周の本を手に取ったときなどがある。私の体が強い直感や興奮を持て余した結果起こる現象のようだ。そんな時は、「いって……うー……いでででで……」と呻きながらも行動に移すことに決めている。  
 私は腹を押さえながらレジに向かった。小銭をトレイの中に落として購入した。自転車を漕いで家まで一直線に帰った。
 帰るとすぐに鍋を出し、パックを開け、説明書を取り出した。色とりどりの香辛料。じゃがいもを出した。人参も玉ねぎも鶏肉も出した。母は料理好きだったので、大抵のものはたっぷりストックされていた。包丁を握る。無言で切り始めた。 
 しかし、意気込んで作ったインドカレーは残念な出来だった。まるで濁った水のようで、鍋底にはゴロゴロと野菜や肉が横たわっていた。カレーというより味噌汁だった。
 いや、でも食べてみればナイル川が浮かぶかもしれない。私は小皿に分けてその汁を飲んだ。恐ろしく不味かった。味噌汁に申し訳ないほど不味かった。 
 今思えば水の配分が適当過ぎただけのことだ。多かったのだ。おかげでとろみもなく味も薄いただの濁った汁になった。
 大人になった今では、諦められる。笑い飛ばせる。しかし当時十歳かそこらの少女にとって、期待を大きく裏切られる絶望感と、その原因が他の誰でもなく自分だったという後悔はすんなり笑い飛ばすには大きすぎた。 
 私は泣いた。大鍋一杯の汁を置き去りにして、子供部屋でひとり泣いた。 
 夕方、台所へ戻ってみると、大鍋はまだそこに居座っていた。泣き腫らした目で中を覗くと、水嵩が減っていた。誰か食べたの、と訊くと、兄と、帰省中の父が声を上げた。美味かったと言った。 
 薄味の汁が美味い訳がなかった。私は知らなかったのだと気づいた。本当に心の優しい人間は、こういう人たちのことをいうのだと気づいた。本当の父と兄に気づいた。

 大人になって帰省した際、あの店に行ってみた。店に入ってすぐ、手前の棚の辺りを見回していたら、大きな声が飛んできた。
 振り向くと魔女だった。髪の毛は耳下の辺りまで短くなっていたが、ウェーブはそのままだった。アイシャドウや紅、スカートの色が深みを増している気がした。より魔女らしくなっていた。大きな丸い目が私の目を覗き込む。
「いらっしゃい。何かお探し?」
 私は紙パックのマンゴープリンの話を出した。次の日帰省する弟に食べさせたいと思ったのだ。遠い記憶の中で、あのマンゴープリンは二人の大好物だった。
 魔女の丸い目がさらに広がった。
「あぁ、あれでしょ!こんな紙パックに入ってね、こうして切ると中身が出てくる、」
 私の声も思わず大きくなる。
「そうです!中身がズルンと出てきて!おっきな黄色いプリンが!」
「あれ美味しかったんだよねぇ!そうですか、そうですか、あれですか…」
 魔女の顔がみるみる翳った。
「あの商品は…もう入って来なくなっちゃったんですよ…。でも問い合わせしてみれば…もしかしたら…」
 私は手を大きく横に振った。帰省中であり、あと数日で戻ることを必死に説明した。魔女は何度も何度も謝り、私は何度も何度も頭を下げた。

 木枠のドアを引いた。がらがらと音がして、外の風が滑り込んでくる。コーヒーと魔女の匂いが薄れていく。
 私は少女時代を胸にしまった。風を切って自転車を漕いだ路。世界に通じていた私だけの旅路。田舎町の一角に濃く匂い立つ香りを胸にしまった。


またあの店に行ってみたいなぁ
今度はワインとコーヒーの棚も覗いてみたい


#お花の定期便 (毎週木曜更新)とは、湖嶋家に届くサブスクの花束を眺めながら、取り留めようもない独り言を垂れ流すだけのエッセイです〜




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