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確固たる思想なんて捨てろん

自分の考えがハッキリとしている、というのは頭の中が何年も前から変わっていないということ。様々なものに触れ、物事に対する自分の意見を揺すり、覆し、自らを不安定な状態に置くこと。そこからしか「考える」はスタートしない。ずーっと居心地の良いコンフォートゾーンの中にいる井の中の蛙は、イン・ウェルの考え方しか知らない。だからそれが絶対(↔︎相対)で、唯一(↔︎多様)の正解だと思っている。正解は人それぞれなのに、自分と異なる解を間違いだと決め付ける。この世界はあなたが考えているより複雑で、白黒ハッキリとはしておらず、無数のグラデーションになっているんですけど。たとえば性だって、ハッキリとふたつに分かれていないでしょう。

テレビからしか情報を得ていないひとと話しても、テレビと喋っているようだ。そのひとの話す内容は、すべて予想通り。そんな人間をTVerって名付けたい。
テレビってスポンサーに都合の悪いことは言わないんだよね。大企業は大儲けしているよ、例えば原発をつくることで。例えば辺野古を埋め立てることで。五輪だってそう。もちろん頑張ってる製作陣がつくる番組もあるんだろうけど、ジャーナリズム(権力監視)としては機能していない。そんなものからしか情報を得ていないってこわいことだと思う。動物の生存戦略として。平和ボケなのかな、順風満帆に生きてきたひとは。与えられたレールから降りたことの無いひとは。誰しも窮地に陥ってはじめてものを考えはじめるから。

そんな、話す内容が予測できるようなつまらない人間にはなりたくない。頭のアップデートがされていないことは致命的だ。だから頻繁に、わけわかんないものに触れる必要がある。それが文化・芸術の役割だ。ふわふわしたお洒落なだけのものではないんだよ。それが更新するということなのかもしれない。わかりやすいものばかり差し出されるけど、それってバカにされているんだよ。

岡本太郎って爆発のイメージが付けられているけれど、実はとても冷静で論理的なひとだったそうで、彼曰く、
『芸術はうまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない。』

キレイ!ココロがおちつく!ってのはトイレのポスターには良いけれどそれは芸術ではない、とのこと。既存の価値観を覆す力があるかどうかってことかな。

本当の芸術って、鑑賞者に対する嫌がらせのようなものだよね。だって、ここちよくないものを見せられるんだもの。観てるときは意味不明でも、なぜかその後ずっと引っかかり続ける。その引っかかりがトリガーとなって、価値観が拡がる。違和感なくすんなり受け入れられるものなんて、いまの流行に迎合してつくられたものなんじゃないか。つくり手の自己中な行為の先につくられたものが、やっぱりカッコいい。

だから芸術家ってすごいなあと思う。
理解の範囲を超えたものをつくるんだから。

見ていてここちよいものをつくるのではなく、予想(予測?)できないものをつくること。そのためには恣意性を排除すること。偶然をたくさん取り入れる方法でつくること。芸人で考えると想像しやすいね。置きに行く笑いを取るのではなく、何か化学反応的なことを起こそうとするひと。そんなお笑いにはとてもわくわくさせられる。

だから置きに行った考えなんて、さっさと捨てるべきなんだよ。物事を知れば知るほどわからないことは増えていく。確固たる意見を持った人間になっちゃダメだ。原形がわからなくなるほど更新を繰り返し、気付いたらわけわかんない形になっていたい。予測できるレールの上を歩くだけの人生なんて、なにがおもしろいの?
 

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