ルール逸脱への判断
ルールを守らない人が仲間外れになったり社会の中であれば処罰されることがある。それが例えば傷害や無慈悲な差別的行為をした人ならば重い処罰は致し方ない。しかし、みんなが少し我慢すればいいような軽い罪だったとき。そんなときにさえ世の中にはこういう人がいる。かなり多くいる。
私はこういう人は恐ろしい人だと思う。自分の手で人を裁くことに抵抗をもたない人は恐ろしい。
大切な人を殺されたわけでもない。本当に自分の大切なものを全否定されたわけでもない。また、その人が見えないところで体調を崩して心のバランスを乱していたかもしれない。本当は自分がその人を追い詰めるような行動をとっていたのかもしれない。あらゆる可能性も追わずに、仲間や社会のルールを逸脱したというただそれだけで排斥的に扱うような人は恐ろしい。
こういうことをいうと、こう返すかもしれない。
時間を使って考えない人はなおさら人を処罰する権利はない。その人のために考えてあげられないなら、それは悪くはないがいじわるかもしれない。さっさと仲間外れにすることを急いでいるからだ。さっさと外してしまおう→さっさと外したい、それは快感とつながっていないか?もしそうならよく考えなおす必要があるかもしれない。快感を覚えるのは悪いことではない。人間なら誰しもそれを体験しているからだ。問題はそこでぐっとこらえられないことだ。
こういうことをいうと、こう返すかもしれない。
ぐっとこらえることは確かにストレスだ。かりに、その人のせいで自分が傷ついたとして、にも関わらずその人のために自分がこらえるのはアンフェアと思うかもしれない。しかし、その傷がどう判断しても深くない場合、こらえることは重要なことだと私は考える。ぐっとこらえてその人に真意を問うたり、傷ついた旨を伝えて謝ってほしいと伝えるべきなのだ。
また、もしかしたらアンフェアではないかもしれない。ルールを破ってしまった側も破られた側と同じぐらいストレスを抱えているかもしれない。それが感じられないにしても引き返せずにうじうじとごまかしているだけかもしれない。
こういうことをいうと、さらにこう返すかもしれない。
破られた側もきっとどこかでルールを破ったことがあるはずだし、それに対する周りの目にストレスを感じたことがあるから、破った側のストレスも理解できるはずだ。ストレスは案外、お互いに背負っているものだ。背負っていない人もいる、と考える必要はない。
こんなにも譲歩する必要はないかもしれない。しかし、冒頭を繰り返すが、それがそこまで重大なルールでもないし、実際にそこまで被害をうけているわけでもない、少し迷惑だったぐらいのことで上述の倫理観を要求するのは酷というものだ。もっと人にやさしくあるべきだ。これは甘やかしていると捉えられるかもしれないが、もちろん破った側には怒りをぶつけたり、説得を試みるべきだ。そういうアプローチを試みないで早急に排斥するのは恐ろしいことだ、と言いたい。
これは以下の北村晴男弁護士の主張に共感して書いたものです。厳しい処罰を受けたアスリートについて言及しています。